【34】最も易しいことが最も難しいー小説『新・人間革命』第8巻「清流」の章から考える/10-7

●「敵」に対して常に意識を持て

 1963年(昭和38年)7月言論部が発足し、第一回の全国大会が開かれます。前年の11月に月刊雑誌『言論』が発刊されていました。これは民衆の支配を目論む権力の野望や、「正義の言論」を封じ込めようとする邪悪な動きに対抗する目的を持って作られたものです。かつて私も愛読しました。創価学会批判が大手を振って週刊誌や月刊誌の紙面を賑わしていた頃と違って、昨今は少々様変わりをしています。ただいつ何時、またぶり返してくるやもしれません。

 「常に正確な情報をつかんで、敏速に応戦していく。敵との攻防戦においては、このスピードこそが死命を制する」(202頁)「正義の言論の矢を放ち続けることである。その不屈なる魂の叫びが、人びとの心を揺り動かす」(204頁)とあります。

 現在の「敵」と呼べる集団は、日蓮仏法の亜流派や「日本会議」や共産党のような左右の政治勢力など、より専門化してきています。公明党の与党化とも相まって、以前のような自民党筋からの攻撃は、なりを潜めています。ですが、だからといって、学会理解の深化とは必ずしも一致しません。そのあたりを踏まえて、批判精神をたぎらせて、いつでも応酬できるように「腕」を磨いておく必要があろうと思われます。

●何があっても疑わないこと

 長野市で7月30日に開かれた中部第二本部での幹部会に出席した伸一は、会場で「功徳を受けたという方は手を上げてください」と呼びかけます。そして、信仰は「自分が功徳を受けるためのもの」であり、「そのための仏道修行であり、学会活動である」ことに触れます。さらに、「幸福の要諦は自分の心に打ち勝つことであり、何があっても『無疑曰信』(むぎわっしん=疑いなきを信という)の清流のごとき信心が肝要であることを訴えていった」のです。(208~209頁)

   さらに、ここで、疑いのない信の代表例として赤ん坊が母親のお乳を呑んで成長することが挙げられています。確かに赤ん坊はそうです。お母さんのお乳が気に入らないとか、もっと違うものが欲しいという赤ん坊などいるはずありません。ただ、それと信仰も同じようにせよ、と言われても、これは難しい。ある意味、最も易しいことで一番難しいのが「信じる」という行為であり、ひたすら「拝む」「祈る」ということです。

 普通は、「疑う」気持ちが起こります。私もそうでした。今もなお、そういう気持ちが皆無かというと、それこそ疑わしいでしょう。ただ、言えることは、いわば〝絶体絶命の時〟に、「拝む」と、不思議なことに〝追い詰められた状況〟が一変するのです。勿論、すぐにというわけではありません。それなりに時間はかかります。私の場合、これまでの信仰生活56年の間に、真底から困り悩んだケースが三回ほどありました。

 一度は22歳のときの肺結核、二度目は衆議院選挙の落選後の二度目の挑戦、三度目は、私の身から出た錆とでもいえることが原因で鬱状態に陥ったことでした。議員時代のことです。それぞれ、あれこれ理屈を言ってる場合ではありません。ともかく助かりたい、何がなんでもこの苦境を脱したい一心になりました。他の解決法はなく、もう拝むしかない、という状況でした。そして、3ヶ月から半年くらいの間に、それぞれ地獄の苦しみがパッと消え、平常に戻ったのです。その間、共通しているのは、しゃにむに、無我夢中で拝んだということなのです。文字通り清流のような心境でした。(2021-10-9一部修正)

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【33】本迹を立てわけていく重要性ー小説『新・人間革命』第8巻「宝剣」の章から考える/10-2

●本物か偽物か、「歳月は人を淘汰する」

 昭和38年7月6日、伊豆下田で青年部の水滸会研修が開かれた時のこと。宿舎の旅館の広間で質問会が行われます。伸一は、教学上の問題から、社会の改革と人間革命の関係など多岐にわたる質問に答えていきます。その中で、鮫島源治という青年について語られているくだりに注目しました。彼の質問は、「信心の筋金が入った人間とは?」というもの。答えは、「一生涯、学会についてくる人間のことです。(中略) どんなことがあっても、学会につききっていくことのできる人間が、信心の筋金の入った人だ。それしかない!」です。

 この人物は、「後年、副会長になるが、最後は学会に反逆し、無残な退転者の道を歩んでいくことになる」とあり、その記述の前後に「鮫島」という人間についての当初の伸一の思いが語られています。「歳月は人間を淘汰する」「30年間、見続けていこう」と。(114-114頁)

 この鮫島のモデルとなった当の本人から、幾度か私も指導を受ける機会がありました。元教学部長、元弁護士らの退転者とも、高等部、中野区担当者として私は接触したことはありましたが、この人物は青年部長だったため、一番真剣に話を聞いたものです。その理論の展開の仕方にユニークさを感じ、シャープな言葉遣いにも惹かれました。今から思えば、その顔立ちがかっこよかったという、他愛もない理由が強かったのですが‥‥

 先日、長く創価学会批判の急先鋒だったある人物が亡くなったとの報に接しました。生前、彼は鮫島の影響を強く受けていたことをあらためて知るに至りました。二人とも「野心、野望で動き、学会を自分のために利用しようとする心」に負けたに違いありません。同時に、人間関係の「縁」についても、考えざるをえません。「毒」を持った人と関係を強めずに、清らかな生命の持ち主と繋がることの大事さを痛切に感じます。

●「百六箇抄」の壮絶な講義

 同年  7月19日、伸一は、京都へと赴き、京都大学の学生を中心に、関西の学生部幹部への「百六箇抄」講義の発足式に臨みます。この「百六箇抄」は、日蓮大聖人から、第二祖日興上人に授けられた相伝書であり、「本因妙抄」と併せて、〝両巻抄〟とも〝血脈抄〟とも呼ばれてきました。御書は、「西洋的なものの考え方だけでは」、「東洋的な演繹法の思考」を、とらえることはできない。だから「仏法の発想に立っていくためにも、帰納法的な論理を超えた相伝書の「百六箇抄」を学ぶにことが大事だと、されています。

 この講義を始めるにあたって、一人ひとりの自己紹介から始まります。野村至・勇兄弟、田川浩一、中野恵利子、滝川安雄、高木与志郎、奥谷拓也、上畑英吉らの京大生が次々と登場します。この場面は私にとって、圧巻です。ほぼ全員、この場面の後に、良い縁を持つに至る先輩ばかりだからです。ひとりだけ退転していった人物が触れられていますが、それを除き、皆素晴らしい実証を示してきた人たちです。(131-158頁)

 この記述の中で、伸一自身が戸田城聖先生から直接この「百六箇抄」講義を受講した際のことが出てきます。「冒頭の『理の一念三千・一心三観本迹』の講義だけで、三日間を費やして」、講義が終わると、「これまで話してきたことは、すべて暗記し、生命に刻むことだ。この一箇条を徹底して学び、深く理解していくならば、後の百五箇条もわかってくる。また、この『百六箇抄』が、わかれば、ほかの御書もわかってくる」とまで。

 この御書の重要性を諸先輩から聞きながら、私は結局中途半端な理解に終わっているがゆえに、未だ情けない教学理解の状態にあることを思い知るのは無念なことです。ただ、ここで展開される本迹についての講義は分かりやすく、胸の底に落ちます。「自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのかーそれを見極めていくことが、私たちにとって、『本迹』を立て分けていくことになるし、その人が最後の勝利者になっていく」とあります。「広宣流布に生き抜く人生こそが『本』で」、社会的な地位や立場は「迹」であるとの指摘。これを銘記して生き抜いてきただけに、後悔はありません。未だ、足らざるを補うために、今から、これからが本番と決めて、日々戦っていこうと決意しています。(2021-10-2)

 

 

 

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【32】心の距離は場所とは無縁ー小説『新・人間革命』第8巻「布陣」の章から考える/9-25

●「信心を学んで帰る」という考え方

昭和38年6月20日、山本伸一は、鹿児島、宮崎への指導に飛び立ちます。21日には空路、徳之島に渡り、そこから奄美大島名瀬まで、5-6時間かけての船旅でした。同行の最高幹部が、奄美の遠さや、船酔いの厳しさを口にしました。また、ある幹部が「わざわざ奄美大島まできたんだから、しっかり信心指導にあたります」と、述べました。これに、伸一は、「指導をするという発想ではなく、奄美の同志から、信心を学んで帰ることだよ。ここの支部長や婦人部長は、この遠く離れた奄美から、毎月、船と列車を乗り継いで、東京の本部幹部会に来ているんだ。それだけでも一週間はかかってしまう。その間、仕事もできないし、送り出す家族の苦労も大変なものだ。(中略)奄美は確かに遠い。しかし、奄美の同志の心は、私に最も近い。私とともにあるといってよい。学会本部にいても、心は私と離れている幹部もいる。心の距離は、決して場所によって決まるものではない」

 私は信仰を始めた頃、「どうしても師匠に会いたい、直接指導を受けたい」との一心でした。その思いは純粋でしたが、この奄美大島の友のようなものだったかどうか。いささか疑問です。その後、10数年が経って、幾たびかお会いできるようになり、今度は一転、その厳しさに怯む思いが生じました。お会いできずとも、遠くで祈ろう、と変化したのです。明らかに退歩です。師と弟子の関係は深く、軽々に論じることはできませんが、「心の距離は場所で決まらない」との指摘は今、様々な意味で重くのしかかってきています。

 信心をめぐって、〝指導は相手から学ぶ〟ことは、心底から共感します。どうしても一方的に話す癖が抜けきらず、あれこれ自分の体験を含め、指導めいた言葉を口にしてしまいます。相手の思いを聞いて聴いて訊き抜いた上で、話すことが出来たらどんなにか凄いか。頭では分かってるつもりですが‥。どこに行っても「信心を学んで帰ること」。この大事さを噛み締めて、これから新たな挑戦をしたいと思っています。

●辺境の地での信心の実証について

 6月22日に名瀬港に面した塩浜海岸の埋め立て地で、奄美大島での「総支部結成大会」は6000人を超える人たちが参加して開かれました。伸一はそこで、戸田先生の示された学会の三指針(①一家和楽の信心②各人が幸福をつかむ信心③難を乗り越える信心)を確認します。そして、終了後の幹部会で、こんな激励をしていることに私は感銘を受けます。

 「台風は頻繁にくる、ハブはいる、交通の便は悪い、経済的にも苦しいーそんなことは承知のうえで、奄美広布をしようと誓願し、あえて多くの宿業を背負って、地涌の菩薩として出現してきたのが皆さんです。それをこんなはずではなかったとか、ここまで大変とだとは思わなかったなどと、不平不満を言っているうちは、まだ自らの使命の真髄たる本地を現していないということです。したがって、本来の力も、智慧も、発揮できないし、事態の打開もないということになります」

 今から、60年近く前に、伸一の渾身の指導を受けて、勇躍歓喜してそれぞれの使命の地に戻った人々。つい先年、この地域で素晴らしい活躍をしている人の体験談を聞く機会があり、感動を新たにしました。因習深き地での見事な実証が印象に残りました。恐らくこの時の伸一の激励が受け継がれているに違いありません。

 コロナ禍で、これまでと違って、会員同士が直接会うことも少なくなりました。リモートで、オンラインでといった通信機器、ITを使っての交流が日常茶飯の出来事です。そういう時代だからこそ、「繋がる」「心の絆」の大事さを痛感します。(2021-9-25)

 

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【31】危うく、脆い「核抑止論」ー小説『新・人間革命』第7巻「操舵」の章から考える/9-18

●豪雪に負けない人たちの感動的な記録

 昭和38年1月24日の夜に、新潟県下で降った豪雪によって、富士宮市の総本山大石寺からの帰りの団体列車が立往生した事故 が起きます。この章冒頭で、その顛末が語られていきます。車中には新潟支部と羽越支部の会員約900人が乗っていました。この時の豪雪は「三八豪雪」と言われ、北陸・信越地方に記録的な被害をもたらしたものです。宮内駅で止まったまま。最終的に60時間もの間、閉じ込められた登山者たちを激励する輸送班員や、幹部の振る舞い、周辺の学会員たちのおにぎりなどの炊き出し、参議院公明会の議員たちの実態調査や救援対策などに動く、真剣な姿が克明に描かれています。(295~319頁)この豪雪で、26本の列車が止まり、そのうち6本が27日まで立往生し、乗客はパニック状態に陥ったりするなど、惨憺たる状態が随所で起こったといいます。想像するに難くありません。「そのなかで、学会員の乗った団体列車では、皆、最後まで整然と行動していたことは注目に値しよう。それは長岡の同志の救援も含め、信仰の力を証明するものであった といってよいだろう」(319頁)と記されています。

 私も昭和42年、大学3年の夏から冬にかけて、数ヶ月の間だけ、輸送班員をしたことがあり、総本山に向かう会員輸送の任務につきました。忘れもしないことには、品川駅の団体待合所に行く時間に寝坊して遅刻してしまったことがあるのです。一般の登山客と同じ時間に到着するあり様で、本山に着くまで、罰として、輸送班員の魂である腕章を付けさせて貰えませんでした。それから暫くして、肺結核に罹ってしまい、あえなく退任する羽目になったのです。遅刻の汚名をそそぐ活躍もなく、病気になり輸送班を辞めるとは恥ずかしい限りでした。尤も、その発病から私の信仰が本格的に始まり、人生の骨格をなす体験を掴むことになるのですが‥。

そんな私ですが、今でも🎵前進漲る我学会の、今若獅子は毅然たり、で始まる「輸送班の歌」は誦じています。懐かしい思い出です。であるがゆえに、この豪雪に直面した列車に任務担当でついていた輸送班の先輩たちを、とても誇らしく思います。また、「現場第一主義」で駆けつけた先輩議員たちの行動にも。

●依然として幅利かす「核抑止論」

海外訪問から1月27日に帰った伸一は、諸会合への出席の合間に、ケネディ大統領との会見の準備に力を注ぎます。彼は、戸田先生が「第一の遺訓」とした「原水爆禁止宣言」(1957年)について語り合い、世界平和への突破口にしようと強く期していました。この宣言は、原水爆を使用したものは、ことごとく死刑にすべきだというものです。原水爆を絶対悪と断ずる、その思いの中で、核兵器の製造を可能にする、正当化の論理に使われてきたのが「核抑止論」だとして、厳しく言及しています。(320頁~321頁)

「核兵器を正当化していたのが、いわゆる核抑止論であった。つまり全面核戦争になれば、人類が滅びるかもしれないという恐怖が、〝戦争を抑止する〟というのである」「全世界を震撼させたあの事件(キューバ危機)は、核抑止論という〝恐怖の均衡〟による平和の維持が、いかに脆く、危ういものであり、それ自体、幻想に過ぎないことを、白日のもとにさらしたといえる」

「核抑止」の考え方は、残念ながら世界の外交現場でも、国際政治学の分野でも、一定以上の大きな力を持ってきました。結果として、曲がりなりにも世界が滅びず、一応の平和が保たれているではないか、という主張に要約されます。核は悪だとする立場とは真っ向から対立してきました。そんな中、僅かではあっても、着実に前進をし、希望の光を繋いできたのが、国連NGO のひとつとしての創価学会SGIの一連の運動です。

「核兵器禁止条約」の実現を待望する動きにも拘らず、「核抑止論」があいも変わらず幅を利かせています。しかし、世界は「米ソ冷戦」の時代とは大きく変わり、ソ連の消滅から米国の後退、中国の台頭という新たな段階に入っています。この環境の流動化の前で、従来の考え方にとらわれない、新しい構想の兆しも見えてきています。理想と現実の狭間で、退かない、絶えざる核廃絶への努力が求められているのです。(2021-9-18)

 

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【30】「『欧州』は人類一体化の実験場」ー小説「新・人間革命」第7巻「早春」の章から考える/9-13

ヨーロッパ統合への動きと逆流と

 昭和38年(1963年)1月、山本伸一はアメリカでの西部総会に出席したあと、ヨーロッパに向かいます。この当時、イギリスのEEC(ヨーロッパ経済共同体)加盟が世界の注目の的でした。この動きについて、極めて重要なやりとりが二つなされています。(229〜239頁)

 一つは、ド・ゴールがイギリスのEECへの加盟を拒否したことについて、世界もヨーロッパも「分断」の方向に進んでいるのではないか、との問いかけに対する伸一の答えです。

 「私は、むしろ、長い目で見るなら、ヨーロッパの統合は〝歴史の必然〟であると思っている」と述べたあと、縷縷その背景に言及。更に「このヨーロッパの統合化への試みは、将来の人類の統合化、一体化への実験場ではないかと、私は思う」とし、「世界連邦にせよ、あるいは世界国家にせよ、いずれ、歴史は、世界平和へ、人類の一体化へと向かっていくにちがいない。いや、そうさせなければならない」との決意を披歴しているのです。

 もう一つは、随行の青年が、ヨーロッパでのメンバーとの語らいの中で、創価学会が国家を超えて、人間と人間を結ぶ宗教であると実感した、と述べたことへの伸一の反応です。

 「そうなんだよ。戸田先生が『地球民族主義』と言われた通り、創価学会は、やがて、国家や民族、人種の違いも超えた、世界市民、地球市民の模範の集まりになっていくだろう。仏法の哲理がそれを教えているからだ」

 この二つの問答は、60年の歳月を一段と意味深いものにさせます。ヨーロッパでの統合化への流れは、紆余曲折を経てEECからEUへと、大きく進んできました。しかし、例えば、フランス始め大陸各国とイギリスの確執は未だ収まりません。EUからのイギリスの離脱は、コロナ禍での英国製ワクチン(アストラゼネカ)への、EU によるネガティヴキャンペーンと、続いています。変わらざる現実と、理想への熱意との絶え間なきせめぎあい。人類の未来へ、身の引き締まる思いです。

 60年前と今。分断から統合化へ、そしてまた新たな分断へ。このように表面上の動きは一見、前進と逆行の繰り返し。何も進んでいないように見えます。しかし、国境を越えたヨーロッパでの広宣流布の流れは、水嵩を増し、とどまることを知らないのです。伸一の発言における「長い目で」と「やがて」の二つの言葉に注目せざるをえません。この戦いが尋常ではないことにせ腹をくくることで、限りなき希望も感じ、強い決意も漲ってきます。

●レバノンでの「人間」と「対話」の考察

 伸一たちは1月22日にローマからレバノンのベイルートに向かいます。当時学会員は一人もいなかったこの国を、なぜ訪問したのでしょうか。アーノルド・トインビーをして「生きた宗教史の博物館」と言わしめた、その地の宗教事情を視察するためだったとされています。「対話」と「人間」をめぐる興味深い考察がなされています。(259-266頁)

 不安定極まりなく紛争がうち続くレバノンで、平和と安定のために、必要なのは、「やはり宗派間の対話なのか」との問いかけに、伸一は、肯定した上で、それでも互いの利害がぶつかり合う現状があることに、「宗派を超えた人間対人間の対話が必要だ」と強調し、「同じ人間として、まず共通の課題について、忌憚なく語り合うこと」であり、「〝共感〟の土壌をつくっていくこと」が最も大切なことだと、力説しています。「〝宗派〟ではなく、〝人間〟を見つめ、宗派間の対話以上に、人間間の対話をしていく以外にない」との結論です。宗教間の争い絶えぬこの地域の基本的な方向性を示したといえましょう。

 あの「9-11」から20年が経った今、アフガニスタンから米軍が撤収することで、より一層事態は紛糾しています。宗教間の対話の混乱に加えて、「世界の警察官」たろうとする米軍の介入。そして半端な撤収。再びの泥沼化。この地において、いつ原点としての「人間関対話」が始まるのでしょうか。暗澹たる思いになりがちです。

 しかし、この後、伸一は「戸田先生が『学会は人間宗でいくんだ』と言われたことがあるが、どこまでも人間が根本です。我々は、こういう大きな心でいこうよ」と述べています。四角四面の教義を押し立てるのでなく、人間臭い「人間宗」で、どこまでもいこう、と戸田先生は仰ってるーそうか、人間的なことが大事なんだ。背伸びせずありのままで、自由でやりたいことをやろう、とあらぬ方向へ解釈を拡大する癖がつい鎌首をもたげてしまいます。(2021-9-13)

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【29】「分断」深める米国の今後ー小説『新・人間革命』第7巻「萌芽」の章から考える/9-8

●ニューヨークでの先輩幹部とその後の出会い

昭和38年(1963年)が明け、1月8日に山本伸一はアメリカ、ヨーロッパ、中東のレバノン、インド、香港への旅に出発します。この章では、アメリカでの一週間が語られます。2年3ヶ月前にニューヨークの地区結成に伸一と共に出席した清原かつ副理事長が率直な感想を述べる場面が印象的です。(174頁)

「私には、これが同じニューヨークだとは、とても思えない変わり様です。最初のニューヨークの座談会の時なんか、みんな泣いてばかりいて、信心の歓喜なんて、まったくなかったんですから。(中略) 信心に励むというのは、勇気をもって、すべてに挑戦するということです。私は、ニューヨークの皆さんこそ、『信心の勇者』として、アメリカ広布の先駆となっていく方たちであると思います」と。話す合間に横合いから伸一が「そうだ」「その通り」と合いの手を入れて、場内を沸かせ、盛り上げるくだりがグッときます。

実は私が創価学会に入って暫く経った頃、清原婦人部長の指導を聞くのがとても好きでした。開口一番、「皆さーん。(どこどこで)こういう体験があったんですよ」と、具体的な地域の名を挙げながら、身近な信心の体験談を話されました。躍動感溢れる口調で、聴くものを惹きつけずにはおかない魅力がありました。観念的な話よりも具体的な体験が印象に残りました。

この後、ニューヨークのメンバーとの質問のやりとりを通じて、伸一は、信仰を深めていくためには、いかに幹部は質問する人に丁寧に答えることが大事かを語っていきます。かつて私は入会してまもない頃、「なぜ御本尊に向かって唱題することで、人の幸不幸が影響されるのか?」などと出会う先輩幹部にあれこれ片っ端から訊いたものでした。答えは納得できることや、できないことなど、色々でしたが、懐かしい思い出です。

公明新聞の記者になって、柏原ヤス参院議員(清原かつはモデル名)の議員会館の部屋に取材に行っことがあります。部屋の隅に、でっかい仏壇がすっぽりジッパー付きの大きいケースに包まれて置いてあったのにはたまげました。それこそ、色々信心のことを質問すれば良かったのですが、柄にもなく何もきけずに終りました。少々残念なことでした。

●アメリカ広布と「分断」に思うこと

ニューヨーク支部結成を兼ねた東部総会が終わったあと、伸一は参加者から、今後世界各国でも政界に参加していくことになるのかと訊かれますが、その必要はないと否定します。そして政治だけでなく、文化、教育などあらゆる分野で、個人個人の自発的行動による社会的貢献の大事さを訴えていくのです。

「一言に広宣流布といっても、その進め方は、それぞれの国情によって異なってくる。日本でそうしてきたからといって、国情も考えずに、ほかの国でも、同じことをすれば、将来、取り返しのつかない失敗を犯してしまう場合もある」(184頁)との記述が続きます。

アメリカ社会は幅広い多様性を示すなかで、共和、民主の二大政党が交互に政権を交代して、安定した民主主義のもとに自由な国家運営を誇ってきました。しかし、このところ両党間の亀裂が深まり、南北戦争時さながらの「分断」の傾向が顕著になってきました。昨今のコロナ禍では、ワクチン接種を巡って賛否が支持政党間で割れる有様。そんな中だからこそ、いずれにも与せずアメリカ社会全体に貢献する、アメリカSGIの存在が貴重なものになると、私には思われます。

更に、伸一は「体制の溝、国家の溝といっても、結局は人間の心の溝からすべては始まっている。だからその人間の心の溝に、私は橋を架けたいんだ」(193頁)と強調しています。

この当時の課題は東西体制間の核戦争の脅威でした。今は、その問題もさることながら、同国内における民衆の心の溝が一段と深刻になっています。社会の闇が一層深まれば深まるほど、それを押しやり、明るく照らす〝太陽の仏法〟の必要性が強まるものと確信します。米社会の有り様に関心を持ち続け、無事・平穏を見守りたい思いです。(2021-9-8)

 

 

 

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【28】「反核」への真摯で具体的な戦いー小説『新・人間革命』第7巻「文化の華」の章から考える/9-4

●「人間性の勝利」めぐるエピソード

昭和37年(1962年)は、創価学会では「民衆の大地に、山本伸一によって、次々と文化の種子が下され、発芽していった年であった」とされます。具体的には、9月27日に学術部、芸術部が新たに誕生します。そして各地で音楽祭や文化祭が開かれていくのです。

「伸一は、広宣流布は、民衆の大地に根差した文化運動であるととらえていた。彼は、ある時、青年たちに〝広宣流布とは、いかなる状態をいうのか〟と問われて、『文化という面から象徴的にいえば、たとえば庶民のおばあちゃんが、井戸端会議をしながら、ベートーベンの音楽を語り、バッハを論ずる姿といえるかもしれない』と答えたことがある」(43頁)ー象徴的にせよ、面白く愉快な例え方です。

ピアノを幼児の時から弾いてきた家内も、もはや70歳なかばのおばあちゃん。サスペンス映画や、お笑い番組の合間に、ピアノ独奏やら交響楽団の演奏を聴いたりしていますから、私の知らないところで、ばあさん達と〝井戸端〟ならぬ〝電話端〟で音楽談義をしているのでしょう。たぶん。

続いて、「人間性の勝利とは、民衆のなかから、真に偉大なる〝芸術の華〟〝文化の華〟が開く時でもある」(44頁)とあります。政治、哲学、思想といった分野には特に強い関心を持つ私など、テレビの好みも違い、家内からは「全く何も知らないんだから」「〝昭和〟だねぇ」と、〝世間知に疎い〟と馬鹿にされます。「人間性」をめぐる夫婦間の微妙な落差が気になります。コロナ禍で、人に会う機会が以前に比べて減った今こそ、〝ライフスタイルの革命〟の時かもしれません。「人間性の勝利」が持つ意味について、いささか心騒ぐ日々です。

●「キューバ危機」への向き合い方

10月14日に文化祭が行われた8日後、「人類を震撼させる大ニュースが世界に流れた」とあり、いわゆる「キューバ危機」をめぐる一連の動きが克明に語られていきます。(50~83頁)

このなかで、「山本伸一は、このニュースを聞くと愕然とした。〝核戦争など、絶対に起こさせてなるものか!〟この日から全精魂を注いでの、懸命な唱題が始まった」との記述があります。さらに、後半の部分で、「『一身一念法界に遍し』(御書412頁)である。強き祈り、真剣なる一念は大宇宙に遍満していく。ゆえに、伸一は、直面している危機の回避を、ひたぶるに祈った。題目で全地球を包み込む思いで。仏法者の平和への戦いは、強盛な祈りから始まる。そして、祈りは決意となり、智慧を湧かせ、勇敢なる信念の行動となる」と。

このくだりに深い感動を覚えます。核戦争への一触即発の危機にあって、右往左往したり、傍観したり、せいぜい評論することが一般である時に、かくほどまでの強い意志のもとに、全身全霊を込めての唱題で立ち上がった人がいたことは、心底から感動します。この時の祈りから、その後の平和に向けての世界の指導者との真剣な対話という行動へと繋がっていくのです。

さらに、この章の最後で、キューバ危機を経て間もなく、ケネディ米大統領から、会見を申し込まれたことが明かされています。伸一は一瞬、その意図をめぐり、政治的に利用されることを憂慮し、どう回答するか、「頭脳をめまぐるしく回転」させます。心理的葛藤についての二頁にわたる詳細な分析は極めて興味深いものがあります。「何秒間の沈黙のあと」、伸一は会見を受諾しました。核戦争を回避していくためにも忌憚なき語らいをしよう、と。(99頁)

会談は、翌昭和38年(1963年)2月に予定されたのですが、残念なことに自民党筋から横槍が入り、断念を余儀なくされました。そして、やがてケネディの死によって永遠にその機会は消えてしまうのです。その辺りについては、後の章で詳しく語られていきますが、まさに現代政治の裏面史を垣間見るようで、迫力満点です。(2021-9-4)

 

 

 

 

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【27】「楽土の沖縄」へ思い新たにー小説『新・人間革命』第6巻「若鷲」の章から考える/8-31

◆「戦場に消えた住民」に見る沖縄の悲劇

昭和37年7月16日。山本伸一は学生部の代表たちとの懇談の場で、御書講義の開始を始め、学生部旗や学生部歌の制作など、根本的な方向性を示します。部員1万人の達成も実現し、大いなる船出の時期を迎えた学生部に、渾身の力を込めて育成に取り組む姿が描かれていきます。

翌17日には、沖縄に飛び、沖縄本部完成の落成式に臨みました。幹部任命式のあと、屋上にあがり、場外で立ち去りかねていた多くの人を前に、演壇から語りかけました。(316頁)

「沖縄はあの太平洋戦争で、本土防衛の捨て石にされ、多くの方々が犠牲になられた。しかし、創価学会の広宣流布の戦いには、誰人たりとも、またひとりたりとも犠牲はありません。すべての人が、最後は必ず幸福になられるのが、日蓮大聖人の仏法です」

伸一の沖縄訪問はこれが三回目。この後も、しばしば沖縄を訪れ、激励を展開しています。「沖縄の悲劇を、深く深く命に刻み、恩師の平和思想実現のために、広宣流布の大空に雄飛しようとしていた」のです。

「沖縄の悲劇」についてこの夏、私は改めて深い衝撃を受けました。NHKBS1テレビでの『戦場に消えた住民〜沖縄戦知られざる従軍記録〜』(8月23日放映)がそれです。この映像では戦闘要員ではない、普通の住民が、炊事婦や看護要員として、ある日突然に連れ去られる様子とその後の行方を克明に追っています。未公開資料を取り入れ、実在する当時の少年の証言をもとに、消えた母の足跡を辿り、遂にその最期の場所を突き止めるのです。明るいタッチのイラストが却って悲劇性を高めるようで、胸打たれずにはおきませんでした。

あの沖縄の悲劇をもたらしたアジア・太平洋戦争の終幕から、明年で77年を迎えます。この歳月は、日本が近代化の幕を明けた「明治維新」から、敗戦に至った昭和20年までの77年とちょうど重なります。亡国の時から今日まで、日本は懸命に復興をめざし、経済大国となり米国と肩を並べるまでになりました。しかし、その内実は、実りある豊かなものであるのかどうか。今に生きる日本人はもう一度原点に立ち返って、精神の復興、文明の飛翔に向けて、体勢を整える時だと思います。

伸一の「楽しく、愉快に、幸せを満喫しながら、この沖縄を楽土に転じていこう」との叫びが耳に響き、胸にこだまします。明年から「今再び」の思いを込め、新たな旅立ちを始めよう、と。

◆『第三文明』にまつわる思い出の一文

この章の圧巻は、学生部の代表に対して伸一が「御義口伝講義」を始めるところです。昭和37年8月31日、第一回の講義の模様が詳細に語られていきます。このくだりが現実に聖教新聞紙上に登場するのは、1997年春のことですが、私が入会したばかりの1960年代半ばの頃は、学生部の先輩から、しばしばそのやりとりの一部を聞いていました。ここでは、学生部長の渡吾郎の他に、田原薫、増山久、臼田昭、上野雅也ら4人のことに触れられています。皆私が直接お世話になった大先輩で、憧れていた人たちばかりです。このうちの一人が、「私たちが文章を書くことも、経と考えていいか」と、質問をします。(333頁〜370頁)

伸一は、これを肯定したうえで、「思想も、哲学も、理念も、文によって表現される。言論は広宣流布の生命線といえる」と、強調し、この当時、学生部の理論誌『第三文明』の編集に携わっていたその学生を「言論界の王者に」と激励しています。(352頁)

実は私も学生部時代に、『第三文明』に一度だけですが、寄稿したことがあります。昭和47年4月号に掲載されました。「緊急課題となった日中国交回復」のタイトルで、「もはや、政府の決断には期待がもてない 今こそ国交正常化に向けての国民運動を」との添書き付きです。当時の私は、公明新聞政治部の新米記者でした。赤木公正というペンネームで、4頁にわたって、ああだ、こうだと拙論を展開しています。今読み返すと恥ずかしい限りですが、意気軒高に佐藤栄作首相の対中政策を批判しています。

今私は、思想、哲学の分野で、二陣、三陣と創価学会の理念を世に宣揚する俊英たちが登場することをこいねがっています。キラ星の如き人材たちがいるはずですから、そろそろ表舞台に登場して欲しい、と。(2021-8-31)

 

 

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【26】中道政治と対立軸ー小説『新・人間革命』第6巻「波浪」の章から考える/8-27

◆イデオロギーにとらわれず是々非々で

昭和37年6月7日第六回参議院選挙が公示され、公政連(公明政治連盟の略称)推薦の9人が立候補し、選挙戦が始まります。支援の原動力になった婦人たちが、現場で訊かれて困惑したのが、公政連は「保守か、革新か」の問題でした。山本伸一は、次のように述べています。

「公政連は、保守や革新といった従来の判別には収まりきらない、中道をめざす政治団体です。この中道というのは、中間ということではありません。従来の資本主義、あるいは社会主義といったイデオロギーにとらわれることなく、国民の幸福と世界の平和を、どこまでも基本にして、是々非々を貫く在り方といえます」(262頁)

公明党の前身、公政連が世に出て60年。時代の流れの中で、政治の対立軸としての「保守」「革新」の仕分けが、変化てきました。ソ連の崩壊と共に、社会主義イデオロギーが後衛に退き、「革新」に替わって「リベラル」という、〝より穏健な革新〟とでも定義付けられる対立軸が浮上してきました。1990年代のことですから、ほぼ30年前になります。今は一般的には「保守対リベラル」といった枠組みで語られることが普通になっています。

では、「保守」は不動かといえば、「真正保守」なる立場を強調する人々がいます。「中道」についても、公明党以外にも看板にかけずとも「中道右派」、「中道左派」と自称、他称する向きがあります。公明党が自民党と連立与党を組んで20年余。「保守中道」と呼ばれることもあったりする一方、リベラル色は公明党こそ強いと見る傾向もあるなど、いささか曖昧模糊の様相を示して、政治評論の現場は混乱していると言わざるをえません。

改めて、中道とは、「イデオロギーにとらわれずに、是々非々を貫く」政治スタンスであるとの〝原点〟に立ち返って、見極める必要があろうかと、思われます。

◆労組の宗教への無知、無関心が元凶

この当時、各政党が、創価学会をどのように見ていたかについて、朝日新聞の昭和37年7月4日付け夕刊の「参院の第三勢力、創価学会」と題する記事が、引用されています。

「自民党は創価学会が将来、自民党に対抗してくるような政治勢力にまで成長するものとは見ていない。(中略)しかし、社会党や共産党の場合は保守党の場合より深刻のようだ。かつて北海道の炭労組織が創価学会に食荒らされたことは、いまなお革新政党幹部の記憶に生々しい」(277~278頁)

この記事は、いわゆる革新勢力の退潮が創価学会の興隆と対比されて解説されていて興味深いものがあります。上記に続き、宗教に関心が薄いと言われる労働者の世界に、創価学会が進出していく様子が危機感を持って記述されています。元を正すと、北海道の炭労幹部が、「組合に所属する学会員に、陰湿な圧迫を加えてきた」ことが発端です。この章では、秋田の尾去沢鉱山と長崎・佐世保の中里炭鉱の労働組合の「組合除名」にまで発展していく経緯が語られていきます。(279~303頁)

労働組合という、働くものの側に立つ人々が、宗教という最も人間存在の根底にねざす問題に無知であり、創価学会を舐めてかかったことが、今日までの衰退の大きな要因だと思われます。日教組、国労などの労働者組織のリーダーの姿勢は、組合員の数量的減少が顕著になってきていても、事態の本質を掴めずにいるようです。かつて兵庫県には、「連合五党協」という名の、労組「連合」を中心にした共産党を除く各政党の集まりがありました。反自民党政治を看板に掲げたグループで、私は公明党の県代表として加わり、労組代表の皆さんと親しく付き合いました。「今は昔」の懐かしい思い出です。(2021-8-27)

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【25】反転攻勢への道は決断一つー小説『新・人間革命』第6巻「加速」の章から考える/8-23

◆御書講義への取り組み方

昭和37年2月27日、中東訪問から帰った伸一は、各地で渾身の御書講義を展開して、弘教を加速する原動力の姿を示していきます。

「彼は、その講義に全魂をかたむけ、真剣勝負で臨んだ。講義が終わると、体中の力が抜けてしまったように感じられることもしばしばあった。(中略)講義で強調すべきポイントは何かを考え、皆がより明快に理解できるよう、どこでいかなる譬えやエピソードを引くかにも心を配った」(196頁)

このように、懸命の準備を、「強い祈りのこもった唱題」と共にしている場面を読むにつけ、私は、自分が入会した時のI地区部長の御書講義の確信漲る姿を思い起こします。昭和40年杉並区の座談会場は決して立派な家でなく、むしろ薄汚れた感がせぬでもないところでした。しかし、同地区部長の明確で確信溢れた講義は今もなお耳朶に残っています。私も、その後、青年部幹部として、懸命に御書講義に取り組みました。ですが、人々の心を打ったか、明快だったかどうか、心もとないものがあります。今の各地区で行われている講義が、単なる読み合わせに終わっていないかどうか。これもいささか気になります。

それにつけても、この章の冒頭に描かれる福岡市博多港周辺の〝ドカン〟と呼ばれる地域の光景こそ、創価学会の日常の一つの原点だと思います。私が信仰の原点を培わせていただいたお家も、今思い返せば、かけがえのない生命錬磨の道場だったなあと、有難い思いでいっぱいになります。(165頁~190頁)

教学部の幹部に対して「広宣流布のいっさいの責任を担う自覚をもっていただきたい」との言葉に始まる重要な指摘があります。(192〜193頁)私はかつて高等部の人材育成グループ「藍青会」(東京二期生、三期生)の副担当をさせていただきました。その時の正担当が時の教学部長でした。後にこの人は退転し、創価学会に敵対するのです。であるがゆえに、私は断じて学会の正義を守り伝える役割を果たさんものと、強く決意しました。この時の高校生の中から多くの逸材が各界各分野で羽ばたいていることは大きな誇りです。

◆最も真面目で誠実な宗教団体

4月15日に、北海道本部での地区部長会に出席した伸一は、「北条時宗への御状」の講義を行います。(212〜216頁)その中で、ある政界の指導者に語った言葉が登場します。

「私たちは、政治を支配するなどといった考えで、同志を政界に送り出したのではありません。学会の目的は、どこまでも民衆の幸福と、世界の平和にあります。そのために、日々、心を砕き、行動している。最も真面目で誠実な宗教団体が創価学会です」(213〜214頁)

この時から約60年。今日本も、そして世界もまさに危機に瀕しているとの見方があります。コロナ禍で各国は右往左往するばかり。地球環境は荒廃の一途を辿りゆく状況下に、自国中心主義の横行と分断の進行は止まることを知らない、と。これをどう見るか。創価学会、SG Iの存在があり、公明党も与党にいながら、と悲観視し、成り行き任せにするか。それとも「真面目で誠実な創価学会」あらばこそ、と、近未来における事態の好転を確信して、自身の出来ることから着手するか。どちらに行くかは、我々の決断一つだと思います。(2001-8-24)

 

 

 

 

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