●〝日中新時代〟の暗転とこれから
1978年(昭和53年)9月11日、中日友好協会の招聘を受け、山本伸一を団長とする第四次訪中団が上海虹橋国際空港に到着しました。3年5ヶ月ぶりでした。「歴史は動く。時代は変わる。それを成し遂げていくのは、人間の一念であり、行動である」から始まるこの章は、1968年の伸一の「日中国交正常化提言」に端を発する10年の戦い及びその前史について紹介されていきます。その中で、伸一の確信が胸を打たずにおかないのです。
【ともあれ、伸一の日中国交正常化提言から満10年にして、〝日中新時代〟を迎えたのだ。歴史は変わる。人間と人間が胸襟を開き、真摯に対話を重ねていくならば、不信を信頼に変え、憎悪を友愛に変え、戦争を平和へと転じていくことができる──それが、彼の哲学であり、信念であり、確信であった。】(244頁)
伸一の信念の反映として、苦節10年を経て「日中平和友好条約」がこの年8月12日に調印され、10月に国会で批准が承認されました。そして同時に、鄧小平副総理ら中国首脳が建国いらい初めて来日したのです。この時から、日中蜜月の時代は10年ほど続きますが、その後、江沢民氏の登場(1989-2002)で暗転し、胡錦濤時代(2002-2012)を経て、習近平氏の今へ(2012〜)と厳しい関係に変化していくのです。
伸一の民間外交の展開の下支えによって開かれた〝日中新時代〟ですが、この30年で逆転してしまいました。これから日中関係を良き方向に持っていくには今一度、不信を信頼に、憎悪を友愛に変えて、平和に向けて戦争への機運を変えていかねばなりません。悲観的に見ずに楽観的に日中関係を捉える視点も重要なのです。
●いかなる「物語」のなかで生きるか
この後、伸一たち一行は上海から蘇州、無錫、南京、北京へと各地を訪れます。上海では、近代中国の父・孫文が晩年を過ごした故居で、宮崎滔天、梅屋庄吉ら日本人との友情に想いを馳せ、周西人民公社ではそこで働く青年と語らいます。この間に幾つもの大事な着眼点が披歴され、読者の思索が誘われます。
孫文については、その生き方に「天道」という考え方が確立されていたことが触れられます。「ただわれらは、中国の改革と発展を、既に自らの責任と定めているのだ。何があろうと、生ある限り、その心を断じて死なせない。(中略) 世界の進歩の潮流と合致し、『善は栄え、悪は滅びる』という天の法則に則るならば、最後は必ずや成功を勝ち取ることができる」との言葉が引かれ、広宣流布に生きる創価の同志の生き方との共通性が語られるのです。
【私利私欲、立身出世といった〝小物語〟を超え、人びとのため、世界のためという〝大物語〟を編むなかに、人生は真実の輝きを放つ】(260-261頁)
いかなる「物語」のなかで生きることが最も相応しいか。大学時代(1965-68)に考えに考えました。学生運動華やかだった当時のこと。社会革命に生きるか。会社組織で自らを磨くか。こうした道筋を前に、私は「第三の選択」としての「創価の大物語」に、師とともに生きることを決意しました。あれからほぼ60年。自分が選んだ「大物語」は、終わることのない日々波乱に満ちた壮大なものだとの手応えと確信を深めています。
●青年と語ればその国の未来がわかる
人民公社での青年との語らい。「私たちの世代は、長征に参加することはできませんでした。しかし、今、人民に尽くそうと、武器を工具に替えて戦っています。そこに長征の精神があると思います」──こう語る青年に、伸一は「素晴らしい決意です。崇高な心です。感嘆しました。未来は、あなたたち青年の双肩にかかっています。健闘を期待します」このやりとりのあと、訪中団のメンバーに次のように語ったのです。(268頁)
「これからの中国は、大発展していくよ。青年が真剣だもの。現代化に対する皆の覚悟を感じるもの」
【その国の未来を知りたければ、青年と語ればよい。青年に、人びとのため、社会のために尽くそうとの決意はあるか。向上しようという情熱はあるか。努力はあるか──それが、未来のすべてを雄弁に語る。】
日本の青年はどうでしょう。戦後直ぐに生まれた世代は、かつての仲間と会うたびに、今の時代を嘆きがちです。日本はやがて滅びるとまで。何もなし得なかった自分たちの過去を棚上げして。それは「小物語」に生きてきた人間が「大物語」の存在を理解できないことと同義のように思えてなりません。
【社会の「革新」のためには「核心」すなわち、心を革めることが不可欠である──そのとらえ方に、若き周恩来の慧眼がある。】(297頁)
「核心」は、まさに「人間革命」に通じるものです。「共産中国」に目を奪われ過ぎて、この国の本質を見失わないよう自戒したいものです。(2023-3-23)