▲半藤一利さんのこと
先日作家の半藤一利さんが逝去されたことを新聞報道で知りました。この人の娘婿にして参議院議員の北村経夫氏は産経新聞記者の頃からの友人です。お悔やみのメールを送りました。直ちに北村さんから、返信があり、そこには、昨年暮れまでは原稿を書いていましたが、今年に入って食事を摂らなくなられて、急速に衰えられたとありました。「『燃え尽きた感』がします、『俺はもういいよ、迷惑かけたくねえから、死にてえよ』と言いつつ逝かれた」と。「見事でした」と結ばれた返信が返ってきました。私も見習いたいものと思います。
現職時代、私が半藤さんに会わせて欲しいとの願いをぶつけると、他の友人からも同じ要望があり、一緒でよければとのことで承諾をいただきました。4人でお会いし食事をしたのですが、開口一番、「あなたはくだらない本を随分と読む人ですねぇ」と、ぽつり。事前に私の著作『忙中本ありー新幹線車中読書録』を献本していたことへの反応だったのです。私は、半藤先生の本も入ってるのですが、と言いたいのをぐっと堪えて「政治家の資産公開をするよりも、どんな本をどのように読んだかといった読書録を公開する方が情報公開としては良いと思うのです」ときっぱり述べました。それには、半藤さんもそれは仰る通りですね、と言ってくれたことを昨日のようにまざまざと思い起こします。
90歳で亡くなった半藤さんは、最後の最後までジャーナリストの生き様を貫かれたと思われます。彼は若き日に『文春』編集長だったと聞くと、右寄りの論調の人物と見がちですが、リベラルな視点を常に忘れないバランスの取れた論考で鳴らした人であったと私は尊敬していました。
◆瀬戸内寂聴さんのこと
その残念な訃報と踵を接して、女流作家の瀬戸内寂聴さんのコラム『寂聴 残された日々67』ー「数え百歳の正月に」(産経新聞1-14付け)を目にしました。
「母の死んだ歳(51歳)に出離しなかったら、私は果たして今まで生きていただろうか。中尊寺の奥の部屋で、髪をおろしながら、私は内心『おかあさん、これでよかったのね』と、あの世の母に呼びかけていた。まさか、あの時にこの世で百歳まで生きのびるなどと考えられただろうか。数え百歳を迎えて振り返る時、何とまあ、百年の短かかった事よ、という感慨のみに包まれてくる」
〝百年の短かった事よ〟という表現に、やっぱりなあとの感慨に私は包まれてきます。寂聴さんとは一度だけ新幹線車中で見かけたのですが、声をかけるのは憚られました。話す中身に躊躇したのです。今ならあれもこれもテーマは浮かんできますが。尤も車中、ついでに、という乗りは褒められたことではないでしょう。今でも、この人独特の笑顔が忘れられません。百歳を迎えて、ご自分の母親とのやりとりを記される感性に好感を抱きます。
●そして自分のこと
ついこの間、満75歳の後期高齢者の歳になって、私もまた、あっという間だったことを実感しました。これから仮に25年生きたとしても、長かったなあとの感慨に浸ることは恐らくないだろうと思います。私の母は満58歳で亡くなり、父は満78歳でこの世を去ったために、漠然と私は68歳を超えることが第一目標でした。その歳に衆議院議員を公明党の内規で定年退職したので、とりあえず次なる目標は、父の死んだ歳を越えることが目標です。あと3年です。
最近私は、今取り組んでいる課題に熱中することが何より大事だと思っています。課題に熱中するといっても、それは通常の仕事というのではなく、創作活動と言うのが相応しいかもしれません。我を忘れるほど、没我の時間が長いほど、トータルとしての人生を実感出来る時間は長くなるのではないかとの確信めいたものが芽生えてきています。一番的確なたとえとしては、芸術家がその制作活動に没我の状態で邁進するあり様を想起します。芸術家ならぬ凡人としては、いわゆる芸事でも、趣味でも、あるいは読書でも。それは何でもいいからものを作り出す知的作業と言えましょうか。といっても、それを長いと感じるかどうかは別問題。
充実した時間の只中で、生に熱中し集中力を持って生きてる流れの中で、(気がついたら=勿論本人でなく回りが)死に至っているということが理想でしょう。そうなっても後悔なきよう日頃から準備を怠らないことだと、今は思うに至っています。(2021-1-19)