●病気の原因についての事細かなアドバイス
1965年(昭和40年)11月4日関西本部で奈良県本部の最前線幹部との記念撮影会が行われました。撮影の合間に、伸一は体の悪い人がいるかどうかを聞き、様々なアドバイスを個別にしていきます。そのうち病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引用し、日蓮大聖人が六つに分類されていることを紹介したうえで、詳しく述べています。(296〜307頁)
『一には四大順ならざるゆえに病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には座禅調わざる故に病む・四には鬼頼りを得る・五には魔の所為・六には業の起こるが故に病む』(御書1009頁)ーこの六つの原因を御書の御文に即して、説明されていますが、一〜三が、気候の不順、飲食と生活の不節制を指すことは容易にわかります。問題は四〜六です。四の鬼とは、「体の外側から襲いかかる病因」を意味し、五の魔は、「生命に内在する各種の衝動や欲求などが心身の正常な働きを混乱させること」です。さらに、六の業とは、「生命自体がもつ歪み、傾向性、宿業が病気の原因になっている場合」とされています。
生命力の源泉たる信心に、医学の力を借りて四までは治せる(ウイルスによるものも含む)が、五の魔と六の業によるものは、医学の力を尽くしてもそれだけでは治らず、「御本尊への強い信心によって、魔を打ち破り、業を転換していく以外にない」と断言されています。(300頁)
「魔と業」ー私はこれを人が生きていく中で、ヨコ軸とタテ軸双方から襲ってくる二大障害と捉えています。人が今生きている環境の次元のものがヨコ軸、一方人が過去世から生きてきた歴史の次元からのものがタテ軸です。
人は日常的に、強気と弱気が交錯する中で生きています。最も卑近な例でいえば、ついさっきまで強気で積極的な姿勢でいたのに、些細なことに影響を受け弱気になり、消極的になるケースが専らです。これはいわゆる「魔が差す」と言われる次元での話です。仏法でいう魔とは、仏道修行の途上でそれを妨げようとする様々な働きを意味します。したがって、魔に打ち勝つ、魔に負けるとの表現が用いられるのです。
魔が人の生存する環境の中で、意識内の動向に左右されるものであるのに比し、全くそれが及ばない、過去世から現世に至る、意識外の事象に影響されるものが業だと思います。生まれつき人が持っている生命の傾向性とでもいうのでしょうか。人智を超えたところで人は幸不幸に左右されます。そういった枠組みの全貌を業というのです。いわゆる運命的な、人間存在の基底部の色合いを業というのだと私は捉えています。
これらは通常の自覚や意識を強く持っていても、とても対応しきれません。それを打ち破り、転換していくには、御本尊への真剣な唱題しかない、というのが結論です。
●日の当たらぬポジションに立ったらどう対処するか
この年の11月13日に起こったパナマ船籍の観光船ヤーマスキャッスル号の火災を通して、小さな失敗の積み重ねが大事故に至ることが語られ、小事が大事であり、大問題も小さなことから始まると指摘されています。それに続いて、伸一は年末に学会本部と聖教新聞社の各部署をくまなく点検する中で、陰で黙々と清掃作業に取り組む職員を見出します。ここから、小事を疎かにせぬ重要性について言及されていくのです。(338-339頁)
「伸一は彼に桂冠を捧げる思いで、深く頭を下げ、丁重に礼を言った。ひとことに本部職員といっても、脚光を浴びる、華やかな部署で働く人もいれば、目立たぬ職場で、陰で本部を支える人もいる。人は日の当たる場所にいて、期待され、賞賛されている時には、はりきりもする。だが、その部署や立場を外れた時に、どこまで真剣に、意欲的に、仕事に取り組んでいけるかである」
私は自分にしかできないことに取り組むことが、陰に回った時における自分の身の処し方で最も大事なことではないかと、考えます。従来と同じ次元で自分の立居振る舞いを考えるのではなく、全く新しい角度から、挑むことが大事です。自分にしかできないことをやるという自負心が人を支え、自身の自己肯定感に繋がっていくと思います。オンリーワンの心意気です。とりわけ高年齢になったら、より一層この気持ちが重要だと感じます。
超高齢社会を迎える中で、かつては60-70歳でゴールを迎えることができて、それなりに〝終わりよければ全てよし〟ということが通用してきました。ところが、今ではそこから10-20年と平均寿命が延びていることから、認知症や被害妄想狂といった不幸が襲ってきています。若き日にどんな頑張った人でも悲惨な末路を迎えかねないのです。ここでも、最後まで信仰を貫く上での独自の工夫とでもいうべきものが必要になってくるのではないでしょうか。(2021-12-13 一部最修正)