●「7つの鐘」という壮大なロマン
行動こそが新しい波を起こす。行動こそが人を触発する。そして、行動こそが、民衆の勝利の歴史を織り成すのであるー北南米指導から帰った伸一は、全国を「疾風のごとく」、会員の激励に走ります。そんな中、1966年(昭和41年)5月3日の本部総会で、創価学会が広宣流布の指標としてきた「七つの鐘」(昭和5年の学会創立から、7年ごとを節目とする目標)について再確認するとともに、「第七の鐘」の鳴り終わる昭和54年を目指そうと、呼びかけました。
入会から一年経ったばかりだった私は、この「七つの鐘」という表現に接して、心底から感動を覚えました。その時点では第六の鐘(昭和40-47年)が鳴っていたのですが、更に第七の鐘(昭和47-54年)を目指そうとの師匠の大号令に壮大な〝人間革命のロマン〟を感じました。その後2001年からは第二の「七つの鐘」が鳴り始めており、来年2022年より「第四の鐘」が鳴り始めることになります。当面のゴールは、2050年。さらに池田先生は、23世紀半ばまで見据えた展望を後に表明されています。その構想の遠大さにただただ驚くばかりです。
●雨の文化祭と「常勝関西」の淵源
1966年(昭和41年)9月18日。兵庫県西宮市の甲子園球場での「関西文化祭」は、台風の影響による雨の中で開かれました。このため後々「雨の文化祭」と呼称されることになりますが、関西創価学会にとって「雨」は、また特別な意味を持つことが記されています。実は雨中での行事はこの時で、三度目。最初は、1956年(昭和31年)4月、大阪、堺の二支部連合総会。「雨に打たれながら、同志は誓いを新たにし、それが一万一千百十一世帯の弘教をはじめ、『常勝』の不滅の金字塔を打ち立てる起爆剤となった」のです。次に翌年の7月17日の中之島中央公会堂での「大阪大会」。伸一が不当逮捕され、出獄した日の「雨」でした。(242-272頁)
「試練の風雨のなかで、決然と勝利の旗を打ち立ててきたのが、まぎれもなく、関西の広布の歴史であった」との記述に表れているように、この時の文化祭の一部始終は、「常勝関西」の深い基盤なす描写の連続に思われます。私は関西人でありながら、自らの信仰における実践場が東京であったため、この「雨の甲子園」を始めとする関西の闘いと、池田先生のそれへの称賛を常に眩しく感じ、時に嫉妬すら覚えてきたことを告白します。
後に、その関西の只中で選挙を闘い、数多の人々の壮絶なまでのご支援をいただきました。その大庶民群のど根性の凄さを何度も味わったのですが、その背景に師匠の圧倒的な労苦の作業があることを痛切に知るに至りました。
●ベトナム戦争の最中での中道主義からの提言
この頃、アジアを暗雲が覆っていました。ベトナム戦争の泥沼化です。第二次世界大戦が終わって20年ほどしか経たぬ段階で、戦勝国同士間の思想的対立が混迷を極め、ベトナムを舞台に火を吹いたのです。ここではこの戦争の経緯が詳細に語られています。(273-317頁)
伸一はこの状況下にあって、苦悩を深め、激しく心を痛めていきます。1966年11月3日の青年部総会で、仏法の平和思想を語る中で、戦争解決に向けての重要な提言をします。
「日蓮仏法に基づき、肉体、物質にも、心、精神にも偏することのない、生命の全体像に立脚した「中道主義」を掲げ、「生命の尊厳」の時代を築きゆくのが、創価の大運動である」との一節こそ、米ソ対決の修羅場と化した、ベトナム救済への大宣言でした。この信念をもとに、伸一は仏法の「空仮中の三諦」論と中道主義について述べていきます。「三諦」という生命の法理に基づいて、現代の支配的思想を位置付けるくだりはまさに圧巻です。(286頁)
「唯心思想は、空諦の一部分を説いたものといえますし、唯物主義は仮諦の一部分を説いたにすぎません。実存主義もまた、中諦の一部分の哲理にすぎない。しかも、その三諦は別々であり、あくまでも爾前経の域を出ません」「この唯心、唯物、実存の各思想・哲学を包含し、またそれらを指導しきっていく中道の哲学、中道思想こそ、日蓮大聖人の仏法である」ーこの断言に、希望の灯を見た多くの青年たちが断固とした決意で、立ち上がっていきました。
更に、この後、現実の日本政治における公明党の役割について、改めて、党利党略でなく、「国民大衆の利益を第一義に、大衆福祉をめざす政策を実践する政治」が「永遠の在り方」であると断言しています。「常に現実的であると同時に大局観に立った、高い次元の政策を実践していくというのが、中道主義に生きる政治家の行動でなければなりません」ーこの指針が、現在ただ今、一段と強く胸に迫ってくるのです。自公連立20年余で、中道主義を埋没させてなるものか、と。(2021-12-23)