●四国での学生部員の〝戦いと死〟をめぐる、深く重い〝顕彰〟
1973年(昭和48年)11月、伸一は四国指導に赴きます。ここでは冒頭に、聖教新聞購読の戦いに懸命に取り組む愛媛の会員や〝無冠の友〟(配達員)の奮闘ぶりが描かれていき、四国文化会館へと場面は移っていきます。
同会館の前の二本の桜。そのうちの一本は、愛媛で学生部グループ長をしていた岡島喬雄の遺徳を顕彰するために植樹された木でした。彼は、愛媛大学を出て高校の教師になって5ヶ月後の1969年(昭和44年)9月に23歳で亡くなっています。座談会に友を誘うべくバイクで向かっている途上に軽トラックにはねられた不慮の事故でした。伸一はこの時の訪問で、その木々の前に立ち、語りかけるところから始まります。(226-244頁)
父親の勧めで高校2年の時に創価学会に入会していた岡島は、腎臓の機能障害始め幾つかの病を抱えた、病弱な身体の青年でした。当初は信仰に真剣に向き合えず悩むだけだった彼が、会員の激励に立ち上がっていきます。そしてやがて思索を深めつつ、学生部活動、聖教の通信員と全てに果敢に挑戦していくようになりました。この辺りの心の推移を彼は日記に書き続けていましたが、ここでは逐一それが紹介され、胸打つのです。
学生部の友人たちが温かい励ましを続けた様子が描かれていきます。とりわけ、彼が深い信頼と尊敬を寄せたのが部長でした。彼から広布への責任感と信心への確信、同志を思いやる心の大切さを学んでいきました。【彼は、部長のIさんについて、こう日記に記している。「Iさんの顔を見るのが楽しい。絶対に安心してついていける人だ。私はこの人を知ったことにより、私の人間革命は大いに駒を進めた」人間が精神を磨き鍛えて、成長していくには、触発が不可欠である。それには、良き先輩、良き同志が必要である。ゆえに学会という善の組織が大切なのである。】
私はこの岡島青年の立ち居振る舞いを読んで驚きを隠せません。昭和40年頃の学生部員の戦いぶりが彷彿として甦ってきます。彼と私は同い年。腎臓病(私は肺結核)、入会時期(私は大学一年)、親の信心(私の方は未入信)と、微妙な違いはあるものの極めて境遇が似通っています。日記も「埋没抄」と銘打って書いていました。グループ長や部長の励ましが55年の歳月を超えて甦ってきます。事故死に遭った彼の無念が心底偲ばれます。
実は彼が慕いぬいた「I部長」のモデルは、私が尊敬してやまない新宿の石井信二先輩です。私たちは職場は違えど同じ本部職員(私は公明)でした。この50年の間、陰に陽に激励を受けてきましたが、私が引退後一段と、触発されています。信心の軌道を外すなとの思いやりを電話の声から常に感じます。心底凄い人だと思います。
当初、この箇所だけ、なぜ「I部長」とイニシャルになっているのかと考えました。岡島君は本名を書いたはずです。暫くして、ここに学会の真実、伸一の本意があると深く気付きました。浅はかな自分を恥じました。
●中東戦争からウクライナ戦争へ、現代世界の脅威未だやまず
この年、10月にアラブ諸国とイスラエルが戦争に突入し、第四次中東戦争が始まります。ここから、関連諸国や国際石油資本が原油価格の大幅な値上げに相次いで踏み切り、たちどころに資源小国・日本は多大な影響を蒙ります。いわゆる「オイルショック」の到来です。この石油危機を契機に時代はインフレと不況に絡めとられ、日本経済が大きな転機を迎える中で、庶民の暮らしは激しさを増していくのです。
伸一は、そんな状況のなか、11月23日の品川区幹部会に出席して30分のスピーチをします。社会の激動、混乱の奥に潜む根本原因について、日蓮大聖人の諫暁八幡抄の一節を通して、語っていきます。(269-275頁)
【大聖人は、人々の「正直な心」が失われ、人の道にも、仏法の道にも外れてしまったがゆえに、八幡大菩薩は去り、社会は不幸の様相を呈したと指摘されている。】➖伸一は、結論的に、「私たち(法華経の行者)の戦いによって、人々が正法に目覚めていくならば、八幡大菩薩をはじめ、諸天善神は再び帰り、その働きを示してくれる」との原理を断言するのです。
このあと、歴史学者トインビー博士の「人類の生存に対する現代の脅威は、人間の一人一人の心の中の革命的な変革によってのみ、取り除くことができる」との言葉が引用されています。伸一とトインビーの歴史的対談が行われてちょうど50年の節目を迎えた今日、「ウクライナ戦争」が勃発。「第四次中東戦争」等のときと同様に庶民の暮らしに大きな悪影響が続いています。私たちは人類の「心の中の革命的な変革」=「人間革命の戦い」未だならず、を改めて自覚せざるをえません。歴史は善の方向に直行するのでなく、蛇行、逆流が常だということも。(2022-5-23)