●山口開拓指導から20年の懇談会で
「山口開拓」──こう呼ばれた山口県への指導(1956年10月、11月〜1957年1月)から20年が経っていました。伸一は、1977年(昭和52年)5月に山口文化会館の落成を記念する勤行会に出席しました。この章は、東京から関西・滋賀を経て、九州から山口に入った伸一の激励行が描かれていきます。三回にわたる「開拓指導」では、400世帯から4000世帯を超えるまでの大発展を遂げました。その戦いに触れられつつ懇談会が開かれます。
そこでは、草創の同志たちに、人生の〝総仕上げ〟とはいかなる生き方を意味するのかについて語られているくだりが、深く印象に残ります。「第一に報恩感謝の思いで、命ある限り、広宣流布に生き抜き、信仰を完結することです」から「第二に、人生の総仕上げとは、それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです」「第三に、家庭にあっても、学会の組織にあっても、立派な広宣流布の後継者、後輩を残していくことです」まで、ユーモアを交えながら、極めて示唆に富む話が幾重にも展開されています。(149-160頁)
ここからは計り知れないほどのヒントが得られます。例えば、戸田先生の「どこにいても、生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるんです。腹のたつことがあっても、愉快に腹がたつ」との講演や、獄中からの牧口先生の「心ひとつで地獄にも楽しみがあります」と葉書の一節などが紹介されています。これらから、あらためて「境涯」というものの持つ意味を考えざるを得ません。
昭和40年代半ばのこと。中野区鷺宮のとあるアパートの一室でひたぶるにいつもお題目を上げておられた80歳くらいの壮年がいました。楽しそうに、悠々とされたその喜びの表情が当時学生部員だった私の瞼に焼き付いています。と同時に、「豊かな『心の財』を得た幸福境涯というのは、内面的なものですが、それは表情にも、言動にも、人格にも表れます」(155頁)との言葉が思い起こされます。いつも難しい表情で、笑顔が乏しい自分の顔つきに恥じる気持が生じます。これではダメだと思いつつ、鏡に向かって作り笑いをする私なのです。
●世界広布の道がいかに険路であるか
この後、山口市内の亀山公園のなかに宣教師フランシスコ・ザビエルの記念聖堂が立っていることを聞いた伸一は、かつて彼の書簡集を読んだことを思い起こします。そこから異郷の地での布教の厳しさが語られていきます。ザビエルの言動から、世界広布の道がいかに険路であるかが読むものに強く響くのです。(160-167頁)
ザビエルの「説教にも、討論にも、最も激しい反対者であった者が、一番先に信者になった」との言葉や、後輩の宣教師への「あなたがたは全力を挙げてこの地の人びとから愛されるように努力しなさい」との助言が紹介されています。そして、恩師・戸田城聖から、伸一は「世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯える子どもたちもいる。東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」と託されたことが語られます。
キリスト教の世界における布教がいかに凄まじい苦難のものであったかは、よく知られています。仏教でそうした歴史を持っているのは、日本発では創価学会SGIだけでしょう。宣教師や僧侶ではなく、普通の市民の手になる布教ゆえ、苦労の質も違います。先年、ヨーロッパを訪問した際に、ドイツ広布に後半生を捧げてきた壮年、婦人の日本人幹部に会いましたが、日本広布に比べてなお未だ草創期にあることを実感しました。
●「何があっても20年」を合言葉に
さらに山口文化会館での勤行会で、伸一は20年前の当時を回顧しながら、こう訴えています。(175頁)
「戸田先生は、よく『二十年間、その道一筋に歩んだ人は信用できるな』と言われた。二十年といえば、誕生したばかりの子どもが成人になる歳月です。信仰も、二十年間の弛まざる精進があれば、想像もできないほどの境涯になります。(中略) しかし、それには、人を頼むのではなく、〝自分が立つしかない〟と心に決め、日々、真剣に努力し、挑戦し抜いていくということが条件です。ともかく、『何があっても二十年』──これを一つの合言葉として、勇敢に前進していこうではありませんか!」と。
私の信仰生活はやがて60年になります。自分自身の境涯を顧みれば、お寒い限りではありますが、この20年で、やり通したことといいますと、ネット上での「読書録」と、「政治評論」が挙げられます。まだまだ未熟ですが、それなりに努力してきたという自負はあります。20年前にはここまで続くとは思っていなかったのですが、「継続は力なり」を実感します。読者からの声が何よりの励みです。(2022-12-10)