●創価文化会館の完成と落成入仏式での講演
1967年(昭和42年)9月1日。東京・信濃町学会本部に隣接して創価文化会館が完成しました。創価学会の会館に「文化」のニ文字が冠せられるのは、この建物が初めてでした。昭和44年4月16日に私は公明新聞社に入社しましたが、その日の朝、偶々池田先生と本部の玄関先でお会いし、激励を受けました。その後、文化会館地下の集会室での勤行会に連ねさせていただきました。また、5階の大集会室で開かれた昭和52年の中野兄弟会総会では、池田先生の前で中野区男子部長として挨拶をさせていただく栄誉に浴しました。若き日の数々の思い出をこの文化会館で刻むことができたのです。
この文化会館の落成入仏式で、山本伸一は「第三文明建設の新しい雄渾なる第一歩をこの立派な創価文化会館から踏み出せましたことを、私は最大の喜びとするものであります」と切り出したあと、以下、強く胸に響く重要な講演をします。(199頁)
「広宣流布とは、一口にしていえば、日蓮大聖人の大仏法を根底とした、絢爛たる最高の文化社会の建設であります。(中略) すなわち、色心不ニの大生命哲学を根幹とした、中道主義による文明の開花であります。今や資本主義も、社会主義も行き詰まり、日本もアジアも、さらに世界も、大きな歴史の流れは、一日一日、一年一年、この中道主義に向かっていることは間違いありません。また、それが時代の趨勢であると、私は断言しておきたい」と、述べたのです。
この時から55年ほどが経ち、社会主義は凋落し、資本主義も変質を余儀なくされています。日本にあって、「新しい資本主義」なる言葉を時の首相が使うというのも、行き詰まっているからに他なりません。一方で、今の世界は無思想、哲学なき時代とも言われています。日本での政治における中道主義をめぐる現状は悪戦苦闘が続いているように見えますが、暗雲を吹き払う動きが必ず起きる、いや起こしてみせると深く期している仲間たちは多いものと信じています。
●東京文化祭ー人文字と先輩と陰の苦労者たちと
この年、10月15日。東京国立競技場で開かれた東京文化祭。「すべてが未曾有の祭典であった。すべてが感動の大ドラマだった。すべてが歓喜の大絵巻であった。すべてが希望の未来を映し出していた」ーこう表現される文化祭の一部始終がこと細かに描かれていきます。(204-270頁)
このとてつもない文化祭に、私も参加できました。4万2千人の人文字の出演者の一人として。今なお不思議に記憶に残っているのは、色彩板(画用紙の束だったように記憶します)の片隅にあけられた穴から見た競技場の風景です。中央の指揮所から出される合図信号を見て、次々とその〝色彩紙〟をめくっていったのです。大学3年生だった私は興奮して、その穴からひたすら前方を覗いていました。その人文字の全貌を知ったのは、ずっと後のこと。映画を見て初めてその凄さを知りました。
この一大ページェントの演技、演出の責任者は、副男子部長の久保田直広でした。後に男子部長になり、衆議院議員となった大久保直彦さんがモデルです。彼は民主音楽協会(民音)の職員として、海外の著名なバレエ団の受け入れにあたるなかで、舞台の研究をしてきたのです。「その経験から、文化祭を一つの舞台ととらえ、全体を貫くテーマを設けようと考えた」とされます。そのテーマは「世界平和」。見事な総合芸術の顕現化として、日本中をあっと言わせました。
文化祭の準備から当日の動きのすべてに目配りした記述の最後に、伸一は陰で作業をしてきた場外の役員の激励にあたります。「皆さんが黙々と頑張ってくださったお陰で、大成功の文化祭となりました」ーその声がけに「使命に生きる青春の誇りが満ちあふれていた」との描写がなされて、読むものの胸を撃ちます。
この後、伸一のところに、青年部幹部が文化祭大成功の報告にやってきます。皆の感想を聞きながら、伸一の顔は次第に曇っていきました。「青年部の首脳たちが、文化祭の成功に酔い、本人たちも気づかぬうちに、心に、うぬぼれと油断が兆しているのを感じた」のです。「みんな、自分たちは、大したことをやったと思っているんだろう!」との厳しい声と共に、陰の力があってこその成功であることを忘れている姿勢を嗜めていきました。「東京文化祭というのは、既にもう過去のことなんだ。過去の栄光に酔いしれていれば、待っているのは敗北だ」と、文化祭直後に、青年部幹部の慢心と油断を注意したのです。
大久保さんは私の下宿先の中野区に隣接する杉並区在住で、ご自宅にも行ったことがあります。仰ぎ見る大先輩でしたが、親しくさせていただきました。いつも笑みを絶やさぬ兄貴分でした。その背中を見るたびに、文化祭での戦いが染み込んでいるのだと、思ったものです。(2022-1-14)