Monthly Archives: 2月 2023

【108】苦難にも弱音を吐かない━─小説『新・人間革命』第27巻「求道」の章から考える/2-20

●どんな災害にも負けない東北の人びと

 「青葉には希望がある。未来に伸びゆく若々しい力がある。青葉──それは、限りない可能性を秘めた東北を象徴していよう。杜の都・仙台は、美しい青葉の季節であり、街路樹のみずみずしい緑がまばゆかった」との書き出しで始まるこの章は、1978年(昭和53年)5月27日に仙台空港に伸一が到着し、新たに完成した東北平和会館に向かうところへと繋がります。

 【伸一は、草創期以来、東北の同志を、じっと見続けてきた。そのなかで実感してきたことは、どんな困難に遭遇しても、決して弱音を吐かないということであった。東北の人びとは、冷害をはじめ、チリ津波などさまざまな災害に苦しんできた。しかし、彼らは、「だからこそ、ご本尊がある!」「だからこそ、地域中の人たちを元気づけるために、俺たちがいる!」「だからこそ、広宣流布に一人立つのだ!」とそのたびに、一段と闘魂を燃え上がらせてきた。】(348頁)

   私は縁あって、高等部幹部の時代に一年間(昭和48年)、東北担当をさせていただきました。主な任務は、月に一回東北6県から仙台に集まってくる男女高校生たち30人に対して御書講義をすることでした。毎回渾身の力を込めて激励し続けてきました。私の基本姿勢は、信仰を自分のものとするためには体験をつかませて欲しいと祈ることを強調することにありました。親がやってるから自分もという様な受け身でなく、能動的に自身の信仰体験を持てと訴えました。その中から一級の人材が輩出出来たことは大きな誇りとして今もあります。

 あの東日本大震災の起こった直後に、最高幹部に成長した当時の高校生男女2人と共に岩手の被災地を訪れました。卒業後中野区で大学生活を送った東北健児のその後を私は見守ってきましたが、この時ばかりは、激励に緊張を覚えました。しかし、池田先生が、日蓮大聖人の『其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ』(御書1467頁)の一節を引かれて、「岩手の広宣流布は自分に任されたとの自覚に立て」との指導を身に帯した彼らからは強い闘争心を感じこそすれ弱気は微塵も伺えませんでした。大丈夫だと確信したものでした。

●青葉城址での戸田先生との語らい

 この時の仙台訪問の際に伸一は、青葉城趾を訪れ、24年前の戸田先生との語らいを思い起こす場面が出てきます。「どこかを訪れたら、周囲を一望できる、城や丘などに立ってみることだ。すると、全体の地形がよくわかる。それは、そこで暮らしてきた人びとの心を知り、生活を理解する、大事な手がかりになるんだよ」と、戸田先生は述べられる一方、牧口先生が『人生地理学』で、全体の地理を俯瞰することの大事さをも強調されました。このあと、2人の間で、青年の人材育成をめぐる重要な問答が展開され、強い印象を抱きます。

 それは、要約すると、一に『使命の自覚』、二に『向上心』、三に『忍耐』ということです。「使命の自覚のもと、人生の目標を定めて、月々日々の課題に挑戦していくこと」「今のままの自分で良しとし、挑戦をあきらめてしまうのでなく、『もっと自らを高めよう』『もっと前進しよう』という姿勢が大事である」「辛抱強くたえぬくことの大切さを痛感しております」──これは戸田先生が弟子の伸一の考えを表明させた上で、同意された結論です。鮮やかな師弟不ニの呼吸を感じて、続く弟子として深く共鳴せずにはいられません。

 ●無名無冠の王者のひたむきさ

 ついで、6月に伸一は北海道指導に赴きます。別海町尾岱沼の北海道研修道場での伸一の様々な振る舞いが感動的です。零下30度近くにもなる厳しい冬に耐え、必死の戦いを続ける青年たちの活動に「健気で一途で、清らかな〝無名無冠の王者〟であり、〝庶民の女王〟だ」と讃えるのです。とりわけその中で、根室本部の菅山勝司本部長の戦いには胸打つものがありました。(404-417頁)

   1960年(昭和35年)9月のこと。別海から列車で3時間かかる釧路で会合があるとの知らせを受け、酪農に取り組む菅山青年は悩みます。交通費がなかったのです。悩みに悩んだ末に、「そうだ自転車で行けばいいんだ!環境に負けていていいわけがない!──そう言っているよう思えた。彼は起き上がった」。自転車で向かうことを決意したのです。一晩がかりで、100キロを超える走行。雨に見舞われ、干し草の山に潜り込み凌いだり、道端の山ぶどうを食べて走り続けました。そして到着。「全参加者がこの〝別海の勇者〟を、大拍手と大歓声で讃えた。彼らは、菅山の姿に男子部魂を知った。北海の原野に赫々と昇る、太陽のごとき闘魂を見た」と、あるのです。

 この時のことを後に聖教新聞で知った私たち〝大都会の青年〟も感動に打ち震えたものです。大変な環境下で頑張る仲間に負けるものかと、闘志を掻き立てました。(2023-2-20)

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【107】「魔王」に支配された指導者──小説『新・人間革命』第27巻「激闘」の章から考える/2-12

●音楽隊スピリットを体現した2人の隊長

 会長就任18周年になる1978年(昭和53年)5月3日の記念式典のあと、伸一は5日の「創価学会後継者の日」を祝しての未来部代表との記念撮影、音楽隊の全国総会へと挑みます。「第一回創価学会男子部音楽隊総会」のパネルの前。隊員の輪の中で1人の青年を抱きしめる伸一の笑顔が輝く挿絵が目に飛び込んできます。

 終了後にテレビ局や新聞各社の記者と懇談会がもたれました。そこで、青年たちとの信頼関係をどう築いてきたのか?と問われ、次のように語る場面が印象的です。

 「ありのままに、お答えします。私は、今日も、〝ひたすら諸君の成長を祈り、待っている〟と言いました。また、一切をバトンタッチしたい〟とも語りました。青年たちに対する、その私の気持ちに、嘘がないということなんです。(中略)  青年に限らず、皆が喜んでくれるならと、たとえば、去年一年間で、色紙などに1万784枚の揮毫をしました。つまり、私は、本気なんです。だから、その言葉が皆の胸に響くんです。だから、心を開き、私を信頼してくれるんです」(220頁)

    また、多様化する価値観の中で、青年たちに強く訴えておられるのは?と聞かれて、次のように答えます。

 「私は、青年には、生き方の根本的な原理と言いますか、人生の基本となる考え方を訴えるようにしています。いわば、その原理に則って、各人が、それぞれの具体的な問題について熟慮し、自ら結論を出してもらいたいと思っているからです。そのうえで、私が強調していることの一つは、『苦難を避けるな。苦労しなさい。うんと悩みなさい』ということです」

 音楽隊というと、私は2人の全国隊長を思い起こします。1人は有島重武さん。大学の先輩で第一回慶大会発足(昭和43年4月26日)の際が初対面でした。当時は衆議院議員になられたばかり。のちに記者として取材もさせていただきました。もう1人は、小林啓泰さん。中野区男子部仲間で、歳上ながらいつも支えていただきました。後に民主音楽協会のトップになられましたが、いつも快活無比で颯爽とされていました。お二人とも誠実そのもの。音楽隊スピリットを骨の髄まで体現された、素晴らしい〝楽雄姿〟が目に焼き付いています。

●「第六天の魔王」とは何か

 このあと、伸一は九州研修道場へ飛び、5月15日には、自ら研修を担当します。「辯殿尼御前御書」(御書1224頁)を用いて。「広宣流布を進めようとするならば、必ず第六天の魔王が十軍を使って、戦を起こしてくる」とのくだりです。

「なぜ、第六天の魔王が戦を仕掛けてくるのか。もともと、この娑婆世界は、第六天の魔王の領地であり、魔王が自在に衆生を操っていたんです。(中略)  ゆえに、成仏というのは、本質的には外敵との戦いではなく、我が生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。つまり、内なる魔性を克服していってこそ、人間革命、境涯革命があり、幸せを築く大道が開かれるんです」(261-262頁)

  ここはなかなか仏法と無縁の普通の衆生には分かりづらい箇所だと思われます。人間の生命の働きをこうした喩えで表現されても、感情的に拒否するという人が多いでしょう。しかし、じっと考えると、人間の生命そのものが不可解としか言いようがありません。そこを悟った超越的な洞察力を持った仏的存在から、「第六天の魔王とは、『他化自在天』ともいって、人を支配し、意のままに操ることを喜びとする生命であ」り、「戦争、核開発、独裁政治、あるいはいじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようとする」ものといわれると、分かるような気がしてきます。「プーチン」の現状と重なって。

●十軍の意味するもの

   続いて、「十軍」の講義がまた興味深いのです。

 「では、魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍とは、種々の煩悩を十種に分類したもので、南インドの論師・竜樹の『大智度論』には、『欲』『憂愁』『飢渇』『渇愛』『睡眠』『怖畏』『疑悔』『瞋恚』『利養虚称』『自高蔑人』とある」(263頁)

   ここは5頁にわたって展開されていますが、最後の10番目の「自高蔑人」が核心を突いて迫ってきます。

 「これは自ら驕り高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。慢心になると、誰のいうことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。また、周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。社会的に高い地位を得た人ほど、この魔にたぶらかされてしまいがちなんです」

 仏法は魔との戦いと聞いてきました。人生は仏と魔との戦いだとも。我が父は「男は外に一歩出ると7人の敵がいると思え」が口癖。大事な教訓と戒めてきましたが、その前に己心に敵がいることも銘記しないといけません。(2023-2-13)

 

 

 

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【106】世界の危機を救う仏法哲理──小説『新・人間革命』第27巻「正義」の章から考える/2-7

 

 

●人類を襲う4つの危機と仏法による解決の原理

 この章は冒頭で広布第2章の歴史がまとめて述べられています。そして、世界がかかえる諸問題を根本的に解決するための、原理と方途が示されていきます。ここでは、4つに分けられた仏法の根本原理について整理してみます。(112頁)

 1つは、他者の幸せを願う「慈悲」という生き方。2つは、自分と環境が不可分の関係にあるという「依正不ニ」の哲理。3つは、肉体と精神とは密接不可分の関係にあると説く「色心不ニ」の道標。4つは、人間は互いに深い因縁で結ばれているという「縁起」の思想です。

 仏法が持つこの4つの特質は、それぞれ、①生命軽視の風潮を転換し、戦争の惨禍にピリオドを打つ②環境破壊をもたらした文明の在り方を問い直す③人間の全体像を見失いがちな現代医学の進むべき道を示す④分断した人間と人間を結合させる──といった効力を持つとして、改めて強調されています。

 伸一は、これらを人類の共有財産として、平和と繁栄を築き上げることこそが広宣流布だと銘記し、世界各国・地域を巡り、人々の心田に、幸福と平和の種子を撒き続けてきたのです。

 たとえば、今世界を震撼させているウクライナ戦争について、池田先生は1月16日の緊急提言で、直ちに関係各国の外相が集まって停戦に向けての話し合いの場を持つべきだと呼びかけています。上記①から導き出された提言です。②は、地球環境破壊への、③ は人間の健康衰退への、④は進む国際社会の分断への、根源的な解決の道が示されていると、理解すべきだと思います。これを真剣に受け止めていかないと、人類はもう滅亡の道しかないと思われます。

●国家権力の弾圧で獄死した牧口会長

   この章では、このあと、先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖の精神について、歴史的経緯に基づいて触れられていきます。それは、「宗教のための人間」から、「人間のための宗教」の時代の幕を開く、宗教革命の歴史でありました。【精神の継承なき宗教は、儀式化、形骸化、権威化して、魂を失い、衰退、滅亡していく】との観点から見て、日蓮正宗が既成仏教化していく姿が描かれていくくだりは極めて重要です。(115頁)

 宗門が大聖人の魂を捨て去ることを物語る驚くべき出来事が起こった──国家神道を精神の支柱にして、戦争を遂行しようとする軍部政府は、思想統制のため、天照大神の神札を祭るよう、総本山に強要してきました。これを宗門が受け入れると共に、学会にもそうするよう求めたのです。

 【牧口は、決然と答えた。「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」彼は、「時の貫首為りといえども仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書1618㌻)との、日興上人の御遺誡のうえから、神札を拒否したのである。牧口のこの一言が、正法正義の正道へ、大聖人門下の誉れある死身弘法の大道へと、学会を導いたのだ】(122頁)

 その結果、牧口先生は戸田先生と共に、軍部政府の力で獄に繋がれることになり、殉教されるに至ります。まさに死身弘法のお姿そのものでした。そして、戸田先生の獄中での壮絶な唱題と思索の末による悟達で、その後の学会創建へと繋がっていくのです。牧口先生のこの時の決断は、今に至る学会精神の根幹をなしてきました。国家権力による創始者の獄死があることは、永遠に忘れられない創価学会の原点なのです。

●師弟の誇りの歌をなぜ歌ってはいけないのか

 1978年(昭和53年)の春から各地で、文化合唱祭が企画されていました。埼玉から静岡を経て、三重へと伸一は移動して、合唱祭に向かいます。三重では、婦人部の愛唱歌『今日も元気で』が当初歌われる予定であったのに、急遽中止されることになり、それに対して、なぜ歌ってはいけないのかとの声が高まったことが描かれています。(187-190頁)

 この当時、学会員が会長の山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧侶たちがいました。日蓮正宗には、僧侶と在家は上下関係にあることを信じて疑わない頑迷な存在もあったのです。彼らには、信徒の分際で師として崇められる存在がいることを許してはならないとの思いがありました。

そうした動きがあるのを察知して、この愛唱歌──師匠を求めて止まない心情が込められています──を歌うことで、合唱祭に出席していた僧侶たちを刺激しないようにと、歌わない方向に県の幹部が決めたのです。〝どうして師匠を敬愛する心を隠さねばいけないのか〟との抗議の声が強く、結局歌うことになりました。

 宗門と学会側の軋轢に対して、伸一は〝学会はどこまでも広宣流布のために、死身弘法の誠を尽くしながら、宗門を守り抜く決意であり、さらに連携を取り合い、前進していきたい〟との思いを僧侶たちとの懇談の機会に、いつも語っていました。(2023-2-7)

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【105】問われる文明の在り方──小説『新・人間革命』第27巻「若芽」の章から/2-3

●国家のためでなく、子ども自身の幸福のために

 1978年(昭和53年)4月9日。東京創価小学校が小平市鷹の台で開校します。ここに創価一貫教育が完成を見たのです。2年前の起工式は、創価教育の父・牧口常三郎先生の33回忌を目前にした11月3日でした。その際に、伸一は心の中で、こう牧口に語りかけたと、記述されています。(36-37頁)

   〝牧口先生!先生は、国家のための人間をつくろうという教育の在り方に抗して、子ども自身の幸福を実現するために、創価教育を掲げて立たれました。今、その創価一貫教育の学舎が、この小学校の建設をもって、完成を迎えます。どうか、新世紀を、五十年先、百年先をご覧ください!人生の価値を創造する人間主義教育の成果として、数多の創価教育同窓生が燦然と輝き、世界の各界に乱舞していることは間違いありません〟

 私の娘はこの8年後に東京創価小学校の学舎に通いだしました。6年間のあの日あの時の思いが胸をよぎります。私が関西の地、生まれ故郷・姫路に転居したため、残念ながら娘は創価中学校には行けませんでした。そのことが時に思い出されます。自分の新しい船出に思いが強く、未聞の初めての地に赴く家族へのこまかな配慮が足りなかったかもしれないとの後悔もないではありません。であるがゆえに、一層、小学校の6年間が〝一生の宝もの〟として刻印されているに違いないと確信しています。

●今こそが大転換のとき

 入学式において、教育にかける自分の真情を伸一は、次のように語っています。

 「人類の未来のために、最も大切なものは何か。それは経済でも、政治でもなく、教育であるというのが私の持論です。人類の前途は、希望に満ちているとは言いがたい現実があります。長い目で見た時、今日の繁栄の延長線上に、そのまま二十一世紀という未来があると考えるのは間違いです。社会の在り方、さらには文明の在り方そのものが問われる大転換期を迎えざるを得ないのではないかと、私は見ています」(53頁)

    伸一は、そういう文明の在り方そのものが問われる時のために、「人類のため、世界平和のために貢献できる人間を腰をすえて育て上げていく以外に未来はありません。そのための一貫教育です」と語ったのです。

 それから45年。今、人類を取り巻く状況は、いよいよ行き詰まりを見せています。ものの見事に伸一は今日の世界の到来を予測して、「教育」の大事業に取り組み、手を打ってきたといえます。小学校から大学へ、創価の一貫教育のもと、育まれた人材が世界中に羽ばたいています。その彼らを中核に、「老壮青少一体」となった、〝校舎なき総合大学〟で学んだ人間群が、歴史を大きく転換させる正念場が今だ、と私は思います。

 統一地方選挙を目前に、公明党の候補者が勢揃いし、創価大卒の経歴が目立ちます。政治家はこのように歴然と人の目につきますが、それ以外の分野では学歴はそう目につく機会はありません。しかし、それこそあらゆる分野で創価教育の門下生が黙々と、その力を発揮していることを私は知っています。かつて、高等部で担当した生徒たちだけを見ても、医師に、学者に、司法界に、官僚に、ジャーナリズムにと、一杯いるのです。

●お世話になった人にはお礼を

 この章では、文字通り、至る所で伸一が子どもたちや教職員らに対して述べた助言が登場して注目されます。印象に残る言葉を挙げてみます。(55頁-62頁)

※皆が人材である。それぞれの能力を生かすには、たくさんの評価の基準、つまり褒め称える多くの尺度をもつことが大事になる。

※生きるということは、自分の歴史を創っているということなんだよ。そして最高の歴史を創るためには、勇んで困難に挑戦していくことが大事です。偉人というのは、困難に挑んだ人なんです。

※どんな役割であれ、自分の役割の重要性を自覚し、全力を注いでいくことの大切さを訴えたかった。

※権威を誇示しての教育は子どもの心を歪める。魂の触れ合いを通して育った信頼こそが、教育の基盤だ。ゆえに、伸一は、児童との接触を何よりも大切にしたかったのである。

 そんななかで、伸一が「せっかくの機会だから、校長先生始め先生方に『ありがとうございます』と言おうよ。先生たちは、いつも、みんなが帰ったあとも、後片付けをし、みんなのことを心配してくださっているんだよ」と、述べて、「ありがとうございます」と言わせるところが出てきます。「お父さんやお母さん、またお世話になった人には必ずお礼を言うことが大事です。それが人の道なんです」と。

 かつて、池田先生は、ある会合で、お世話になった支持者の皆さんにお礼をいうんだよ、と「ありがとうございました」というように、私たち政治家に促されたことがあります。私は頭の上げ方が早いと厳しく叱られました。奥底の一念を見抜かれたのです。(2023-2-3)

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