●ブラジルの入国拒否という障壁
世界広宣流布への行く手に一つの障壁が立ちはだかっていた➖1974年(昭和49年)3月、アメリカからブラジルに入るべく、ロサンゼルス・マリブ研修所に伸一はいましたが、同国からビザ(査証)が発給されなかったのです。この国には8年前に初訪問した際にも、常に政治警察の監視の下での行動を余儀なくされていました。同国に深く充満していた創価学会への誤認識があったのです。それが未だ続いていました。(105-111頁)
ブラジルに入ることを断念した伸一は、斎木安弘ブラジル理事長に断腸の思いで以下のように激励します。
「勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」
ブラジル創価学会の同志の皆さんがこの時の悔しさ、無念さを胸に秘めてその後凄まじい闘いを展開して、見事に変毒為薬したことは30巻下「誓願」の章に登場します。負けた時に大・大勝利の因を作ったのです。
私は初めての選挙(1990年)に出て落選しました。「常勝関西」と言われている地で、一敗地にまみれたことはショックでした。多くの皆さんに悔しい思いさせてしまったことを深く恥じ、反省しました。すべて「ご仏智」であり、「きっと何か大きな意味があるはず」と前向きに捉えて、再起を誓いました。あれから30年余。勝利の連続を刻印出来ました。今は全国屈指の兵庫参院選の大勝利を固く期しています。
●ブラジルからパナマへの訪問先の転換
ブラジルへの訪問が難しくなって、直ちに一行の訪問先はパナマに変更されました。この国は太平洋と大西洋、また南北アメリカを結ぶ、文明の交差点ともいえる要衝の地。それを現実のものにしたのがパナマ運河です。かねて憧れを抱いていた伸一は、それまで交流の少なかった両国関係を転じ、相互理解のための人間交流に道を開こうと意欲を燃やします。
この時の緊急パナマ訪問で、当初は要らなかった(ブラジルはポルトガル語の国)スペイン語通訳が必要となりました。ペルーの担当としてリマに入っていた吉野貴美夫が急遽パナマに呼ばれて、その任に就くことになります。ここでの通訳にまつわるエピソードはまことに興味深いものです。吉野のスペイン語通訳について、「6割くらいしか先方に伝わっていない」との評価に、本人は〝申し訳ない。私が先生の通訳をするなんて無理だったのだ。通訳を代えていただくしかない‥‥〟と打ちのめされる思いでした。
ところが、伸一からは「私の通訳を初めてやって、六割も伝えることができたのは彼だけだよ。すごいね。すごいじゃないか!自信をもってやりなさい」と、思いがけない言葉が発せられたのです。伸一は、「トインビー博士との対談以来、世界の知性との交流、世界広布のためにも本格的な各国語の通訳の必要性を痛感して」おり、自らの手で通訳の育成をするしかない、と決意していたのです。こう庇って貰った吉野は、その心に応えようと固く決意をするのでした。
この時以来、吉野は奮起します。のちにラカス大統領の通訳を英語かスペイン語かどちらを選択するかとの大事な場面が訪れます。両方の言語が通訳され、大統領がどちらの言葉で答えるかが注目された場面が印象に残ります。「吉野の声はひときわ大きかった。生命力みなぎる彼の声に共鳴するかのように、大統領の口から発せられたのはスペイン語であった」との描写に、思わず読むものも拍手したくなりました。(142頁)
私はこんな大舞台に直面したことはありませんが、人を育てる時の指導者のこころと、それに応える弟子の心意気をここから学びました。大事な時には、自信を持って大きな声でいこう、と。
●ペルーでの大学間交流の始まり
パナマから訪れたペルーは、8年前にもブラジル同様に厳しい警察の目が向けられていました。そうした中、感動的な場面が語られていきますが、サンマルコス大学でのゲバラ総長との会見が最も大事なものだったと思われます。(183-193頁)
そこでは「新しい大学像とは」「教授と学生の断絶について」「学生自治会の運営について」など、創価大学創立以来、伸一が熟慮してきた問題が取り上げられました。これらはまた、同大学においても直面する最も大事なテーマでした。その場で伸一は「教育国連の構想」を語り、「世界大学総長会議」の開催を提案したのです。
この時の語らいが後に南米の大学からの伸一への最初の名誉博士号贈呈のきっかけとなっていきました。青年の育成に最も深い関わりを持つ大学相互の交流がこうして始まっていくのです。(2022-6-11)
※今回より1ヶ月休載します。