●ウクライナ詩人の「勝利の歌」と「春の力」
「『私の心に、勝利の歌が響く。春の力が、魂に沸き起こる』──ウクライナの詩人レーシャ・ウクラインカは叫んだ」との一節が「広宣譜」の章の書き出しです。「草創期以来、創価の同志の痛快なる人間ドラマは、常に歌と共にあった。広宣流布の伸展も、庶民の朗らかな歌声がこだまするにつれて、勢いを増していった」とあります。1978年(昭和53年)6月30日の学生部幹部会の席上で、新学生部歌が発表になりました。
「伸一が作詞作曲した学生部歌『広布に走れ』は、学生部のみならず、瞬く間に日本中の友に愛唱されていった」──この当時、宗門からの執拗な学会攻撃がありました。学生部歌が発表されたその日の朝に聖教新聞紙上に「教学上の基本問題について」と題する創価学会の見解が掲載されたのです。宗門の理不尽な批判に答えるものでしたが、この頃の空気の厳しさを吹き飛ばすかのように、学生部歌は歌われていきました。
「広き曠野に 我等は立てり 万里めざして 白馬も堂々 いざや征かなん 世紀の勇者 我と我が友よ 広布に走れ」──この一番に続き、二番の出だしは、「旭日に燃えたつ 凛々しきひとみ」。三番は、「今ほとばしる 大河の中に」と続きます。伸一は、歌詞を作りゆく中で、学生部の代表らに、「学生部員は、創価学会丸の船長、乗組員となって、民衆を守り、〝大河の時代〟を切り開いていくんだよ」と呼びかけます。(12頁)
この歌が発表された学生部結成21周年の記念日での講演で、伸一は「私どもにとって、最大の未来の節となるのが、二十一世紀です。この時こそが諸君の本舞台です。現在の勉学も、訓練も、仏道修行も、その本舞台に躍り出ていくためにある。(中略) 二十一世紀こそ、われわれの勝負の時であると申し上げておきたい」と。
21世紀に入って既に20年余。当時の学生部員たちも40歳代から50歳代の働き盛りです。あらゆる分野で活躍しています。コロナ禍とウクライナ戦争の併発という現代史でも特筆されるような激流の最中に世界はあります。この章はウクライナの詩の一節から始まりました。実は聖教紙上にこの章が掲載され始めたのは2014年11月。マイダン革命といわれる動きがキエフで始まったのが同年2月。池田先生の深い思いが伝わってきます。
●関西の歌「常勝の空」完成へ
この後、次々に各グループや方面、地域の愛唱歌を伸一は作詞作曲していきます。その中でも強く印象に残るのが関西の歌「常勝の空」です。この歌は同年7月8日に完成しますが、そこに至るまでの伸一の関西に対する深い思いが伝わってくるのです。中でも、公職選挙法違反という無実の容疑で捕われた、伸一が1957年(昭和32年)7月17日に釈放された後の抗議集会での冒頭の場面が胸を撃ちます。(51-54頁)
【「皆様、大変にしばらくでございました。堂々たる力強い声であった。兄とも慕う伸一が二週間余にわたって過酷な取り調べに耐え、今、元気に、自分たちの前に姿を現したのだ。関西の同志は感涙を抑えることができなかった。また、広宣流布の道は、権力の魔性との熾烈な闘争であることを痛感し、憤怒のなかに、一切の戦いへの勝利を誓った瞬間だった。「最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!伸一の獅子吼に、皆心を震わせながら、大拍手で応えた。関西の同志は深く生命に刻んだ。〝負けたらあかん!戦いは勝たなあかんのや!──ここに、関西の〝不敗の原点〟が、燦然と刻印されたのである。(中略) ゆえに、彼は、関西の後継の勇者たちが、〝関西魂〟を永遠に受け継ぎ、新しき飛躍を期す誓いの歌として、「関西の歌」が必要であると考えたのである】
「常勝の空」ができた2年後の昭和55年に、私は仕事上の転勤で、関西の地に移動しました。いらい1年半にわたって、兵庫、大阪を中心に走り巡りましたが、いつもこの歌と共にあったことを思い起こします。
●原点に返り、一から出直す
ついで方面歌の作成は、九州に舞台が移りますが、その中で、当時の九州総合長が交代する場面が注目されます。副会長でその任についていた鮫島源治から、吉原力へとの交代です。伸一の鮫島への厳しい口調での指導が響きます。(75-76頁)
「これを契機に、信心の原点に立ち返って、一兵卒の決意で、本当の仏道修行に励んで欲しい。これは信心の軌道を修正するチャンスです。(中略) もう一度、新しい決意で、一から信心を鍛え直す覚悟で組織を駆け回り、苦労に苦労を重ねて、人間革命していってもらいたい」
鮫島のモデルになった人物を知っているだけに、強いインパクトを受けます。生半可な決意で創価学会の幹部をしてはいけないと痛感するのです。(2023-3-8)