●同志の死にたいする疑問を打ち破る激励
1965年(昭和40年)は、小説『人間革命』の聖教新聞連載開始と共に幕をあけました。また、雑誌『言論』に『若き日の日記』の連載も始まることになりました。会長・山本伸一は全精魂を傾けてのメンバーへの激励と同時に、この年冒頭から怒涛の勢いで言論戦を展開していきます。
その年の活動の始まる矢先に、二人の同志の死について触れられます。一人は、青年部の最高幹部を歴任した理事、もう一人は、鳥取県・米子市の支部長です。前者(49歳)は癌という病、後者(42歳)は、交通事故によるものでした。伸一の、遺された家族と、支部員たちへの渾身の激励が胸に強く迫ってきます。(16-35頁)
「お父さんの一番の喜びは、君が広宣流布の指導者として、立派になっていくことだ。だから、一生涯、広布の使命に生き抜いていくんだよ」「生命は永遠です。ご主人は、すぐにまた生まれてきますよ。それを確信していくことです」「生命の深い因果というものは、宿命というものは、まことに厳しい。それゆえに、信心をしていても、さまざまな死があります。(中略) しかし、信心の眼をもって見るならば、そこには、深い、深い意味がある」「人は、生まれる時も、死んでいく時も一人である。三世にわたって自分を守ることができる力は妙法しかありません」
私もこれまでの人生で、父と母、義父と実弟と嬰児の家族5人を亡くし、数限りないほどの友人、知人、同志を見送ってきました。抱いた思いもそれこそ千差万別ですが、上記のような激励を口にし、自身もその確信を深めてきました。人は例外なく死にます。生と死を、〝対立的次元〟で捉えると、死で終わることは最初から人生は悲劇と決まっています。そうではなくて、〝同一的次元〟で「生死不二」と捉えないといけません。「生も歓喜、死も歓喜」との名言を確信して、〝涙と笑いの悲喜劇〟を堂々と演じ切ることだと思います。
●聖教新聞の日刊化をめぐって
新聞は毎日だされるものと、誰しも思うでしょうが、かつては違いました。聖教新聞も週三回の発刊という時代があったのです。昭和40年7月15日にそれが日刊化します。ここでは、その辺りの苦労談が描かれていきます。「聖教新聞がどうなっていくかは、諸君の双肩にかかっている。いっさいは人間で決まっていくものだ」と伸一は、聖教新聞の記者たちを前に語ります。(49-78頁)
「自分の心に忍び寄る惰性と、挑戦を忘れた、あきらめの心であり、怠惰」が聖教新聞の発展を妨げる敵だとする伸一は、記者一人ひとりの人間が、「常に新鮮味溢れる自分自身となり、知性と勇敢なる人格をもった記者」たることを強調しています。(62頁)
この時の懇談場に連なり、心構えから、様々な新聞作りのノウハウまでを池田先生から直接教わった先輩に、私も新聞制作のイロハを叩き込まれました。「君たち一人ひとりの人間の持つ力が、その日の新聞に表れる、それ以上でも以下でもない」、と。日に日に新たな自分になっていかない限り、人様に読んで貰える記事は書けないことを知りました。難しいことだけれど、それが新聞記者というものだ、と自覚したしだいです。
伸一が展開している新聞評はまことに見事です。文章の書き出しで、どう人の心をつかむかについて、名言引用、結論の先だしなど、意表をつく、斬新な入り方の研究を提起しています。さらに、割り付け、文章論、写真論などについても。なかでも体験談の書き方で動作を描くことの重要性を具体的実例で示しているのは興味深いです。「悲しくて泣いた」との表現でなく、「泥にまみれた拳で、溢れる涙を拭った」とすると、映像も色彩も浮かんでくる、と。まるで、人気TV番組『プレバト』の俳句の先生を思い出しました。
●政治改革の原点としての東京都議選
この年の7月に、予め予定されていた参院選に加えて、急きょ都議選が行われました。実は4月に都議会自民党において、議長選挙をめぐって、現職議長が贈賄容疑で逮捕されたのです。これに端を発し、議員から逮捕者が続出。それに対して都議会公明党が議会解散へのリコール運動を起こしたのです。その一部始終が語られていきます。(78-89頁)
「最初、公明党が、党として総辞職を決めた時、皆心で喝采を送った。他党の議員が、解散し、選挙することを恐れ、自分のポストを守ることに汲々としている時に、ためらうことなく解散を主張し、都議会の信頼回復を第一義とした姿勢に、共感したのである」
公明党なら、政治浄化、政治改革ができるとの生きた実例に全国の学会員は、感動したのです。そして清潔な党・公明党のイメージが世に定着する初デビューともなりました。あれから56年。断じて初心忘れるな、と党にも自分にも言い聞かせています。(2021-11-17)