(237)名作の奥深さに打ちのめされるー漱石『三四郎』とドイル『バスカヴィル家の犬』を読む

この一年の我が読書録の締めくくりにあたって、テレビで観たことがきっかけとなって読んだ2冊の本を取り上げたい。一冊は夏目漱石『三四郎』、ご存じ漱石の代表作である。もう一冊はコナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』、これはご存じシャーロック・ホームズシリーズの最高傑作といわれる長編である。この二冊を挙げると、ハハーンと気づかれる人もいよう。この三か月ぐらいの間にBSで放映された『深読み読書会』で、扱われたものだから。漱石ものとホームズもの。共に私にとって”人生の伴走本”となってくれた本ではあるが、テレビに登場していた一流の読み手にかかると、全く違う世界が見えて来る。改めて自分の浅読みに打ちのめされる思いがした■まずは、ドイルの本から。私たちの世代は子どもの頃の読書といえば、専ら貸本屋さん。私の少年時代には神戸・塩屋の駅北口の真ん前の畳屋さんが貸本をおいていた(雑誌も売っていた)。勿論今はないが、当時はそこが私たちこどもの「宝の園」であった。私の読書遍歴はそこでの名探偵「シャーロックホームズの冒険」を齧ることから始まった。『まだらの紐』『踊る人形』『赤ひげ同盟』などはタイトルに懐かしさを感じるものの、この『バスカヴィル家の犬』には全く出会った記憶がない。ということで、BSでの放映を知って、ビデオに録ったままにして、本屋に走って本を購入してから、原作に挑戦してみた。9月放映の直後に、私は仕事絡みでジャカルタに赴いた。その飛行機の中で貪り読んだのだ。いわくありげな執事とその妻、脱獄囚、博物学者とその美しい妹などが登場する。魔の犬の伝説がある富豪のバスカヴィル家で、当主が死体で発見され、そばには巨大な犬の足跡が。そうくれば、死因が心臓発作によるものとは到底思えない。しかし、謎の人物が登場することで何だか目くらましにあってしまう。これは後でなーあんだという事にはなるのだが…。全体の印象としては私はかなり単純でつまらない作品に思えてならなかった■一方、漱石の『三四郎』は、学生時代に読んだ記憶がある。熊本から列車で上京する三四郎と同席した女性との絡みはよく覚えていた。途中下車して同じ宿に泊まる羽目になって、二人の夜具の間に敷布を巻いて境界線を措くくだりや「ストレイシープ」「偉大なる暗闇」などといった言葉には強い印象が残っていた。今回もビデオは見ないで、改めて漱石全集第5巻をやっとの思いでなんとか読み終えた。列車の窓から折り詰め弁当の空箱を捨てるところや、「人にみせべき」といった表現に出くわし、これは「みせるべき」との誤りではないか、といった明治の社会風潮や文豪の言葉遣いに大いに疑問を持つなど些末なことに拘ってしまった。この国の未来について「滅びるね」と言わせているところには、流石との感動を抱いたものの、総じての読後感はやはり今一わけの分からぬパッとせぬ青春小説だとの域を出なかった■というように本を読んでの読後感は二つとも冴えなかったのだが、テレビを観るとそこには全く別の世界が広がっていた。ホームズについては、この作品が書かれる8年前に当の本人を死なせてしまっており、改めて復活したものだということが分らないと、なかなか本質をつかみえない。テレビの「深読み」では、誰が真犯人なのかをめぐってあれこれと議論を展開していた。有栖川有栖、綾辻行人、島田雅彦氏といった面々が丁々発止と。結局犯人は登場人物以外なのだろう(ホームズの宿敵の大学教授)というところに落ち着くが、当方は判然としない。一方、漱石の方は、テレビでは美禰子の結婚相手は誰が一番合うかという観点から、小倉千加子、朝吹真理子、猪瀬直樹氏らがその見立てを競い合っていた。ここでは、登場人物の男たちが、美禰子という女に断られて傷つくことを恐れ、そろいもそろって無責任になっている様子は現代の状況に酷似しているとの捉え方が面白かった。漱石は当時の日本における女性という存在が掴まえ所のない不可思議なものとして、そのすべての作品で描いたとされるが、美禰子はそのトップバッターだったのだろう。ともあれ、「最初は良く分からない作品だったが、二度目で分かった」(有栖川)とか、「凄く難しい。つまらない作品だと最初は思った」(小倉)といった発言に出くわすとほっとした。尤もだからといって再び読もうという気にはならない。(2017・12・31)

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