【41】異国の地で骨を埋めるー小説『新・人間革命』第10巻「幸風」の章から考える/11-24

●アメリカ広布にかける心意気

 1965年(昭和40年)8月14日から25日まで、伸一はアメリカ、メキシコ訪問の旅をします。ここでは、黒人の公民権運動やエチワンダ寺院の起工式などが描かれています。私が注目したのは、学会本部の職員の中で、初めて海外に派遣されることになった青年について書かれているくだりです。伸一は以下のように、彼に言います。(118-120頁)

  「ひとたび行く限りは、何年かしたら日本に帰ろうなどと考えるのではなく、同志に仕え、広布のために、アメリカに骨を埋める決意で行ってもらいたい。そうでないと、愚痴や文句が出たり、何かというと、〝日本に帰りたい〟と漏らすようになる。(中略) そうなれば、広宣流布のリーダーとしても職員としても失格です」(119頁)

 本部職員や聖教新聞の記者たちが、このような指導を受けて世界各地に飛び立つ様子を見聞きするたびに、キリスト教の宣教師たちのことを連想しました。日本の戦国時代前後に、ポルトガルやスペインから、日本にも布教にやってきました。史実として知るにつけ、使命感の重大さと布教の困難さに思いが至ります。現代にあっては、キリスト教を凌駕する勢いで、日蓮仏法の布教は世界で進んでいますが、原点を自覚するばかりです。

   今いるところではなく、どこか他のところに素晴らしき新天地があると思いがちなのが普通の人間でしょう。「足下を掘れ、そこに泉あり」(ニーチェ)との名言があります。まずは今いるところでいい仕事をし、足跡を残そうとの心がけが大事だと思われます。

●メキシコと戸田先生の夢

 一行は、カリフォルニア・ロサンゼルスからメキシコへと向かいます。この地は、恩師戸田城聖先生が「夢に見、訪問を念願した国」です。メキシコに戸田先生がことのほか関心を持っていたのはなぜでしょうか。「ラテンアメリカで最初の日本人の組織的な移住が行われたのがメキシコであったからかもしれない」とされています。師の強い関心の後を追いつつ、伸一はこの地の隅々にまでに新たな幸風を巻き起こしていきます。(144-177頁)

  イワダテ支部長がメキシコ在住40年になったことについて、最初は1-2年のつもりだったのが、「大好きになったから」と経緯を語ったのです。これに対して、伸一の次の言葉が印象深く残ります。「自分のいるところが好きにならなければ、そこで使命を果たし抜いていくことはできません。(中略)  自分が、そこを好きになれる〝良さ〟を見つけることから、価値の創造は始まっていくといえます」(158頁)

   「好きこそものの上手なれ」とは物事の基本ですが、良さの発見→好きになる→打ち込む、というパターンが人間がこの社会で生き抜く上でのカギを握っていると思えます。

●生命の底にともされた火としての記念撮影

 メキシコから帰国したのちに、伸一は全国各地への激励に走りますが、その際に「記念撮影」を通じて、会員との絆を強固なものにしていきます。この時から約10年間北海道から沖縄の離島まで全国各地で、最前線の同志たちとの記念撮影会が行われていきます。

 「伸一は激務のために、何度か、体調を崩したが、走り続けた。最愛の同志とともに、カメラに納まり、刹那に永劫をとどめんと、励ましの言葉を贈らんと」「伸一は、同志の心の暖炉に、永遠なる『誓いの火』を、『歓喜の火』を、『勇気の火』を、断じて、ともさねばならない、と決意していたのだ」「石と石とがぶつかり合うなかで、火は生まれる。広宣流布の火もまた、人間の魂と霊の触発のなかからしか生まれないことを、伸一は熟知していた」(191頁)

   この伸一の深く重い言葉の数々は、池田先生との記念撮影の場に臨み、臨機応変、変幻自在に繰り出されるその激励を受けた人なら、手にとるように分かるに違いありません。私も本当に得難いことに、昭和43年4月26日の第一回慶大会の開催時を始め、勿体なくも中野兄弟会、新宿兄弟会、伸一会など幾度となく、その座に連ねさせていただきました。今その幾葉もの写真を見るにつけ、師の魂によって、我が鈍感な命にも、誓いと歓喜と勇気の火が燃え上がったあの日、あの時の感激が、ありありと浮かんできます。

 その後、高等部や男子部幹部として、高校生、後輩を激励したりする時や、選挙に出た際にも選挙区内の各地の拠点で、支援者皆さんと、出来るだけカメラに収まりました。池田先生にしていただいたことの百万分の一でも真似ようと、絆を深める試みに挑みました。(2021-11-24)

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