●公明党の結党前夜における壮絶な思索
1964年(昭和39年)4月1日に総本山に落成した大客殿で、第二代会長・戸田城聖先生の七回忌法要が行われました。そして同年5月3日に本部総会が行われ、席上、伸一は、4つの重要な目標を示します。そのうちの一つが、公明政治連盟をめぐる問題についてのものです。創価学会政治部としての公政連を解消し、独自の路線を歩むことを提案し、了承されます。この決断に至る経緯が49頁から61頁までにわたりくわしく触れられていきます。
衆議院に進出することがいかに危険を伴うことであるかを巡って、心底から悩まれたことが分かる重要な心象風景がここには記述されています。中でも、57頁に「民衆の手に政治を取り戻すことは、不可欠な課題と見えた」が、「それにともなう危険はあまりにも大きく」、「学会が撹乱されないとも限らない」との危惧が披歴されます。しかし、「大聖人の仏法を社会に開くためにあえて突き進まざるを得ないであろう」というのが結論として述べられていきます。更に、「いわば彼は、広宣流布の人類史的実験に挑もうとしていた」と、その心情を語っているのです。
私たちは、創価学会の政治進出について、しばしば世俗的な軽々しい論難にでくわすことが多くありました。例えば、政党を作って衆参両院に議席を持つことで、権力を奪取し、布教に役立てようとしている、とか。こんなに苦労して、選挙活動をせずとも、〝高みの見物〟ではいけないのか、など。しかし、ここで「人類史的実験」との記述に接して、厳粛な気持ちにならざるをえません。
「大衆の手に政治を取り戻すこと」が公明党の役割だとすると、いつ、どのような状況が生まれたら、ゴールといえるのか。与党化することで、〝権力の魔性〟に魅入られることにならないのか。政治の安定と改革の両立への絶えざる挑戦を忘れていないかー公明党の人間として50年余になる私が、考え続けるテーマです。「実験の途中放棄」になってはならないとの思いのもと、生涯をかけてあるべき姿を追い続ける覚悟でいます。
●フィリピンでの語らいと今年のノーベル平和賞
5月12日から15日間、伸一はオーストラリア、セイロン(スリランカ)、インド訪問の旅に向かいました。その旅の冒頭、フィリピンのマニラに経由、僅かな時間に3人の会員に会い、激励をするのです。その際に、いかに同地での布教が困難であるかの訴えを聞いて、次のような印象深い言葉を発しています。
「地涌の菩薩はどこにでもいる。この国にだけは、出現しないなんていうことは絶対にないから大丈夫だよ。真剣に広布を祈り、粘り強く仏法対話を重ねていけば、必ず信心をする人が出てきます」(66頁)「戸田先生も戦時中の弾圧で、みんなが退転してしまったなかで一人立たれた。そこから戦後の学会は始まった。一人立つ人がいれば、必ず広がっていく。それが広宣流布の原理だよ」(67頁)
この時の語らいがフィリピン広布の「永遠の誓いの種子」となり、やがて大きく花開くことになりました。このくだりを読んで、私は、ちょうど今年のノーベル平和賞の受賞者に選ばれたこの国のジャーナリストを思い出しました。強権的な政治を強める政権の動きに敢然と立ち向かう勇者に、勿論直接の関係はありませんが、フィリピンの会員たちの勇姿が重なり、強い共感を抱くのです。
●オーストラリアでのテレビ局インタビュー
伸一一行は、次にオーストラリアのシドニーからメルボルンへと移動します。16日にテレビ局のインタビュー取材を受けました。当時、雑誌などによる学会批判がこの地でも横行しており、伸一を独裁者と見る風潮さえ強かったのです。悪影響を振り払い、学会理解を深めるために、伸一は準備を整えたうえで、挑みます。
簡潔で的を射たインタビュアーの質問は、創価学会が「軍国主義的な団体であり、軍隊同様な組織を持っているのではないか」との観点など、多岐にわたっていましたが、役職が「参謀」「部隊長」「隊長」といった軍隊を思わせるものであることについてのやりとりが注目されます。この疑問は、日本でも草創期の学会に付き纏ったものでした。
伸一の答えは明快です。「学会ほど平和団体はありません。誤解です」とした後、役職名は〝平和の戦士〟との自覚による、と述べています。その方が意気盛んに活動を進めることが出来る、とも。確かに、「課長や係長」ではまるで、会社の延長みたいですから。
私もかつて、この名称にヒエラルキーを感じ、反民主主義的であると思いました。現実との認識ギャップに違和感を持ったものです。組織が勃興する時と安定期に入った時は自ずから異なることに気づいたのは、入会後10年ほどが経ってからのことでした。(2021-10-23 一部修正)