これまで直木賞受賞作だ、芥川受賞作品だからといってとくに買い求めたりしたことはない。むしろそれ相当の時期が経って、一定の評価が定まって、自分自身も気に入ってから、過去に遡って受賞作を読むというほうが多い。そのほうが当たりはずれがないような気がする。にもかかわらず今回はなぜかいきなり初めて読んでしまった。西加奈子『サラバ!』上下。第152回の直木賞受賞作品だ。この人の作家生活十周年記念作品だという。なかなかの人気のようだから、ついこれまでの不文律とでもいうべきものを破ったのである。結果は?悲惨であった。およそ酷いとしか言いようがない▼下巻の最終章にくるまで退屈至極で、およそこの本のどこがよくて直木賞なのかとの思いは終始離れなかった。あまりこういうことを書くと出版社の営業妨害になると言われそうだから書きたくないが、何一つとっても推奨できない。私がこれまで読んだもののなかで最悪のものの一つだ。御本人がラジオやテレビに登場してインタビューを受けたり、著者として自作を語っていたが、なるほどと思われた。最初からどういう人間が書いたものかを知ってから読むべきだと反省したしだい。文章といい、構想力といい、何一つ心を打つものはなかった。「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」という最終章のタイトルに著者の言いたいことが含まれているのだろうが、これもいたって平凡。ああ、もうやめよう▼少し前に読んだ岸本葉子『生と死をめぐる断想』も小説とエッセイの違いはあれ、心を打たないというところで同じ水準のものといえよう。これも新聞の書評で礼賛してあったのでつい買って読んでしまった。「人はどこから来てどこへ行くのか?」という帯にあるキャッチコピーや「治療や瞑想の経験、仏教・神道・心理学を狩猟し時間と存在について辿りついた境地とは?」という売り込みの言葉に惹かれた。がん体験から十余年云々というからにはそれ相当の悟りを得た境地の披瀝を期待した。するほうが無理だった。最後に著者自身があとがきに書いている。「知性がなし得る限度は霊性の姿を微かに映し得るということです」ーこれは鈴木大拙の『仏教の大意』の一文だそうだが、それが著者のしてきたことを言い当てているという。要するに「生と死」についてあれこれ考えたことを大仰に取り上げたに過ぎない。まんまと出版社の戦略に乗せられてしまった▼川口マーン恵美『住んでみたヨーロッパ
9勝1敗で日本の勝ち』これもタイトルに惹かれて読んだ。ヨーロッパには幾たびか訪れたものの住んだことはない人間にとって憧れを抱く向きは少なくない。それが圧倒的な差で日本の方が勝ってると言われると「え、どこが」って思うもので、つい関心を引く。読み終えて結局は「他人の家の庭はよく見える」の類で、著者はすでにヨーロッパ人になりきっていて、日本の庭がよく見えるということなのだろう。私の知人でドイツに長く住んでいる女性が言っていたというこの本への感想が思い起こされる。曰く「そんなにヨーロッパがお嫌なら、さっさと日本に帰ったらいいのに」と。そうかもしれない。このように書いてきてつくづく思うことは、何々賞を獲ったとか、あるいは深遠な思考の遺産をいただこうとか、奇抜なタイトルに惹かれたりして本は読むものではないということだ。ここでは3人の著者の作品を挙げたが、いずれも女性のものということに特に意味はない。安易な読書をするゆとりなどないということを改めて痛感した。(2015・3・27)
Monthly Archives: 3月 2015
つまらない本を売りつける出版社の戦略を見抜け(89)
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画竜点睛を欠く外国人ジャーナリストの卓越した日本論(88)
デイヴィッド・ピリング『日本ー喪失と再起の物語』上下二巻(仲達志訳)ーこの本の特徴は何といっても沢山の人に直接インタビューして取材している(御本人によると、トルストイの小説の登場人物並みに膨大な数に上るという)ことに尽きよう。様々な人びとの生の声を生かしながら、具体的事実としての東北大震災と大津波、福島第一原子力発電所事故で壊滅的打撃を被った日本が、喪失の憂き目から再起へと立ち向かう様子を描いている。外国人により外国人向けに説かれた「日本論」としてこれ以上のものはない、というぐらい一般に絶賛されているが、概ね私もそれを認めたい。これまでの『日本論」といえば、ルース・ヴェネディクト『菊と刀』から始まって、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』に至るまでいくつかあるが、この書もそれら先行するものと比べて遜色ない価値を持っているとされるのに異論はない▼ただ、いささか難癖をつけるとすれば、船橋洋一氏を始めとする自分の友人に甘く、保守主義者の藤原正彦氏や東條英機元首相の孫娘・東條由布子さんらには厳しい眼差しが目立つように思われる(上巻の114頁、下巻の129頁から136頁)。勿論、そういう凸凹があっても一向に構わないのだが、いわゆるリベラルなものの見方が過ぎる物差しを持った著者だということは記憶に残しておいていい。それに加えて現代日本を描くにあたって、与党・公明党や宗教界の王者・創価学会を代表する人物を取り上げていないことはおろか、インタビューを試みてさえいないというのは、適正さを欠くというものだろう。幅広いそして奥深い日本論を書くなら、ダワーやヴェネディクトが試みなかった点に目を向けてみるべきだと思うのだ▼特に惜しまれるのは、下巻の冒頭に「日本人が絶滅に瀕しているという指摘を最初に行ったのは、実は誰あろう、日本の厚生労働大臣であった。二〇〇二年、当時の坂口力厚労相が『このまま少子化が続けば、日本民族は滅亡する』とやや大げさとも取れる表現で懸念を表明したのである」とのくだりを書いておきながら、当の坂口氏にインタビューをしていないのである。しかも、「あとがき」にこうあるから、なおさらだ。「二つの『失われた10年』を経て、今も数多くの問題を抱えているにもかかわらず、日本の『死亡宣告』は明らかな誤診であった」と締めくくっているのだ。だから「誤診」の主である坂口氏に弁明を求めても面白かったと思うのである▼いやはや我ながら妙な筆の進め方になってしまった。現代日本で私が尊敬する二人の男女がこの本の帯で讃えているというのに。一つは「幕末から東日本大震災まで、喪失と再起の歴史を分析する稀有な日本史」という緒方貞子さんの言葉。もう一つは「著者が本書で示した知識と良識は、私がこれまで読んだどんな本よりも、日本が経験してきた変化を理解するのを助けてくれた」というドナルド・キーンさんの指摘。オーソドックスな褒め方が出来ない私だということを割り引いて、皆さんは素直に読んでください。ともあれ話題のトマ・ピケティの『21世紀の資本』よりも面白いことは確かだ。(2015・3・20)
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新たな戦争の時代を解く手がかり(87)
『新・戦争論』の後半は日本周辺の課題を追う。第5章(朝鮮問題)➀日本が大陸と戦ったのは、いつも中朝連合軍。歴史上、一度も朝鮮半島の単独政権と戦ったことはない。→過去2000年の間に日中間での闘いは白村江、元寇、秀吉の朝鮮進攻,日清戦争、日中戦争の5回。その都度、朝鮮半島は戦場と化し、背後に必ず中国がいた。半島国家韓国と北朝鮮はこれからも中国の息遣いに配慮せざるを得ない。➁歴史になぞらえると、南北朝鮮は三国時代の新羅と高句麗の対立と見ることもできる。あるいは北朝鮮が渤海だと考えた方がいいかもしれない。今、北朝鮮の渤海化と韓国の新羅化が起こっている。同じ朝鮮半島の国といっても韓国と北朝鮮はもともと違う。中国は高句麗を「朝鮮民族の国」ではなく、「中国の地方政権」と位置付けている→うーん。朝鮮半島の分断化をこういうまなざしで見ることや、国境感覚なき時代・空間認識は、中国を利するだけのものだと思うのだが、果たしてどうだろうか▼第6章(中国から尖閣を守る方法)➀中国が「台湾は中国の一部」だと言い続けていることを逆用して、台湾政府と那覇の政府というローカル政府のレベルで話し合う枠組みを作ってしまえば、軟着陸できる。→理屈としてはいい線いってると思うが、果たしてそんなことが通じるかどうか。那覇と東京の現在の関係からすると、日本と沖縄の信頼関係がおぼつかないように思える➁中国は今航空母艦を作っていますが、これを我々は怖がるどころか大歓迎しないといけない。完成する頃には無人飛行機が発達して,第七世代の戦闘機ができるはずですから、航空母艦というのは単に大きいだけの格好の標的にしかならない。→これまた相当先のことと思えるし、普通の人間としては大鑑巨砲主義的感性から抜けきれない。➂ウイグルで起きる(北京政府への)反発は「イスラム主義」的な行動様式になり、どんどん過激になってきている。中国にとって東は経済発展のために必要で、紛争を起こす必要はない。国家安定のために必要なのは、西での安定なのです。→だから、尖閣は安心していいといわれても、にわかにそうはいかない。評論家特有の戯言のように思える▼第7章(分裂するアメリカ)アメリカで生まれ育った黒人が,差別される生活の中で、本当に平等なのはイスラム教なんだと考えて、ムスリムに改宗する動きが起きています。ニューヨークやワシントンでも、街角で突然、メッカの方角に向かってお祈りを始める人がいますから。→ぜひ写真か映像で現場を見てみたい▼第8章(情報5カ条)何かを分析するときは、信用できそうだと思う人の書いたものを読んで、基本的にその上に乗っかること。そのうえで、「これは違う」と思ったら、乗っかる先を変える。→現実的には、そうはうまくいかないのではないか。あれもこれもと目移りがして、結局は落馬してしまうのがオチだろうと、自戒の念をこめつつ▼終章(なぜ戦争論は必要か)20世紀はソ連が崩壊した1991年に終わったのではなく、いまだ続いている。ウクライナ問題はまだ殺したりないから解決しない。「これ以上犠牲が出るのは嫌だ」とお互いが思うところまで行くしかない。→この調子では20世紀は永遠に終わりそうにないのではないかと思わざるを得ない。(この項終わり 2015・3・14)
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中東での事態をよそ事と見る危険(86)
池上彰と佐藤優ー世事万般の動きを解説させて他の追従を許さない二人の男。この二人が対談したとあらば読まぬわけにはいかぬと思いながら、いささか出遅れた感は否めない。昨年11月発刊の『新・戦争論』をこのほどようやく読み終えた。ここでは従来とは趣向を変えて、二人の発言のうち、私が注目したものを拾い出して、それへの感想を記したい▼第一章(地球は危険)欧米で大ベストセラーのダン・ブラウンの『インフェルノ』は人口は感染症によって調整するしかないということを是認している。感染症問題に欧米が積極的でないのは、人口増への白人の恐怖。「経済力を持たないと国家はなめられる」→欧米優位できたこれまでの世界史を逆転させたくないとの思いは陰に陽に見え隠れする。戦後70年の日本は沈む欧米に追従するか、浮揚するアジアに身を寄せるか、真価が問われよう▼第二章(民族と宗教)➀「中国はプレモダンの国が、近代的な民族形成を迂回してポストモダンに辿り着けるのか、という巨大な実験をやっている」→中国はすでにプレ段階からモダンに突入している。実験を成功させ、ポストモダンに辿りつかせねば、隣国日本としてはナショナリズムのぶつかり合いを免れない。➁イスラエルのネタニヤフ首相の官房長の発言から。「国際情勢の変化を見るときは、金持ちの動きを見るんだ」「冷戦後、20年も経って,政府が情報とマネーを統制できなくなっており、国家が空洞化している」「戦利品を獲れるという発想を持つ国は、本気で戦争をやろうとする。すると、短期的には、戦争をやる覚悟をもっている国のほうが、実力以上の分配を得る→極東の孤島・日本からはなかなか伺え知れない中東の孤国イスラエルらしい見方だ▼第三章(欧州の闇)➀「1980年代末、モスクワで雑誌を見て驚いたのは、肉屋で人間の肉を吊るして売っている写真が出ていた。食糧危機で人肉を販売せざるを得なくなったのはウクライナだけ」「ドイツのミュンヘンでビールと豚肉を食べていると、その店で働いているウエイトレスはチェコ人かハンガリー人。その豚肉はハンガリーから来る。そのハンガリーの豚小屋で働いているのがウクライナ人。そのエサはウクライナから来ている」「ウクライナは汚い労働、低賃金労働の供給源として必要」→日本での風景もこれと大差ない。東京で飲んでいると、中国人やミャンマー人などアジアの人びとがウエイトレスに多い。そこで出てくる食べ物も……と考えると似たり寄ったりではある。アジアの闇とどちらがより暗いか。➁「ヨーロッパというのは、誤解を招く表現かもしれないが、基本的に戦争が好きな国々です。(中略)再びヨーロッパが火薬庫になる可能性もゼロではありません。ユーゴスラビアにしてもウクライナにしても」→問題はその火薬庫の爆発が地域限定に留まるのか、世界に飛び火するのかということであろう。ここでもアジアの孤島にすむエゴが鎌首をもたげてくる▼第四章(イスラム国と中東)➀「現代の中東は、近代主義者からすれば、中世世界のように見えるかもしれません。イエメンなどは完全に中世で、三十年戦争当時のドイツみたいに、戦国時代がそのまま続いています」→そう、中世とポストモダンの現代がぶつかろうとしているのがテロ戦争の時代だ。先日映画『アメリカンスナイパー』を観て、暗くて重いアメリカの闇を実感した。アメリカよヴェトナム戦争で懲りたのではなかったのか、と。➁「ヨルダンは国王暗殺があったら崩壊します。後継者がきちんと育っていないから。(中略)もし、今テロで国王が殺されたらこの国は本当にカオスになります。実は『イスラム国が狙っているのはそれだ』」→中東で起こっていることをどうしても身近に感じられない日本人。イスラム国が投げかけている問題は第三次世界大戦に繋がりかねないと思われるのだが……▼このように対談の中で私が取り上げたものを挙げてみて気づくのはすべて佐藤優氏の発言ばかり。池上氏は聞き役に回っているという印象が強い。しかも佐藤氏のここでの発言はいささか過激なものが多いと思われるのだが、これは読むほうがのんびりしているからだろうか。以下続く(2015・3・13)
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自分にしかできないことをどう探すか(85)
「あんたは目が見えんのやから、どうせ将来ろくな就職先ないんやから、高い金使って大学行っていったい何になる。(中略)世の中お前が思ってる以上に障害者って邪魔なんや」「お前さえおらんかったら」ー実の娘に向かって母親が投げかけた言葉だ。一回限りではない。毎日のように繰り返される母親からの嫌味と存在否定に追い込まれながらも必死に耐えた。一歳三か月の頃、網膜芽細胞腫という眼球に出来る癌によって両目を摘出せざるをえなかった石田由香里さんー彼女が盲学校を経て大学生になり、フィリピンに行くなどするなかで様々な可能性を広げていく話を、大学での教師西村幹子さんと共に著した『<できること>の見つけ方』で読んだ。「全盲女子大生が手に入れた大切なもの」とのサブタイトルがついた岩波ジュニア新書である。現役時代にお世話になった国会職員の女性から、「2・14」にチョコレートと共に贈られてきたのだ。引退直後に<できること>は何かと思い悩んだ時期があっただけに好奇心に駆られた▼それにしても酷いことをいう母親ではないか。冒頭に挙げた言葉の救いはでてこないかと、気にし続けたが、ついに母親からの詫びの披瀝は最後までなかった。その意味では未完の物語との思いは消えない。”親はなくとも子は育つ”という。親から酷い仕打ちをうけようとも、周りの他人の心配りでいくらでもひとは可能性を伸ばすことができる好例かもしれない。身体に障がいを持ってこの世に誕生しても、親の愛で見事にそのハンディを乗り越えたというケースは、乙武洋匡(おとたけひろただ)さんを待つまでもなく数多い。身体に障がいを持つ人たちを激励する機会がこれまで少なくなかった私だが、この本には大いに学ぶことが多かった▼実はついこの間、高校時代の後輩からある会合に誘われた。それは、やはり全盲の身でしかも79歳という高齢で博士号を取得された森田昭二さんという方のセミナーだった。あいにくと先約があり参加することは叶わなかったが、あとで彼から届いたレジュメを目にして、世の中には本当にすごい人がいるものだとの驚きを持つに至った。この私の後輩も障がいこそ持たないものの、中小企業の社長を経て60歳を超えてから関西学院大の大学院で学び博士号を目指している人物だ。その彼が森田さんはある種の霊的な導きに基づいて目的を果たすことができたことに感銘を新たにしていたことが印象に残る。あらためて五体満足の身でありながら、あれもこれも叶わせられることの出来ないわが身の不甲斐なさに思い至る▼両目がまったく見えない石田さんが「周囲から助けてもらう代わりに、周囲に対して何ができるか」っていうことを探すところに「共生」という言葉の真意があるというのは重く響く。衆議院議員を20年にわたって務めた私は、世の人々のためにお世話もしたが、同時に大いに助けてもらった。これからは、周囲に対し,世の中に対して、恩返しをする生き方が問われると思っている。その意味では現役を退いてからの時間が多いことに心底から感謝している。(2015・3・6)
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