●「生涯青春」──もう一度草創期の思いで
伸一は、1977年(昭和52年)3月11日に東京から福島に向かいます。新しく完成した福島文化会館の開館記念勤行会への出席が目的でした。ここで創価学会の組織、幹部のあり方に関する根源的な指導がなされていきます。ある意味で、この章は苦難、困難にどう立ち向かうかの観点から最も重要なことが書かれています。
「人生で大事なのは、ラインの中心者を退いたあとなんです。その時に、〝自分の使命は終わったんだから、のんびりしよう〟などと考えてはいけません。そこから信心が破られてしまう。戦いはこれからですよ。(中略) 八十歳になろうが、九十歳になろうが、命ある限り戦い、人びとを励まし続けるんです。『生涯青春』でいくんですよ」(48頁)
この章が聖教新聞紙上で連載が始まったのは2011年(平成23年)9月1日付けからです。その年には、あの東日本大震災が発生しました。その半年後に、最も被害が大きかった福島県について書かれた章なのです。「福光」のニ字に伸一の万感の思いが込められています。奇しくも34年前の「3-11」から書き起こされています。
1995年(平成7年)の1月17日には阪神淡路大震災が起こっていました。あの日のことは兵庫県の人間として、命の底に焼き付いています。「大災害の時代」とも規定される今に生きる人間の宿命を感じつつ、「戦いはこれから」、「命ある限り戦い、人びとを励まし続ける」実践を誓うものです。伸一の「この7年間に何人の人に仏法を教えましたか」との問いかけに、1人も実らなかったと答えた草創の先輩幹部に対して、「もう一度草創期の思いで、戦いを起こしましょう」と呼びかけた逸話ほど胸に深く染み込むものはありません。
●「班十世帯の弘教」からの連想
このあとも、草創期から戦ってきた2人の女性との様々な足跡が語られていきます。その中で、かつて彼女たちが所属していた文京支部の「班十世帯の弘教」にまつわるエピソードが胸を打ちます。これが提案されたのは昭和32年のことですが、当時支部長代理をしていた伸一によるものでした。この当時、戸田第二代会長が願業として掲げていた会員75万世帯の達成がもうひと息にまで迫っていました。
【〝この七十五万世帯達成の大闘争に加わるということは、広宣流布の前進に、燦然たる自身の足跡を刻むことになる。子々孫々までも誇り得る歴史となる。その意義は、どれほど大きく、尊いことであろうか‥‥〟そう思うと、一人でも多くの同志を、その戦列に加えたかった。そして、班十世帯の弘教を提案したのだ。特に、これまで折伏を実らせずにいた人や、新入会の同志などの、弘教の大歓喜の闘争史を創ってほしかったのである。】(59-60頁)
これを読み、私が入会した昭和40年から4年の間に、次元は違いますが10世帯の個人折伏をしたことを連想します。姉から始まり母に至る4人の家族と、高校同期の仲間たち4人を含む10人です。その時の歓喜たるや、凄いものがありました。班長や班担当員さんが喜んでくれたものです。あれから50年余。我が胸中の闘争史は今もなお輝きは失っていませんが、新たな歴史を刻まねばと思うこと大なるものがあります。
●どんな状況にも壊されない〝心の財〟
ついで、勤行会の後での代表幹部との懇談で、ある壮年幹部からの、常磐炭鉱の閉山で他の地域に移らねばならなくなるなどの厳しい生活状況に直面するメンバーをどう励ませばいいかとの質問を受けました。その際に伸一は、生活苦に喘ぐ同志たちに大事なアドバイスを渾身の思いを込めてしていきます。(85-90頁)
「厳しい状況になればなるほど、磨き鍛えてきた生命という〝心の財〟は輝いていくんです。閉山だろうが、不況だろうが、〝心の財〟は壊されません。なくなりもしません。そして、〝心の財〟からすべてが築かれていきます。いわば、逆境とは、それぞれが、信心のすばらしさを立証する舞台といえます。人生の勝負は、これからです。最後に勝てばいいし、必ず勝てるのが信心です。苦闘している皆さん方に、『今の苦境を必ず乗り越えてください。必ず勝てます。勝利を待っております』と、お伝えください」(89-90頁)
この箇所が掲載された当時の福島県に住む多くの人たちは、絶対絶命のピンチに立っていました。その際のこの伸一の伝言は、津波に家が押し流されようが、原発事故で住まいを奪われようが、〝心の財〟は壊されません、と響いたに違いありません。
福島第一原発のあの事故から11年余り。岸田政権は、原発稼働へとこれまでの方針を切り替えようとしています。ウクライナ戦争の影響もあり、深刻な電力不足が背景にあるのでしょうが、安全未確認のままの原発回帰には反対です。今後の動向を注目したいと思います。(2022-12-3)