●牧口先生生誕100年から創価学会創立100年へ
1944年(昭和19年)に獄死された初代会長・牧口常三郎先生。それから27年。1971年(昭和46年)6月6日は生誕百年の記念日でした。その日胸像の除幕式が聖教新聞本社前で行われたのです。伸一が先師の死身弘法の大闘争をしのぶところからこの章は始まります。
〝牧口先生、私は先生の敵を必ず討ちます。先生を獄死させた権力の、魔性の牙をもぎとってみせます。そして人間主義の平和と人道のスクラムをもって、傲岸な権力を抑え、民衆が喜びにあふれた社会を築いてまいります。それが私の仇討ちです〟(309頁)
牧口先生が誕生されたのは1871年(明治4年)。青年期を明治に生き、壮年の只中を大正期に過ごし、昭和5年には創価教育学会を創立されました。還暦直前です。73歳までの14年間は、「15年戦争」と呼ばれるあのアジア・太平洋戦争の全体とほぼ重なっています。創立100年の2030年までを目標にして生きる私たち。三代の会長を苦しめ抜いた権力・国家悪への仇討ちと、民衆讃歌の社会構築の実現を忘れずに、生き抜きたいと思います。
●大沼研修所と月の写真とカメラへの思い
一転、舞台は2日後の北海道大沼研修所の開所式へと移ります。ここからは伸一の写真、カメラとの関わりが具体的な場面と共に語られ、その後の写真家たちとの交流、各地での写真展の開催などに及びます。私は次の一コマに感動します。(309-330頁)
【東の空を見た伸一は、思わず息をのんだ。雲の切れ間から、大きな、大きな、丸い月が壮麗に辺りを圧し、煌々と輝いていた。先ほどの空の明るさは山の背後に隠れていた、月の光であったのだ。月は天空に白銀のまばゆい光を放ちながら、悠々と荘厳なる舞を見せていた。そして湖面には、無数の金波、銀波が華麗に踊っていた】
月に向かい、夢中でシャッターを切り続ける伸一。人生での「一瞬」の大切さの強調。思わず目を瞑って連想が広がります。かつて高校生たちと大沼研修所で御書を研鑽した雪の日のあの熱い思い。夕闇迫る但馬の山間でいきなり巨大なお盆のような満月に出くわした瞬間の驚き。そして喜びを。過ぎ去った歳月の重みと共に。
『月こそ心よ、花こそ心よ』(白米一俵御書)という日蓮大聖人のかの有名なお言葉は、人生と芸術との関わりに深い思いをもたらせます。先だって読んだ『法華衆の芸術』(高橋伸城)で改めて、「芸術創造の触媒になった日蓮仏法」の凄さを実感しました。仏像美術に関心が持てなかった私ですが、光悦、宗達、永徳、等伯らから、北斎、国芳らに至る法華衆の人材山脈の豊かさには、心底からめくるめく感動を覚えました。
●鎌倉と三崎における地域交流の模範
鎌倉祭りと三崎カーニバル。神奈川県の鎌倉市、三浦市という二つの地域での催しは、創価学会の地域交流の新たな試みとして、1971年(昭和46年)7月22、23の両日に行われました。【創価学会と社会の間には、垣根などあってはならない。学会の発展は、即地域の興隆であり、社会の繁栄であらねばならないからだ】との伸一の強い信念に基づき、これは催され、以後全国の会館と地域との関わりの模範となっていきました。
【鎌倉は、大聖人が「たつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや」(御書1113頁)と仰せの天地である。その鎌倉に、そして、神奈川に、広宣流布のモデルを築くことは重大な課題である】ーこの指摘は鎌倉という、ブランド力の高い地を一段と高からしめるものとして、世の歴史好きの関心を更に深めるものといえましょう。
今年2022年のNHK 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。私も毎週興味深く見ています。喜劇作家三谷幸喜さんの脚本は出色です。面白過ぎて嫌だという人もいるかもしれませんが。時代考証担当の坂井孝一創価大学教授(『承久の乱』の著者)の解説の味わい深さなどをTV「英雄たちの選択」で見て、益々「鎌倉」に嵌まっています。
●世界ジャンボリーの緊急避難受け入れ
この章最後は、朝霧高原で開かれていたボーイスカウトの世界ジャンボリーが台風の襲来で、総本山富士大石寺に緊急避難してきた時のことが述べられていきます。同年8月5日未明。当時7000人の高校生たちが夏期講習会に参加していました。そこに6000人を受け入れてほしいとの要請が舞い込んできます。(373-397頁)
これを聞いた伸一は間髪を容れず「受け入れるのは人間として当然です」と述べました。次々と指示が出される様子がリアルに語られていきます。腰の重い宗門側との対比もくっきりと。
実は私は担当幹部の一人としてこの場にいました。中心のことは知る立場ではなかったのですが、後で一部始終を聞き、深い感動を新たにしました。凄い師と共に生きる有難さを感じたのです。(2022-3-25)