●32年後の岩手・水沢
1930年(昭和5年)の創立を起点に、7年ごとに節目を刻んできた創価学会は、1979年(昭和54年)1月に新しい段階を迎えました。伸一は清新の息吹で、この新しい年を東北から出発します。宮城から岩手・水沢へと足を運びました。この時に県下各地から駆けつけていた青年たちの32年後の姿(東日本大震災の被災)が語られると共に、同じく大震災を経験した兵庫始め全国からの真心の支援の交流が読むものの胸を撃ちます。(260-269頁)
【 被災地の婦人が、九州から来た本部の青年職員に対し「あなたはこの惨状を目に焼き付けておいてください。そして、このなかで、私たちが何をし、どうやって復興し、五年後、十年後にどうなっていったかを、しっかりと見届け、歴史の証言者になっていってください」 自ら歴史を創ろうとする人は、いかなる試練にもたじろぐことはない。苦境を舞台に、人生の壮大なドラマを創りあげていく。】(268頁)
【立正なき安国は空転の迷宮に陥り、安国なき立正は、宗教のための宗教になる。われらは、立正安国の大道を力の限り突き進む。東北の同志は立正安国の法理に照らし、「結句は勝負を決せざらん外はこの災難止みがたかるべし」(御書998頁)との御文を噛み締め、広宣流布への決意を新たにするのであった。】(269頁)
絶望のどん底に陥りがちだった東北の民衆の中で、敢然と立ち上がった学会員たち。その心の奥にはこうした決意が漲っていたのです。単に諦めの境地に沈まず、災難を完全に断ち切るための戦いへと前進するしかないとの思いは心底から尊いものと思います。この法則は「大災害の時代」と言われる今日、一段と輝きます。
●「随方毘尼」と原理主義、教条主義
このあと、伸一は青森へと移動して、秋田との合同幹部会などを開き、会員との交流を深めていきます。そして1月20日には東京・渋谷の国際友好会館でオックスフォード大学のウィルソン社会学教授と会談します。そこでは、宗教が担うべき使命を語り合うと共に、創価学会への意見を聞く場ともなったのです。(304-322頁)
この中で、伸一は「同教授が、宗教が原理主義、教条主義に陥ってしまうのを憂慮し、警鐘を発していたことに共感を覚えた」とあり、仏法における「随方毘尼」という視座の欠落の危険性を指摘しています。
「随方毘尼」というのは、「仏法の本義に違わない限り、各地域の文化、風俗、習慣や時代の風習に随うべきだというもの」で、「社会、時代の違い、変化に対応することの大切さを示すだけでなく、文化などの差異をむしろ積極的に尊重していくことを教えている」。この考え方が排除されることによって、「自分たちと異なるものを、一方的に『悪』と断じて、差別、排斥していくことになる」とあります。(310頁)
ここからの数頁は、日蓮仏法における宗教的信念に基づく開かれた議論の重要性と、排他性、非寛容とは全く違うことが細かく繰り返し語られていきます。日蓮大聖人の教えや生き方を硬直的に捉えてしまいがちな伝統的仏教、そしてそれを鵜呑みにしてしまう世論。これらとの闘いは長く続いています。
と同時に、日蓮宗や日蓮正宗など日蓮大聖人の流れを汲む各宗派にあっても、同じ誤りを犯していることを深く考えねばなりません。「対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける」との記述を噛み締める必要があるのです。
●平和への最大の関門
今から40年前の世界は東西冷戦の暗雲に覆われていました。伸一は、その事態を打開するため、ソ連、中国、米国などの各国首脳と平和を願う仏法者として積極的に会談を重ねて、意見交換を繰り返してきました。ここでの論及は今にも通じる重要な指摘です。(316-322頁)
【人類は、往々にして紛糾する事態の解決策を武力に求めてきた。それが最も手っ取り早く有効な方法と考えられてきたからだ。しかし、武力の行使は、事態をますます泥沼化させ、怨念と憎悪を募らせたにすぎず、なんら問題の解決にはなり得なかった。(中略) ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、ともすれば、対話によって平和の道をひらいていくことに無力さを感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。実は、そこに平和への最大の関門がある】(319-320頁)
ウクライナ戦争が始まって1年2ヶ月。まさに、人類は平和への道を開くことにあきらめと絶望を感じかけています。アジア太平洋戦争での日本の敗戦の直後に生まれた私など、人生の晩年期を迎え、ようやく世界が平和な方向に向かうのでは、と思い込んでいました。それだけに失望感は大きいものがあります。しかし、それにへこたれず、いま一度世界に対話のうねりを起こさねばと決意しています。(2023-4-19)