●本部総会で受けた三つの衝撃
創価の流れが「渓流」から「大河」の時代へと入ったーその象徴となった1970年(昭和45年)5月3日の本部総会は、とても印象に残る会合でした。一つは「言論問題」にけじめがつけられたこと。二つは広宣流布とは「流れそれ自体」だとの講演。三つは創価学会の組織活動が「タテ線」から「ヨコ線」になったことです。(294-318頁)
「名誉を守るためとはいえ、私どもはこれまで、批判に対して神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。関係者をはじめ、国民の皆さんに、多大なご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げるものであります」ーこう述べて「伸一は頭を下げた」と続きます。
世の中の学会、公明党への度を越した批判・攻撃に、つい身構え過剰防衛をしがちであったことは入会5年だった私も認めざるを得ませんでした。ここに至るまで様々な出来事があったとはいえ、結果的に会長をして、お詫びをさせたことは大きな衝撃でした。学会にとり「自己変革」の大きな一線を越える画期的な場面だった、との思いが今に鮮やかに蘇ってきます。議員の立場と学会の役職との兼任が解かれたり、制度的に公明党と創価学会の分離化が明確になったことなど、大きな変換の展開ではありました。
●広宣流布にゴールあり、との思い込み
これより先に、伸一が講演の冒頭部分で述べた発言はもっと違う意味で衝撃でした。
「広宣流布とは決してゴールではありません。何か特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思います。大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、常に未来に広がっていく正法であります。また、日蓮大聖人が『末法万年尽未来際』と叫ばれたこと自体、広宣流布の流れは、悠久にして、とどまるところがないことを示されたものといえます。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」(297-298頁)
この発言は後々まで大きな影響を及ぼしました。〈どこかでゴールを迎え、あとはバラ色の新世界が開けるのではなかったのか〉〈ゴールのない競走なんて〉〈永遠に戦い続けるなんてできないし、それは辛く苦しい〉ーこんな声が私の回りからも聞こえてきたのです。いずれも勝手な思い込みでした。それらは自分に都合のいい甘い考え方であり、よく考えれば、社会と断絶した、人生と遊離した〈夢物語〉だったのです。
本因妙とは、すべて今から始まる、ただいまの瞬間に未来への出発があるとの捉え方です。これに対して本果妙とは、今ある状態が全てで、それは決まったもので変えようがないとする立場です。この二つは、全く正反対です。本因妙の生き方とは、常に戦い続けるところに、「生命の歓喜と躍動と真実の幸福がある」といえるのです。
ところで、ロシアのウクライナへの侵略という悲惨な事態を前にして、私たちは、「歴史の逆行」のような気分を味わっています。国家間の戦争、力による現状変更などといったことは20世紀で終わったはずと、勝手に思い込んでいたのです。広布の戦いにゴールがないのと同様に、人間相互の争いも、戦争も常に続く。こう全く次元の違うものをつい比較してしまいます。「平和な世界」が今すぐにやってくると、簡単に考える甘さと、広宣流布にゴールありとの捉え方の甘さ。この2つ、何故か妙に似ています。リアルに徹することの大事さに身震いする思いです。
●タテ線組織からヨコ線への移動という大変化
三つ目は、創価学会の組織形態の転換でした。日常的活動の基軸が、従来の折伏をした、されたという人間関係に基づくタテ線から、住まいの近さによるブロックに依るヨコ線への移行です。これはまた衝撃でした。
「伸一はブロック組織に移行し、学会員が中心になって、地域社会に、人間と人間の、強い連帯のネットワークをつくり上げねばならないと考えていた。それが現代の社会が抱える、人間の孤立化という問題を乗り越え、社会が人間の温もりを取り戻す要諦であるというのが、伸一の確信だったのである」(306-307頁)
今から思えば「タテからヨコへ」の移行は当たり前に思えるでしょう。しかし、当時は一大変化で、抵抗感がありました。親しい人間関係から離れて、あまり知らぬ人と一緒に活動するのは冒険に思えました。また、隣近所では近過ぎて何もかも分かってしまう、ゆっくりするゆとりもないなどといった怠惰な考えも起こりました。
ですが、定着すれば、向こう三軒両隣の中で声を掛け合うことの大事さがわかってきました。〝遠くの親戚より近くの他人〟との格言があります。近くの友人、同志が、今の希薄になりやすい人間関係にあってとてつもない役割を果たしていくのです。(2022-3-7)