●どんな災害にも負けない東北の人びと
「青葉には希望がある。未来に伸びゆく若々しい力がある。青葉──それは、限りない可能性を秘めた東北を象徴していよう。杜の都・仙台は、美しい青葉の季節であり、街路樹のみずみずしい緑がまばゆかった」との書き出しで始まるこの章は、1978年(昭和53年)5月27日に仙台空港に伸一が到着し、新たに完成した東北平和会館に向かうところへと繋がります。
【伸一は、草創期以来、東北の同志を、じっと見続けてきた。そのなかで実感してきたことは、どんな困難に遭遇しても、決して弱音を吐かないということであった。東北の人びとは、冷害をはじめ、チリ津波などさまざまな災害に苦しんできた。しかし、彼らは、「だからこそ、ご本尊がある!」「だからこそ、地域中の人たちを元気づけるために、俺たちがいる!」「だからこそ、広宣流布に一人立つのだ!」とそのたびに、一段と闘魂を燃え上がらせてきた。】(348頁)
私は縁あって、高等部幹部の時代に一年間(昭和48年)、東北担当をさせていただきました。主な任務は、月に一回東北6県から仙台に集まってくる男女高校生たち30人に対して御書講義をすることでした。毎回渾身の力を込めて激励し続けてきました。私の基本姿勢は、信仰を自分のものとするためには体験をつかませて欲しいと祈ることを強調することにありました。親がやってるから自分もという様な受け身でなく、能動的に自身の信仰体験を持てと訴えました。その中から一級の人材が輩出出来たことは大きな誇りとして今もあります。
あの東日本大震災の起こった直後に、最高幹部に成長した当時の高校生男女2人と共に岩手の被災地を訪れました。卒業後中野区で大学生活を送った東北健児のその後を私は見守ってきましたが、この時ばかりは、激励に緊張を覚えました。しかし、池田先生が、日蓮大聖人の『其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ』(御書1467頁)の一節を引かれて、「岩手の広宣流布は自分に任されたとの自覚に立て」との指導を身に帯した彼らからは強い闘争心を感じこそすれ弱気は微塵も伺えませんでした。大丈夫だと確信したものでした。
●青葉城址での戸田先生との語らい
この時の仙台訪問の際に伸一は、青葉城趾を訪れ、24年前の戸田先生との語らいを思い起こす場面が出てきます。「どこかを訪れたら、周囲を一望できる、城や丘などに立ってみることだ。すると、全体の地形がよくわかる。それは、そこで暮らしてきた人びとの心を知り、生活を理解する、大事な手がかりになるんだよ」と、戸田先生は述べられる一方、牧口先生が『人生地理学』で、全体の地理を俯瞰することの大事さをも強調されました。このあと、2人の間で、青年の人材育成をめぐる重要な問答が展開され、強い印象を抱きます。
それは、要約すると、一に『使命の自覚』、二に『向上心』、三に『忍耐』ということです。「使命の自覚のもと、人生の目標を定めて、月々日々の課題に挑戦していくこと」「今のままの自分で良しとし、挑戦をあきらめてしまうのでなく、『もっと自らを高めよう』『もっと前進しよう』という姿勢が大事である」「辛抱強くたえぬくことの大切さを痛感しております」──これは戸田先生が弟子の伸一の考えを表明させた上で、同意された結論です。鮮やかな師弟不ニの呼吸を感じて、続く弟子として深く共鳴せずにはいられません。
●無名無冠の王者のひたむきさ
ついで、6月に伸一は北海道指導に赴きます。別海町尾岱沼の北海道研修道場での伸一の様々な振る舞いが感動的です。零下30度近くにもなる厳しい冬に耐え、必死の戦いを続ける青年たちの活動に「健気で一途で、清らかな〝無名無冠の王者〟であり、〝庶民の女王〟だ」と讃えるのです。とりわけその中で、根室本部の菅山勝司本部長の戦いには胸打つものがありました。(404-417頁)
1960年(昭和35年)9月のこと。別海から列車で3時間かかる釧路で会合があるとの知らせを受け、酪農に取り組む菅山青年は悩みます。交通費がなかったのです。悩みに悩んだ末に、「そうだ自転車で行けばいいんだ!環境に負けていていいわけがない!──そう言っているよう思えた。彼は起き上がった」。自転車で向かうことを決意したのです。一晩がかりで、100キロを超える走行。雨に見舞われ、干し草の山に潜り込み凌いだり、道端の山ぶどうを食べて走り続けました。そして到着。「全参加者がこの〝別海の勇者〟を、大拍手と大歓声で讃えた。彼らは、菅山の姿に男子部魂を知った。北海の原野に赫々と昇る、太陽のごとき闘魂を見た」と、あるのです。
この時のことを後に聖教新聞で知った私たち〝大都会の青年〟も感動に打ち震えたものです。大変な環境下で頑張る仲間に負けるものかと、闘志を掻き立てました。(2023-2-20)