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【114】人間中心から自然中心へ──小説『新・人間革命』第29巻「力走」の章から考える/4-12

●環境問題を軸に「地方の時代」で提言

 1978年(昭和53年)11月18日に開かれた本部幹部会は、創立48周年の本部総会の意義も込められていました。昭和5年から「7年を一つの節」にして刻んできた「7つの鐘」の歴史も、翌年で鳴り終える(7×7=49年。5+49=54年)ことになり、大きな意味がありました。総会の席上、伸一は今や人類的課題となった「環境問題」を中心に「地方の時代」などについて提言を行うことを予告。翌日付けの聖教新聞に発表されたのです。(123-130頁)

    そこでは、日本の近代は「消費文明化、都市偏重」によって「過密・過疎や環境破壊が進み」、「地方の伝統文化が表面的、画一的な中央文化に従属させられてきた」との認識のもと、創価学会の役割として、「一人ひとりが地域に深く信頼の根を下ろす」なかで、「地道な精神の開拓作業」をすることによってしか「真実の地域の復興もあり得ない」と訴えていました。

 また、環境問題については、西洋近代の「人間中心主義」が公害の蔓延に見るように既に破綻しており、「東洋の発想である自然中心の共和主義、調和主義へと代わらなければ、抜本的な解決は図れない」と捉えた上で、「〝内なる破壊〟が〝外なる破壊〟と緊密に繋がっているとすれば、〝内なる調和〟が〝外なる調和〟を呼んでいくこともまた必然である」と、人間の内なる変革、人間革命の必要性を結論づけていました。

 「環境問題」は、21世紀に入って一段とその重要性が語られてきており、2030年までに、差別、人権、貧困などの諸課題と共に、SDGS(持続可能な開発目標)の旗印のもとに、根本的な解決が目指されています。しかし、現実はコロナ禍で世界の相互依存、相互扶助が求められているにもかかわらず、ウクライナ戦争で世界各国は幾重にも分断状況が深まるばかりで、事態は混迷の度を増し続けています。さてこの時に人類はどう対応するのか。私は創価学会SGIによる人間変革の一大潮流を世界中に巻き起こすしかないと思うのですが。

●怨嫉についての深い考察

    伸一は各地での懇談で、信心をする中での種々の課題について語っています。そのうち、この年12月1日に三重県名張市で行われたドライブインでの懇談は「怨嫉」がテーマとなったとても印象深いものと思います。

 「実は怨嫉を生む根本には、せっかく信心をしていながら、我が身が宝塔であり、仏であることが信じられず、心の外に幸福を追っているという、生命の迷いがある。そこに、魔が付け込むんです。皆さん一人ひとりが、燦然たる最高の仏です。かけがえのない大使命の人です。人と比べるのではなく、自分を大事にし、ありのままの自分を磨いていくことです。また、自分が仏であるように、周囲の人もかけがえのない仏です。だから、同志を最高に敬い、大事にするんです。それが、創価学会の団結の極意なんです」(161-162頁)

    「怨嫉」が原因で信心から遠ざかる人を私も沢山見てきました。人間関係を危うくする最大のトラブル因かもしれません。金銭、病気などよりもむしろ厄介なものともいえます。人と自分との比較、人間相互の比較──好きか嫌いかが根っこにあって、理性が狂わされるケースは数多あるのです。これらを乗り越えるには、「ともかく、題目を唱えていけば、自分が変わります。自分が変われば、環境も変わる」との原理に立つしかないと思われます。

 神も仏もあるものか──ひとは逆境に立たされ、自分の思い通りにことが運ばないと、このセリフを吐きがちです。ここでいう「神も仏も」は、「自力」でなく「他力」の象徴表現です。「自分自身が仏だ」との核心的境地に立てば、周りの環境を動かすことができるのです。神(諸天善神)は環境であり、仏は自分自身であることに、気付かないことに根本原因があります。神も仏も紛れもなく存在する、あるのです。

●高知での師弟愛

 伸一は三重から、高知に飛び、支部結成22周年の記念幹部会に出席します。この地には2年前に県長として東京から、日本橋育ちの島寺義憲が派遣されていました。赴任時に35歳だった彼を伸一は激励します。その時の言葉、高知への思いが印象深く迫ります。(173-229頁)

 「心の底から皆を尊敬し、周囲の人があの県長を応援しようと思ってくれるリーダーになるんだよ。もう一つ大事なことは、一人ひとりと繋がっていくことです。皆さんのお宅を、一軒一軒、徹底して回って、友人になるんだ」などと懇切丁寧に語っていきます。

 この島寺のモデルは東京中央区の草創期からの信心強盛な一家の次男。実は長男が私の職場の上司で、若き日様々な影響を受けました。三男が男子部で一緒に戦った仲でした。伸一との縁も深く絆も強い関係であることを念頭に読み進めると、師弟愛の奥深さが伝わってきます。(2023-4-12)

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【113】「南北問題」の懸念的中──小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章から考える/4-5

●「南北問題」をめぐるガルブレイス博士との対談

 【対話は、人間の最も優れた特性であり、それは人間性の発露である。語り合うことから、心の扉は開かれ、互いの理解が生まれ、友情のスクラムが広がる】──「常楽」の章はこの一節から始まり、アメリカの経済学者で『不確実性の時代』などの著者として知られるハーバード大学のJ・K・ガルブレイス博士との対話が展開されます。  1978年(昭和53年)10月10日のこと。会談に同席していた出版社の社長(講談社の野間省一氏)の「『南北問題」に日本は何をすべきか』との問いに対する2人の答えが注目されます。(16-24頁)

 博士は①富の一部を貧しい国に資本のかたちで供与する②農業による貢献を挙げ、「貧しい国の人びとが本当に必要としているものは何かを考えることです」とした上で、山本会長に意見を求めました。同会長は、博士の主張に賛意を示す一方、「経済次元の物質や技術の一方的な援助をし続けていくだけでは、国と国とが単なる利害関係になったり、援助を〝する国〟と〝される国〟という上下関係になったりすることが懸念されます」と述べ、「相互の信頼関係を築いていくことが不可欠です」と答えています。

 山本会長は、「忍耐強く10年、20年、50年と行う以外に永続的な信頼の道は開けない」と思うが故に、「人間対人間を基調とした教育・文化の恒久的な交流の必要性」をずっと訴え続けてきたと強調。博士もこれに賛同の意を表明したのです。

 この時から45年。山本会長の懸念した通り、残念ながら南北問題は収束せずに、益々、援助国=北と、被援助国=南の格差は広がりを見せています。その背景には相互の信頼関係が築かれないばかりか、更なる怨念が重なり、問題は深刻化する傾向にあります。今これは「グローバル・サウス」と呼ばれていますが、本質は同じです。諦めずに、同会長の指摘通り「人間を基調にした相互の信頼関係」を進めていくべく、公明党が与党として自民党にもっと強く働きかけて、現在の歪な世界経済の構造を改める努力を続けるしかないと思われます。

●御本尊謹刻問題での謀略

 この頃、日蓮正宗の僧侶が学会批判を繰り返していました。伸一は、日蓮大聖人御在世の弘安2年(1279年)に起こった「熱原の法難」の歴史を振り返りつつ、「殉教」について思索を巡らせていきます。天台宗寺院の弾圧によって犠牲者が出た問題から、1978年当時の宗門による種々の難詰事件へと焦点は移動していきますが、現代の信仰を考える上で極めて重要な糸口になります。

 きっかけは、学会のご本尊謹刻問題でした。紙幅のご本尊を板御本尊にするという過去から行われてきたことについて、若手の僧侶が騒ぎ出し、謝罪要求を強く責めてきたのです。この背後には弁護士の山脇友政と宗門の悪僧との結託による謀略があったのです。

 学会は、総本山の大講堂で行われた代表幹部会の場で、争う姿勢を取らず僧俗和合の観点から宗門の要求に応じることにしました。伸一は不本意ではありましたが、自分が耐え忍ぶことで会員同志を守れるならばと、卑劣な僧侶の攻撃にピリオドを打つべく、次のように呼びかけました。

 「広宣流布は、万年への遠征であります。これからが、二十一世紀へ向けての本舞台と展望いたします。どうか同志の皆さんは、美しき信心と信心のスクラムを組んで、広々とした大海のような境涯で進んでいっていただきたい」(78頁)

   広宣流布とは流れそのものと頭では思っていても、現実には私はゴールを常に意識していました。「万年への遠征」「大海のような境涯で」との言葉に覚醒する思いを抱いたものです。

 ●加古川から姫路への〝激励行〟の余韻

 伸一は11月5日に落成したしたばかりの泉州文化会館での様々な激励指導を終えて、13日には兵庫の加古川文化会館、14日には姫路文化会館結成18周年記念勤行会に出席します。

 そこでは「これからは兵庫県が大事だ。兵庫が強くなれば、それに啓発されて大阪も強くなる。両者が切磋琢磨し合っていくならば、それが関西の牽引力になり、日本、世界の一大牽引力となる。また兵庫県を強くするには、これまで、あまり光の当たらなかった加古川などを強化していくことだ。それが、永遠なる常勝の王者・関西を築くポイントです」「あの姫路城のごとく、堂々たる信念の仏法者であってください!」と力説しました。(120-121頁)

 私が生まれ故郷の姫路に戻ったのは、1989年の暮れ。この訪問の時から10年余りが経っていました。播磨地域のどこへ行っても、この時の山本会長の〝激励行〟の余韻が強く残っていたことを明確に思い出します。さらに25年ほどが経った今、関西の中で、兵庫の占める位置がひときわ大きくなり、大阪との連携が一段と強まる一大牽引力となっていることを実感します。(2023-4-5)

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【112】島は一つの国──小説『新・人間革命』第28巻「勝利島」の章から考える/3-29

●島では実証を示す以外に道はない

 【不屈の精神は、不屈の行動を伴う。寄せ返す波浪が、いつしか巌を穿つように、粘り強い、実践の繰り返しが、偉大なる歴史を生み出す。】──この一節から始まる「勝利島」の章は、創価学会離島本部の会員たちへの伸一の徹底した激励、体験談の連続から成り立っています。1978年(昭和53年)10月7日に開かれた第一回離島本部の総会を前に、全国各島での会員の体験談が紹介されていきます。(352-434頁)

    そのうち、北海道北部の西海岸にある羽幌から海路で30キロに浮かぶ「オロロンの島」で知られる天売島の佐田地区部長の体験談が強く胸に迫ってきます。2度にわたる頭蓋骨陥没の大怪我を乗り越えて、民宿経営で大きな実績を残した彼の頑張りぶりには心底から感動を呼ばずにはおきません。そうした活動体験報告を聞いた伸一は次のような話を離島本部の幹部にします。

  「島では、実証を示す以外に、広宣流布の道を開くことはできません。学会員が現実にどうなったかがすべてです。だから、功徳の体験が大事になる。そのうえで、最も重要なのが、学会員が、どれだけ島のため、地域のために尽くし、貢献し、人間として信頼を勝ち取ることができるかです。それこそが、広宣流布を総仕上げする決定打です」(384頁)

 私が初めて選挙に出た1990年代初め、姫路港から海路約18キロにある家島、坊勢島、男鹿島には、実直で熱心な学会員が一支部を形成していました。なかでも壮年のOさんはそれこそ幾たびかの転落事故で大怪我をしながらもその都度乗り越えて蘇り、町議会議員としても絶大なる信頼を勝ち得ていました。全てがお見通しとでも言える狭い島空間だけに、その功徳の体験や誠実な人柄は、あまねく知られていました。公明党の支持率の高さは群を抜いていましたが、会員相互の励ましあいが実を結んだものと思います。

●傲慢さが自己中心を招く

 吐噶喇(とから)列島は、鹿児島港から約200キロ南の海上に連なる12の火山の島々からなっています。行政的には鹿児島郡十島村が構成されています。学会では、この十島村と竹島、硫黄島、黒島からなる三島村で十島地区が結成(1964年)されていました。鹿児島市内に住む石切広武が地区部長の任を受け、地区員の激励に当たっていましたが、そこに至るまでの彼の体験が紹介されていきます。

 経済苦にあった石切は、苦境を脱し、食品会社を起こして全国に販路を広げ、借金も返済するなど、見事に実証を示していきました。伸一が鹿児島を訪問した際(1958年)に、石切が現況報告をします。その口調に潜む傲慢さを伸一は見逃さず、厳しく注意するくだりに襟を正さずにはおられません。「題目を唱え、折伏をすれば、当然、功徳を受け、経済苦も乗り越えられます。しかし、一生成仏という、絶対的幸福境涯を確立するには、弛まずに、信心を貫き通していかなくてはならない。信心の要諦は持続です。(中略)   私はたくさんの人を見てきましたが、退転していった人の多くが傲慢でした。慢心があれば、自己中心になり、皆と団結していくことができず、結局は広宣流布の組織を破壊する働きとなる。あなたには、信心の勝利者になってほしいので、あえて言っておきます。」(390-391頁)

 南の果ての島々に通い続ける地区部長の発心の陰に、師のこうした厳しい指導があったことに感動します。広宣流布の戦いにとって、慢心、自己中心は、組織破壊のキーワード であると、改めて銘記するのです。

●一国を支えるような大きな心で

 第一回離島本部の総会には、全国120の島々から代表が集ってきました。その際に、伸一は島の広布推進の要諦を語っていくのです。(440-442頁)

 「一つの島というのは、見方によれば、国と同じであるといえます。したがって皆さんは、一国を支えるような大きな心をもって、自分が、この島の柱となり、眼目となり、大船になるのだとの決意に立つことが大切です。そして、常に島の繁栄を願って、島民のために活躍していっていただきたいのであります」と述べ、離島での信心即生活の原理をやさしく語っていきました。

 最後に、開目抄の「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」から始まり、「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234頁)で終わる有名な一節を通して、「たとえ、島の同志の数は少なくとも、励ましてくれる幹部はいなくとも、〝私は立つ!〟と決めて、広宣流布という久遠のわが使命を果たし抜いていただきたい」と強調していきました。

 大聖人の「疑う心なくば」と、伸一の「一国を支えるような大きな心をもって」の2つの言葉が私の胸に激しく響きます。離島で「一人立つ」精神で頑張る同志に負けるな、と。(2023-3-29)

 

 

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【111】「大物語」のなかで生きること──小説『新・人間革命』第28巻「核心」から考える/3-23

●〝日中新時代〟の暗転とこれから

 1978年(昭和53年)9月11日、中日友好協会の招聘を受け、山本伸一を団長とする第四次訪中団が上海虹橋国際空港に到着しました。3年5ヶ月ぶりでした。「歴史は動く。時代は変わる。それを成し遂げていくのは、人間の一念であり、行動である」から始まるこの章は、1968年の伸一の「日中国交正常化提言」に端を発する10年の戦い及びその前史について紹介されていきます。その中で、伸一の確信が胸を打たずにおかないのです。

 【ともあれ、伸一の日中国交正常化提言から満10年にして、〝日中新時代〟を迎えたのだ。歴史は変わる。人間と人間が胸襟を開き、真摯に対話を重ねていくならば、不信を信頼に変え、憎悪を友愛に変え、戦争を平和へと転じていくことができる──それが、彼の哲学であり、信念であり、確信であった。】(244頁)

 伸一の信念の反映として、苦節10年を経て「日中平和友好条約」がこの年8月12日に調印され、10月に国会で批准が承認されました。そして同時に、鄧小平副総理ら中国首脳が建国いらい初めて来日したのです。この時から、日中蜜月の時代は10年ほど続きますが、その後、江沢民氏の登場(1989-2002)で暗転し、胡錦濤時代(2002-2012)を経て、習近平氏の今へ(2012〜)と厳しい関係に変化していくのです。

 伸一の民間外交の展開の下支えによって開かれた〝日中新時代〟ですが、この30年で逆転してしまいました。これから日中関係を良き方向に持っていくには今一度、不信を信頼に、憎悪を友愛に変えて、平和に向けて戦争への機運を変えていかねばなりません。悲観的に見ずに楽観的に日中関係を捉える視点も重要なのです。

●いかなる「物語」のなかで生きるか

 この後、伸一たち一行は上海から蘇州、無錫、南京、北京へと各地を訪れます。上海では、近代中国の父・孫文が晩年を過ごした故居で、宮崎滔天、梅屋庄吉ら日本人との友情に想いを馳せ、周西人民公社ではそこで働く青年と語らいます。この間に幾つもの大事な着眼点が披歴され、読者の思索が誘われます。

 孫文については、その生き方に「天道」という考え方が確立されていたことが触れられます。「ただわれらは、中国の改革と発展を、既に自らの責任と定めているのだ。何があろうと、生ある限り、その心を断じて死なせない。(中略)  世界の進歩の潮流と合致し、『善は栄え、悪は滅びる』という天の法則に則るならば、最後は必ずや成功を勝ち取ることができる」との言葉が引かれ、広宣流布に生きる創価の同志の生き方との共通性が語られるのです。

 【私利私欲、立身出世といった〝小物語〟を超え、人びとのため、世界のためという〝大物語〟を編むなかに、人生は真実の輝きを放つ】(260-261頁)

    いかなる「物語」のなかで生きることが最も相応しいか。大学時代(1965-68)に考えに考えました。学生運動華やかだった当時のこと。社会革命に生きるか。会社組織で自らを磨くか。こうした道筋を前に、私は「第三の選択」としての「創価の大物語」に、師とともに生きることを決意しました。あれからほぼ60年。自分が選んだ「大物語」は、終わることのない日々波乱に満ちた壮大なものだとの手応えと確信を深めています。

●青年と語ればその国の未来がわかる

   人民公社での青年との語らい。「私たちの世代は、長征に参加することはできませんでした。しかし、今、人民に尽くそうと、武器を工具に替えて戦っています。そこに長征の精神があると思います」──こう語る青年に、伸一は「素晴らしい決意です。崇高な心です。感嘆しました。未来は、あなたたち青年の双肩にかかっています。健闘を期待します」このやりとりのあと、訪中団のメンバーに次のように語ったのです。(268頁)

 「これからの中国は、大発展していくよ。青年が真剣だもの。現代化に対する皆の覚悟を感じるもの」

【その国の未来を知りたければ、青年と語ればよい。青年に、人びとのため、社会のために尽くそうとの決意はあるか。向上しようという情熱はあるか。努力はあるか──それが、未来のすべてを雄弁に語る。】

 日本の青年はどうでしょう。戦後直ぐに生まれた世代は、かつての仲間と会うたびに、今の時代を嘆きがちです。日本はやがて滅びるとまで。何もなし得なかった自分たちの過去を棚上げして。それは「小物語」に生きてきた人間が「大物語」の存在を理解できないことと同義のように思えてなりません。

 【社会の「革新」のためには「核心」すなわち、心を革めることが不可欠である──そのとらえ方に、若き周恩来の慧眼がある。】(297頁)

 「核心」は、まさに「人間革命」に通じるものです。「共産中国」に目を奪われ過ぎて、この国の本質を見失わないよう自戒したいものです。(2023-3-23)

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【110】悠々と信念の大道を進む─小説『新・新人間革命』第28巻「大道」の章から考える/3-15

●〝慈悲〟という生き方、哲学の確立

 われらは詠い、われらは歌う!広宣流布の天空には、壮大なロマンの、詩と歌の虹が輝く──冒頭この出だしから24行の詩が続きます。

 この章も学会歌の作詞作曲を通して伸一が会員を激励しゆく姿が描かれていきます。1978年(昭和53年)7月24日。この年2回目となる四国訪問から始まります。半年前の訪問時に示された幹部革命の烽火について触れられたあと、以下のような記述がなされています。私には極めて大事なところだと思われます。(124頁)

 【幹部の意識革命、人格革命がなされ、〝慈悲〟という生き方が確立されていけば、それは全会員に波及し、励ましの輪は、地域、社会に幾重にも広がっていこう。そして、現代にあって分断されつつあった人と人の絆は、復活していくにちがいない。広宣流布とは、見方を変えれば、仏法の法理を各人が、自己自身の生き方、哲学として体現し、信頼の絆をもって人びとと結ばれていくことであるといってよい。その輪を広げ、人間を尊び、守り合う、生命尊厳の時代、社会を築き上げていくことが、創価の同志の重要な使命となる】

 〝慈悲〟という生き方が自己自身の哲学として体現されること。そして信頼の絆で人びとと結ばれていくこと。この2つが創価学会員の重要な使命だと言われています。うち続く各種選挙支援の闘いの中で、この2つがどう展開されているか。友人が何に困っていて、政治がどうそれに応えているか。それを見抜いたうえで、公明党の実績を語ることで、信頼を勝ち取るというパターンが大事であることを痛感します。

●思いの丈と魂のこもった祈り

 四国から岡山を経て名古屋へ。この間に四国の歌、中国の歌などが作られ、同地では中部の歌「この道の歌」が完成します。その歌を合唱団に続いて独唱したのが三重の富坂良史県長でした。(156頁)

 【長身で大柄の彼が、胸を張って歌い始めた。その声が辺りを圧倒した。何があろうが、リーダーが微動だにせず、悠々と歌声を響かせ、信念の大道を突き進んでいくならば、創価の大城は盤石である。勝負の決め手は、リーダーの一念にある。】

 富坂のモデルは、富岡正史さん。このあとしばらく経って、全国高等部長の任命を受けます。私はこの人のもとで、副高等部長の任を拝しましたが、実は正史さんの叔父にあたる富岡勇吉さんにも大変お世話になりました。勇吉さんは潮出版社の社長をされましたが、私とは中野区の壮年、男子部の幹部同士としてのお付き合いでした。メディアの経営者として、ものを書くことは虚業であり、経営の実に携わることが実業であるといった観点でのアドバイスを頂いたことがあります。目の前がパッと開けた感がしました。

 このあと、東濃文化会館で、5回にもわたる記念勤行会が行われます。毎回渾身の指導がなされていきます。御書の一節や法華経の教えを引いての丁寧な励ましがされていくのですが、私は祈りについての指導が印象深く残っています。(166-179頁)

   「祈りは、ひたすらご本尊に思いの丈をぶつけていけばいいんです。そのさい、〝信〟を入れること、つまり、どこまでも御本尊を信じ抜き、無量無辺の功徳力を確信して、魂のこもった祈りを捧げることです」

 ここで、祈りについて、「思いの丈をぶつける」と、「魂のこもった」いう形容句が極めて重要に響きます。私としては、一心不乱に、自身の願いをありのままに祈ることだと、確信してきています。昨今、携帯電話の氾濫によって、ご本尊に祈っているのか、スマホに繋がっているのか不明なケースが散見されます。ご本尊直結ということは、自ずから、余計なものを介在させずに、ストレートに祈ることだと思います。

●東京の歌「あゝ感激の同志あり」

 この後、東京、東北、北陸、神奈川、北海道、長野と各方面の歌が作られていきますが、伸一が一つひとつの歌にどれだけ思いを込めて作っていったかが胸に迫ってくるのです。このうち、関西・兵庫で生まれ育ったものの、信仰は東京で培わせていただいた私としては、『東京の歌』に強い思い入れがあるのです。

 この歌の歌詞を解説する中で、次のように強調されています。(186頁)

   「曲名にも入っていますが、『感激』ということが歌の主題です。信心に励んでいくうえでも、幸福を確立していくうえでも、それが最も大事だからです。『感激』できる人は、何事にも感謝していける。清新で謙虚な、豊かな生命の人です。反対に、傲慢で、人が何かしてくれて当然であると考えている人には、『感激』はない」

 この歌は「ああ感激の同志あり」とのタイトルで、朝、昼、夕、夜の4場面ごとに戦うさまが描かれています。学生時代(19歳-22歳)から、この歌を初めて聴いた時まで約13年。歌うたびに懐かしい共戦の日々が浮かんで、涙さえ催すのです。(2023-3-15)

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【109】痛快な人間ドラマは学会歌と共に──小説『新・新人間革命』第28巻「広宣譜」の章から考える/3-8

●ウクライナ詩人の「勝利の歌」と「春の力」

「『私の心に、勝利の歌が響く。春の力が、魂に沸き起こる』──ウクライナの詩人レーシャ・ウクラインカは叫んだ」との一節が「広宣譜」の章の書き出しです。「草創期以来、創価の同志の痛快なる人間ドラマは、常に歌と共にあった。広宣流布の伸展も、庶民の朗らかな歌声がこだまするにつれて、勢いを増していった」とあります。1978年(昭和53年)6月30日の学生部幹部会の席上で、新学生部歌が発表になりました。

 「伸一が作詞作曲した学生部歌『広布に走れ』は、学生部のみならず、瞬く間に日本中の友に愛唱されていった」──この当時、宗門からの執拗な学会攻撃がありました。学生部歌が発表されたその日の朝に聖教新聞紙上に「教学上の基本問題について」と題する創価学会の見解が掲載されたのです。宗門の理不尽な批判に答えるものでしたが、この頃の空気の厳しさを吹き飛ばすかのように、学生部歌は歌われていきました。

 「広き曠野に 我等は立てり 万里めざして 白馬も堂々 いざや征かなん 世紀の勇者 我と我が友よ 広布に走れ」──この一番に続き、二番の出だしは、「旭日に燃えたつ 凛々しきひとみ」。三番は、「今ほとばしる 大河の中に」と続きます。伸一は、歌詞を作りゆく中で、学生部の代表らに、「学生部員は、創価学会丸の船長、乗組員となって、民衆を守り、〝大河の時代〟を切り開いていくんだよ」と呼びかけます。(12頁)

    この歌が発表された学生部結成21周年の記念日での講演で、伸一は「私どもにとって、最大の未来の節となるのが、二十一世紀です。この時こそが諸君の本舞台です。現在の勉学も、訓練も、仏道修行も、その本舞台に躍り出ていくためにある。(中略)  二十一世紀こそ、われわれの勝負の時であると申し上げておきたい」と。

 21世紀に入って既に20年余。当時の学生部員たちも40歳代から50歳代の働き盛りです。あらゆる分野で活躍しています。コロナ禍とウクライナ戦争の併発という現代史でも特筆されるような激流の最中に世界はあります。この章はウクライナの詩の一節から始まりました。実は聖教紙上にこの章が掲載され始めたのは2014年11月。マイダン革命といわれる動きがキエフで始まったのが同年2月。池田先生の深い思いが伝わってきます。

●関西の歌「常勝の空」完成へ

 この後、次々に各グループや方面、地域の愛唱歌を伸一は作詞作曲していきます。その中でも強く印象に残るのが関西の歌「常勝の空」です。この歌は同年7月8日に完成しますが、そこに至るまでの伸一の関西に対する深い思いが伝わってくるのです。中でも、公職選挙法違反という無実の容疑で捕われた、伸一が1957年(昭和32年)7月17日に釈放された後の抗議集会での冒頭の場面が胸を撃ちます。(51-54頁)

   【「皆様、大変にしばらくでございました。堂々たる力強い声であった。兄とも慕う伸一が二週間余にわたって過酷な取り調べに耐え、今、元気に、自分たちの前に姿を現したのだ。関西の同志は感涙を抑えることができなかった。また、広宣流布の道は、権力の魔性との熾烈な闘争であることを痛感し、憤怒のなかに、一切の戦いへの勝利を誓った瞬間だった。「最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!伸一の獅子吼に、皆心を震わせながら、大拍手で応えた。関西の同志は深く生命に刻んだ。〝負けたらあかん!戦いは勝たなあかんのや!──ここに、関西の〝不敗の原点〟が、燦然と刻印されたのである。(中略)  ゆえに、彼は、関西の後継の勇者たちが、〝関西魂〟を永遠に受け継ぎ、新しき飛躍を期す誓いの歌として、「関西の歌」が必要であると考えたのである】

 「常勝の空」ができた2年後の昭和55年に、私は仕事上の転勤で、関西の地に移動しました。いらい1年半にわたって、兵庫、大阪を中心に走り巡りましたが、いつもこの歌と共にあったことを思い起こします。

●原点に返り、一から出直す

 ついで方面歌の作成は、九州に舞台が移りますが、その中で、当時の九州総合長が交代する場面が注目されます。副会長でその任についていた鮫島源治から、吉原力へとの交代です。伸一の鮫島への厳しい口調での指導が響きます。(75-76頁)

 「これを契機に、信心の原点に立ち返って、一兵卒の決意で、本当の仏道修行に励んで欲しい。これは信心の軌道を修正するチャンスです。(中略) もう一度、新しい決意で、一から信心を鍛え直す覚悟で組織を駆け回り、苦労に苦労を重ねて、人間革命していってもらいたい」

 鮫島のモデルになった人物を知っているだけに、強いインパクトを受けます。生半可な決意で創価学会の幹部をしてはいけないと痛感するのです。(2023-3-8)

 

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【108】苦難にも弱音を吐かない━─小説『新・人間革命』第27巻「求道」の章から考える/2-20

●どんな災害にも負けない東北の人びと

 「青葉には希望がある。未来に伸びゆく若々しい力がある。青葉──それは、限りない可能性を秘めた東北を象徴していよう。杜の都・仙台は、美しい青葉の季節であり、街路樹のみずみずしい緑がまばゆかった」との書き出しで始まるこの章は、1978年(昭和53年)5月27日に仙台空港に伸一が到着し、新たに完成した東北平和会館に向かうところへと繋がります。

 【伸一は、草創期以来、東北の同志を、じっと見続けてきた。そのなかで実感してきたことは、どんな困難に遭遇しても、決して弱音を吐かないということであった。東北の人びとは、冷害をはじめ、チリ津波などさまざまな災害に苦しんできた。しかし、彼らは、「だからこそ、ご本尊がある!」「だからこそ、地域中の人たちを元気づけるために、俺たちがいる!」「だからこそ、広宣流布に一人立つのだ!」とそのたびに、一段と闘魂を燃え上がらせてきた。】(348頁)

   私は縁あって、高等部幹部の時代に一年間(昭和48年)、東北担当をさせていただきました。主な任務は、月に一回東北6県から仙台に集まってくる男女高校生たち30人に対して御書講義をすることでした。毎回渾身の力を込めて激励し続けてきました。私の基本姿勢は、信仰を自分のものとするためには体験をつかませて欲しいと祈ることを強調することにありました。親がやってるから自分もという様な受け身でなく、能動的に自身の信仰体験を持てと訴えました。その中から一級の人材が輩出出来たことは大きな誇りとして今もあります。

 あの東日本大震災の起こった直後に、最高幹部に成長した当時の高校生男女2人と共に岩手の被災地を訪れました。卒業後中野区で大学生活を送った東北健児のその後を私は見守ってきましたが、この時ばかりは、激励に緊張を覚えました。しかし、池田先生が、日蓮大聖人の『其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ』(御書1467頁)の一節を引かれて、「岩手の広宣流布は自分に任されたとの自覚に立て」との指導を身に帯した彼らからは強い闘争心を感じこそすれ弱気は微塵も伺えませんでした。大丈夫だと確信したものでした。

●青葉城址での戸田先生との語らい

 この時の仙台訪問の際に伸一は、青葉城趾を訪れ、24年前の戸田先生との語らいを思い起こす場面が出てきます。「どこかを訪れたら、周囲を一望できる、城や丘などに立ってみることだ。すると、全体の地形がよくわかる。それは、そこで暮らしてきた人びとの心を知り、生活を理解する、大事な手がかりになるんだよ」と、戸田先生は述べられる一方、牧口先生が『人生地理学』で、全体の地理を俯瞰することの大事さをも強調されました。このあと、2人の間で、青年の人材育成をめぐる重要な問答が展開され、強い印象を抱きます。

 それは、要約すると、一に『使命の自覚』、二に『向上心』、三に『忍耐』ということです。「使命の自覚のもと、人生の目標を定めて、月々日々の課題に挑戦していくこと」「今のままの自分で良しとし、挑戦をあきらめてしまうのでなく、『もっと自らを高めよう』『もっと前進しよう』という姿勢が大事である」「辛抱強くたえぬくことの大切さを痛感しております」──これは戸田先生が弟子の伸一の考えを表明させた上で、同意された結論です。鮮やかな師弟不ニの呼吸を感じて、続く弟子として深く共鳴せずにはいられません。

 ●無名無冠の王者のひたむきさ

 ついで、6月に伸一は北海道指導に赴きます。別海町尾岱沼の北海道研修道場での伸一の様々な振る舞いが感動的です。零下30度近くにもなる厳しい冬に耐え、必死の戦いを続ける青年たちの活動に「健気で一途で、清らかな〝無名無冠の王者〟であり、〝庶民の女王〟だ」と讃えるのです。とりわけその中で、根室本部の菅山勝司本部長の戦いには胸打つものがありました。(404-417頁)

   1960年(昭和35年)9月のこと。別海から列車で3時間かかる釧路で会合があるとの知らせを受け、酪農に取り組む菅山青年は悩みます。交通費がなかったのです。悩みに悩んだ末に、「そうだ自転車で行けばいいんだ!環境に負けていていいわけがない!──そう言っているよう思えた。彼は起き上がった」。自転車で向かうことを決意したのです。一晩がかりで、100キロを超える走行。雨に見舞われ、干し草の山に潜り込み凌いだり、道端の山ぶどうを食べて走り続けました。そして到着。「全参加者がこの〝別海の勇者〟を、大拍手と大歓声で讃えた。彼らは、菅山の姿に男子部魂を知った。北海の原野に赫々と昇る、太陽のごとき闘魂を見た」と、あるのです。

 この時のことを後に聖教新聞で知った私たち〝大都会の青年〟も感動に打ち震えたものです。大変な環境下で頑張る仲間に負けるものかと、闘志を掻き立てました。(2023-2-20)

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【107】「魔王」に支配された指導者──小説『新・人間革命』第27巻「激闘」の章から考える/2-12

●音楽隊スピリットを体現した2人の隊長

 会長就任18周年になる1978年(昭和53年)5月3日の記念式典のあと、伸一は5日の「創価学会後継者の日」を祝しての未来部代表との記念撮影、音楽隊の全国総会へと挑みます。「第一回創価学会男子部音楽隊総会」のパネルの前。隊員の輪の中で1人の青年を抱きしめる伸一の笑顔が輝く挿絵が目に飛び込んできます。

 終了後にテレビ局や新聞各社の記者と懇談会がもたれました。そこで、青年たちとの信頼関係をどう築いてきたのか?と問われ、次のように語る場面が印象的です。

 「ありのままに、お答えします。私は、今日も、〝ひたすら諸君の成長を祈り、待っている〟と言いました。また、一切をバトンタッチしたい〟とも語りました。青年たちに対する、その私の気持ちに、嘘がないということなんです。(中略)  青年に限らず、皆が喜んでくれるならと、たとえば、去年一年間で、色紙などに1万784枚の揮毫をしました。つまり、私は、本気なんです。だから、その言葉が皆の胸に響くんです。だから、心を開き、私を信頼してくれるんです」(220頁)

    また、多様化する価値観の中で、青年たちに強く訴えておられるのは?と聞かれて、次のように答えます。

 「私は、青年には、生き方の根本的な原理と言いますか、人生の基本となる考え方を訴えるようにしています。いわば、その原理に則って、各人が、それぞれの具体的な問題について熟慮し、自ら結論を出してもらいたいと思っているからです。そのうえで、私が強調していることの一つは、『苦難を避けるな。苦労しなさい。うんと悩みなさい』ということです」

 音楽隊というと、私は2人の全国隊長を思い起こします。1人は有島重武さん。大学の先輩で第一回慶大会発足(昭和43年4月26日)の際が初対面でした。当時は衆議院議員になられたばかり。のちに記者として取材もさせていただきました。もう1人は、小林啓泰さん。中野区男子部仲間で、歳上ながらいつも支えていただきました。後に民主音楽協会のトップになられましたが、いつも快活無比で颯爽とされていました。お二人とも誠実そのもの。音楽隊スピリットを骨の髄まで体現された、素晴らしい〝楽雄姿〟が目に焼き付いています。

●「第六天の魔王」とは何か

 このあと、伸一は九州研修道場へ飛び、5月15日には、自ら研修を担当します。「辯殿尼御前御書」(御書1224頁)を用いて。「広宣流布を進めようとするならば、必ず第六天の魔王が十軍を使って、戦を起こしてくる」とのくだりです。

「なぜ、第六天の魔王が戦を仕掛けてくるのか。もともと、この娑婆世界は、第六天の魔王の領地であり、魔王が自在に衆生を操っていたんです。(中略)  ゆえに、成仏というのは、本質的には外敵との戦いではなく、我が生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。つまり、内なる魔性を克服していってこそ、人間革命、境涯革命があり、幸せを築く大道が開かれるんです」(261-262頁)

  ここはなかなか仏法と無縁の普通の衆生には分かりづらい箇所だと思われます。人間の生命の働きをこうした喩えで表現されても、感情的に拒否するという人が多いでしょう。しかし、じっと考えると、人間の生命そのものが不可解としか言いようがありません。そこを悟った超越的な洞察力を持った仏的存在から、「第六天の魔王とは、『他化自在天』ともいって、人を支配し、意のままに操ることを喜びとする生命であ」り、「戦争、核開発、独裁政治、あるいはいじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようとする」ものといわれると、分かるような気がしてきます。「プーチン」の現状と重なって。

●十軍の意味するもの

   続いて、「十軍」の講義がまた興味深いのです。

 「では、魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍とは、種々の煩悩を十種に分類したもので、南インドの論師・竜樹の『大智度論』には、『欲』『憂愁』『飢渇』『渇愛』『睡眠』『怖畏』『疑悔』『瞋恚』『利養虚称』『自高蔑人』とある」(263頁)

   ここは5頁にわたって展開されていますが、最後の10番目の「自高蔑人」が核心を突いて迫ってきます。

 「これは自ら驕り高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。慢心になると、誰のいうことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。また、周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。社会的に高い地位を得た人ほど、この魔にたぶらかされてしまいがちなんです」

 仏法は魔との戦いと聞いてきました。人生は仏と魔との戦いだとも。我が父は「男は外に一歩出ると7人の敵がいると思え」が口癖。大事な教訓と戒めてきましたが、その前に己心に敵がいることも銘記しないといけません。(2023-2-13)

 

 

 

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【106】世界の危機を救う仏法哲理──小説『新・人間革命』第27巻「正義」の章から考える/2-7

 

 

●人類を襲う4つの危機と仏法による解決の原理

 この章は冒頭で広布第2章の歴史がまとめて述べられています。そして、世界がかかえる諸問題を根本的に解決するための、原理と方途が示されていきます。ここでは、4つに分けられた仏法の根本原理について整理してみます。(112頁)

 1つは、他者の幸せを願う「慈悲」という生き方。2つは、自分と環境が不可分の関係にあるという「依正不ニ」の哲理。3つは、肉体と精神とは密接不可分の関係にあると説く「色心不ニ」の道標。4つは、人間は互いに深い因縁で結ばれているという「縁起」の思想です。

 仏法が持つこの4つの特質は、それぞれ、①生命軽視の風潮を転換し、戦争の惨禍にピリオドを打つ②環境破壊をもたらした文明の在り方を問い直す③人間の全体像を見失いがちな現代医学の進むべき道を示す④分断した人間と人間を結合させる──といった効力を持つとして、改めて強調されています。

 伸一は、これらを人類の共有財産として、平和と繁栄を築き上げることこそが広宣流布だと銘記し、世界各国・地域を巡り、人々の心田に、幸福と平和の種子を撒き続けてきたのです。

 たとえば、今世界を震撼させているウクライナ戦争について、池田先生は1月16日の緊急提言で、直ちに関係各国の外相が集まって停戦に向けての話し合いの場を持つべきだと呼びかけています。上記①から導き出された提言です。②は、地球環境破壊への、③ は人間の健康衰退への、④は進む国際社会の分断への、根源的な解決の道が示されていると、理解すべきだと思います。これを真剣に受け止めていかないと、人類はもう滅亡の道しかないと思われます。

●国家権力の弾圧で獄死した牧口会長

   この章では、このあと、先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖の精神について、歴史的経緯に基づいて触れられていきます。それは、「宗教のための人間」から、「人間のための宗教」の時代の幕を開く、宗教革命の歴史でありました。【精神の継承なき宗教は、儀式化、形骸化、権威化して、魂を失い、衰退、滅亡していく】との観点から見て、日蓮正宗が既成仏教化していく姿が描かれていくくだりは極めて重要です。(115頁)

 宗門が大聖人の魂を捨て去ることを物語る驚くべき出来事が起こった──国家神道を精神の支柱にして、戦争を遂行しようとする軍部政府は、思想統制のため、天照大神の神札を祭るよう、総本山に強要してきました。これを宗門が受け入れると共に、学会にもそうするよう求めたのです。

 【牧口は、決然と答えた。「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」彼は、「時の貫首為りといえども仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書1618㌻)との、日興上人の御遺誡のうえから、神札を拒否したのである。牧口のこの一言が、正法正義の正道へ、大聖人門下の誉れある死身弘法の大道へと、学会を導いたのだ】(122頁)

 その結果、牧口先生は戸田先生と共に、軍部政府の力で獄に繋がれることになり、殉教されるに至ります。まさに死身弘法のお姿そのものでした。そして、戸田先生の獄中での壮絶な唱題と思索の末による悟達で、その後の学会創建へと繋がっていくのです。牧口先生のこの時の決断は、今に至る学会精神の根幹をなしてきました。国家権力による創始者の獄死があることは、永遠に忘れられない創価学会の原点なのです。

●師弟の誇りの歌をなぜ歌ってはいけないのか

 1978年(昭和53年)の春から各地で、文化合唱祭が企画されていました。埼玉から静岡を経て、三重へと伸一は移動して、合唱祭に向かいます。三重では、婦人部の愛唱歌『今日も元気で』が当初歌われる予定であったのに、急遽中止されることになり、それに対して、なぜ歌ってはいけないのかとの声が高まったことが描かれています。(187-190頁)

 この当時、学会員が会長の山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧侶たちがいました。日蓮正宗には、僧侶と在家は上下関係にあることを信じて疑わない頑迷な存在もあったのです。彼らには、信徒の分際で師として崇められる存在がいることを許してはならないとの思いがありました。

そうした動きがあるのを察知して、この愛唱歌──師匠を求めて止まない心情が込められています──を歌うことで、合唱祭に出席していた僧侶たちを刺激しないようにと、歌わない方向に県の幹部が決めたのです。〝どうして師匠を敬愛する心を隠さねばいけないのか〟との抗議の声が強く、結局歌うことになりました。

 宗門と学会側の軋轢に対して、伸一は〝学会はどこまでも広宣流布のために、死身弘法の誠を尽くしながら、宗門を守り抜く決意であり、さらに連携を取り合い、前進していきたい〟との思いを僧侶たちとの懇談の機会に、いつも語っていました。(2023-2-7)

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【105】問われる文明の在り方──小説『新・人間革命』第27巻「若芽」の章から/2-3

●国家のためでなく、子ども自身の幸福のために

 1978年(昭和53年)4月9日。東京創価小学校が小平市鷹の台で開校します。ここに創価一貫教育が完成を見たのです。2年前の起工式は、創価教育の父・牧口常三郎先生の33回忌を目前にした11月3日でした。その際に、伸一は心の中で、こう牧口に語りかけたと、記述されています。(36-37頁)

   〝牧口先生!先生は、国家のための人間をつくろうという教育の在り方に抗して、子ども自身の幸福を実現するために、創価教育を掲げて立たれました。今、その創価一貫教育の学舎が、この小学校の建設をもって、完成を迎えます。どうか、新世紀を、五十年先、百年先をご覧ください!人生の価値を創造する人間主義教育の成果として、数多の創価教育同窓生が燦然と輝き、世界の各界に乱舞していることは間違いありません〟

 私の娘はこの8年後に東京創価小学校の学舎に通いだしました。6年間のあの日あの時の思いが胸をよぎります。私が関西の地、生まれ故郷・姫路に転居したため、残念ながら娘は創価中学校には行けませんでした。そのことが時に思い出されます。自分の新しい船出に思いが強く、未聞の初めての地に赴く家族へのこまかな配慮が足りなかったかもしれないとの後悔もないではありません。であるがゆえに、一層、小学校の6年間が〝一生の宝もの〟として刻印されているに違いないと確信しています。

●今こそが大転換のとき

 入学式において、教育にかける自分の真情を伸一は、次のように語っています。

 「人類の未来のために、最も大切なものは何か。それは経済でも、政治でもなく、教育であるというのが私の持論です。人類の前途は、希望に満ちているとは言いがたい現実があります。長い目で見た時、今日の繁栄の延長線上に、そのまま二十一世紀という未来があると考えるのは間違いです。社会の在り方、さらには文明の在り方そのものが問われる大転換期を迎えざるを得ないのではないかと、私は見ています」(53頁)

    伸一は、そういう文明の在り方そのものが問われる時のために、「人類のため、世界平和のために貢献できる人間を腰をすえて育て上げていく以外に未来はありません。そのための一貫教育です」と語ったのです。

 それから45年。今、人類を取り巻く状況は、いよいよ行き詰まりを見せています。ものの見事に伸一は今日の世界の到来を予測して、「教育」の大事業に取り組み、手を打ってきたといえます。小学校から大学へ、創価の一貫教育のもと、育まれた人材が世界中に羽ばたいています。その彼らを中核に、「老壮青少一体」となった、〝校舎なき総合大学〟で学んだ人間群が、歴史を大きく転換させる正念場が今だ、と私は思います。

 統一地方選挙を目前に、公明党の候補者が勢揃いし、創価大卒の経歴が目立ちます。政治家はこのように歴然と人の目につきますが、それ以外の分野では学歴はそう目につく機会はありません。しかし、それこそあらゆる分野で創価教育の門下生が黙々と、その力を発揮していることを私は知っています。かつて、高等部で担当した生徒たちだけを見ても、医師に、学者に、司法界に、官僚に、ジャーナリズムにと、一杯いるのです。

●お世話になった人にはお礼を

 この章では、文字通り、至る所で伸一が子どもたちや教職員らに対して述べた助言が登場して注目されます。印象に残る言葉を挙げてみます。(55頁-62頁)

※皆が人材である。それぞれの能力を生かすには、たくさんの評価の基準、つまり褒め称える多くの尺度をもつことが大事になる。

※生きるということは、自分の歴史を創っているということなんだよ。そして最高の歴史を創るためには、勇んで困難に挑戦していくことが大事です。偉人というのは、困難に挑んだ人なんです。

※どんな役割であれ、自分の役割の重要性を自覚し、全力を注いでいくことの大切さを訴えたかった。

※権威を誇示しての教育は子どもの心を歪める。魂の触れ合いを通して育った信頼こそが、教育の基盤だ。ゆえに、伸一は、児童との接触を何よりも大切にしたかったのである。

 そんななかで、伸一が「せっかくの機会だから、校長先生始め先生方に『ありがとうございます』と言おうよ。先生たちは、いつも、みんなが帰ったあとも、後片付けをし、みんなのことを心配してくださっているんだよ」と、述べて、「ありがとうございます」と言わせるところが出てきます。「お父さんやお母さん、またお世話になった人には必ずお礼を言うことが大事です。それが人の道なんです」と。

 かつて、池田先生は、ある会合で、お世話になった支持者の皆さんにお礼をいうんだよ、と「ありがとうございました」というように、私たち政治家に促されたことがあります。私は頭の上げ方が早いと厳しく叱られました。奥底の一念を見抜かれたのです。(2023-2-3)

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