原田伊織さんの「維新三部作」は実に読み応えがあった。いわゆる司馬史観なるものがいかに歴史の表層だけしかとらえていないか、ということを微に入り細にわたって解き明かしてくれた。加えて先の大戦以降の民主主義教育なるものも、戦前の全否定には熱心であっても、真に掘り起こすべき歴史の実相には刮目していないことを白日の下にさらけ出した。そこでは薩長土肥の4藩を主力にした明治政府を作った武士たちの横暴さと、徳川幕府を構成した幕僚たちの能力の高さが対比されるように浮き彫りになった。そこへ4作目になる『三流の維新、一流の江戸』が刊行された。前三作の背景をなす江戸期の持つ素晴らしさを描き出したものとして、それなりに面白い。ただ、4匹目のどぜうを狙った感があり、焼き直し的印象は否めない▲尤も、それは三部作の衝撃度が高かったがゆえであって、逆にそれらを読んでいない向きには却って新鮮かもしれぬ。この本をまず読んで、著者の意図の全体像を掴んでから、さかのぼって読み進めば、理解度は相当に進むかもしれない。それにしても原田さんの「維新像」はまだまだ少数派で、明治維新を絶対視する歴史観の根強さは現代日本を覆いつくしている。吉田松陰とその門下生たち、そして坂本竜馬、西郷隆盛らを崇め奉る向きは、彼らをテロリスト呼ばわりする原田さんに対して生理的嫌悪感すら抱きかねないのである。だがどういった分野であれ、私のようないわゆる定説を疑問視するへそ曲がりには、堪えられないほどの爽快感がある▼江戸時代の持つ凄さへの理解度は、前回に取り上げた『徳川が作った先進国日本』で明らかにされたように、かなり進んできている。しかし、私のような原田びいきが改めてこの本で認識を新たにしたことが幾つかある。一つはキリスト教の位置づけである。通常「隠れキリスタン」をめぐる悲惨なエピソードが物語るように、被害者としてのキリスト教徒たちというのが通り相場だ。しかし、九州では真逆にキリスタン大名による非信者たちへの迫害があったという事実は以外に知られていない。もう一つは、少し時代を経ての「廃仏毀釈」のすさまじさである。私など通り一遍に仏教もキリスト教と同じように迫害を受けた程度にしか理解していなかった。しかし、この本で、原田さんは「テロを繰り広げた薩摩長州人は、古来の仏教文化でさえ『外来』であるとして『排斥』した」としていることは改めて注目される。具体例として奈良興福寺や内山永久寺の惨状を紹介し、「仏教文化の殲滅運動」だとして糾弾していることは興味深い▼神道、仏教、儒教という日本における三大思想が、本格的なキリスト教の挑戦を受けたのは、信長、秀吉、家康の勃興した戦国時代末期であった。純粋な宗教次元では、江戸時代の260年の流れのなかで、キリスト教は日本社会に馴染まず、一たびは押し返されたかのように見える。しかし、維新における薩長の乱暴狼藉と「文明開化」の旗印のもとでの西洋文化への無批判な受け入れで、キリスト教はその姿を西洋思想(ギリシャ・ローマの哲学)の装いをまとって再び日本に入り込む。その結果、西洋に比べて、科学技術分野における日本の致命的な遅れは、思想分野においてまでも劣等意識を持たせるに至ったのである。原田さんの維新3部作プラスワンは、明治から150年を経た日本が何に気づくべきかを読むものに示唆してくれる。私たちは現代日本が二流、三流に甘んじることなく、一流の江戸期にまで迫るには、どうすればいいかを考えねばならない。キリスト教プラス西欧哲学という西洋思想などに勝るとも劣らない、日蓮仏法を基盤にした「現代日本思想」の確立こそ急がれる。(2017・3・28)
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(202)関空からジャカルタへの機中で考えたことー磯田道史『徳川がつくった先進国日本』を読む
3月上旬にインドネシア・ジャカルタに旅をしてきた。中身の一端については『後の祭り記』に書いたので、ここではまるまる二日間にも及んだ機中で読んだ本について記す。旅の準備の手抜きで、いつもなら数冊は旅行鞄に詰め込むのに、今回に限り忘れた。一冊もなし。慌てて新大阪の駅ナカ書店で探した。磯田道史『徳川がつくった先進国日本』を関空特急「はるか」出発時間ギリギリで選ぶ。落ち着かぬ状況下で選ぶと、やはりろくなことはない。この本、NHK教育テレビの「さかのぼり日本史」(江戸天下泰平の礎)で4回放映された分の文庫化だった。読み進めるにつけ既視感が浮かんでくる。磯田さんとは会ったことはないが、気鋭の歴史学者として注目してきているだけに、「まっ、いっか」との気分でページをめくった。わずか150頁あっという間だった▼周知のとおり、インドネシアという国の宗主国はオランダであった。我が日本を最初に訪れたヨーロッパの国々のうちの一つがこの国である。長崎出島に世界で唯一翻った国旗がオランダのそれであったことは福沢諭吉の『福翁自伝』の読後録で、ついこの前に書いたばかりである。オランダの足跡を探す思いを秘めつつ、未だ見ぬ国への期待を高めた。磯田さんは、この本で徳川260年の間がなぜ平和であったのかを探っている。世界史では当たり前に繰り返されてきた革命や内乱。これが江戸期には殆どなかった「背景には国際環境や自然環境の変化を乗り越えた江戸期日本人のいとなみがあった」という。そのターニングポイント(転換点)として。(1)露こう事件(1806)(2)浅間山噴火・天明の飢饉(1783)(3)宝永の地震・津波(1707)(4)島原の乱(1637)を挙げている。さかのぼりすることで結果から原因を探ることになるが、これをあえて通常通り時系列でみると、家康が”関ケ原”を抑え征夷大将軍になって約30年後に起こった内乱と、それから100年前後で相次いだ二つの天変地異。それから約25年ほどで起こった外圧ということになる▼この小さな本で我々が今認識を新たにすべきことの一つは、ペリー来航で江戸の鎖国が破られたのではなく、既にそれより60年ほど前にロシアによってなされていたということだ。このこと、一般的にはあまり知られていない。あたかも1868年の明治維新の10年ほど前の事件で一気に日本が鎖国から目が覚めたかのごとく取り沙汰されてきているが、それは違う。十分に江戸幕府の中枢は外国を意識し、その準備をしてきたはずと見るべきだろう。作家の原田伊織氏のいうような「維新のテロリスト」や「官賊」に比べ、いかに優秀であった「幕臣たち」といえども、それなりの蓄積がなければ無理なことであったに違いない。磯田さんは「こうした対外的な”危機を乗り切る”ことで、辛うじて”維持し、再生産していった”」と強調。「ペリー来航」のもたらした危機への”予行演習”を「ラクスマン来航」が果たしてことを銘記すべきだとしているが、大いに首肯できよう▼島原の乱は江戸期における最後の本格的内乱であり、厳密に言えば260年の間”パクス・トクガワーナ”(徳川の平和)であったというのは当たらず、この乱以降の220年だったといえる。この乱の本質は領主への農民の不満爆発と、もう一つはキリスト教への迫害に対する抵抗であった。それに加えて徳川五代将軍・綱吉の「生類憐みの令」に端を発した「生命尊重の心」への動きも見逃せない。キリスト教を排斥したことと、生きとし生けるものを大事にするという流れが重なっていることは極めて重要に思われる。それは明治維新以降のキリスト教プラス西欧思想の流入によって近代日本が戦争へと大きく傾斜していき、平和を捨てて行ったことと無縁ではないからである。磯田さんは最後に渡辺崋山の「眼前の繰廻しに百年の計を忘れてはならない」(八勿の訓)を挙げて、長期的視点の大事さを訴えている。この書物から改めて学ぶことは多い。江戸期ならずもっと以前からの地震・津波の大災害の被災を受けてきた国・日本。「3・11」から6年しか経っていないのにもう防災への関心が薄れるようであってはならない。津波・地震先進国として日本は、アチェの大津波を経験したインドネシアと連携することの大事さを強く意識しながら、機中からジャカルタのひととなった。(2017・3・16)
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(201)名編集者の箴言散りばめた人物論━━背戸逸夫『縁ありて花ひらき、恩ありて実を結ぶ』を読む
「君はアグレッシブなやつだと思っていたが、最近は少し変わったね。丸くなったよ」──尊敬していた先輩から厳しくいわれてしまった。昨年末にかつて青春時代を共有した仲間たちの集いが終わった後の二次会でのことだ。もう20年近く前のことになるが、同じこのひとが拙著『忙中本あり』について「君の本にはエロスを感じる」と妙な表現で評価をしてくれた。理想を求めてあくなき挑戦をする姿勢を褒めてくれたと思いこんでいたのだが、「アグレッシブな」との表現を聴いて、正直落ち込んでしまった。このひとの脳裏には、エロスとアグレッシブが裏腹の関係にあって使われたものだと思われる。ひとの言葉に一喜一憂する歳でもあるまいに。尤もそれだけこの人を憧れていたからだろう。
背戸逸夫さん。長く潮出版社で総合雑誌『潮』の編集を担当された。開高健氏始め数多の作家をして「名編集者」と呼ばせた才人である。60歳代半ばで創刊された月刊誌「理念と経営」の編集長を務め、数年前から編集局長を。政党機関紙の記者をしていた私からすると、雑誌作りという隣家の庭の花はどうしても赤く見えてしまう。その背戸さんから先日、『縁ありて花ひらき、恩ありて実を結ぶ』という長いタイトルの本が送られてきた。「理念と経営」で連載されてきた中小企業経営者とのインタビューを中心にした読み物の10年間分をまとめたものである。
●200人超える経営者が登場
一読打ちのめされた。短い文章でこれだけひとを鮮やかに描き切ったものはかつて目にしたことがない。ニュース記事に始まり、国会の動きを中心とする解説や、コラム、社説と記者時代に私は書いてきた。一番難しいのは人物記事だと思ってきた。そんな私をして心底から感服させる中身である。
恐らくは若き日より読みに読んでこられた背戸さんは、しっかりと感銘を受けた言葉やフレーズをため込んできておられるはず。それを一気に吐き出された感がする。普通の読者なら読み過ごし投げ捨ててしまう言葉を惜しげもなく披露してくれる。いやはやそんなに見せてくれずともいいですよ、といいたくなるほど適切極まりかねない箴言の列挙。お鮨と天ぷらと、それにウナギを併せ食ったような満腹感がしてしまう。この本は毎月分をゆっくり味わうもので、単行本になったものをまとめて読むときはゆっくりと間合いをおいて読まないと体調に変調をきたしかねない。
今になるまで、本を読みながらメモを取ったり、ノートを作るなどという事は宗教、思想・哲学の分野を除いてなかっただけに、不可思議な読後感に苛まれている。225人ほどの経営者のたたずまいが取り上げられているが、全く知らないひと(ご存じ吉田松陰、松下幸之助がまぎれ混んでいるが)ばかり。私が会って話を交わしたことがあるのは、僅かに3人。丹羽宇一郎(元伊藤忠商事会長、元中国大使)氏と山中伸弥(ノーベル医学生理学賞受賞者)氏は別格だろうから、明珍宗理さん一人だけと言っていい。姫路で有名な火箸風鈴の作り手である。「ひとのあるなしもうち忘れ、鉄を打ちにかかる姿と呼吸をじっとみているうちに、いつかしら共に槌を持って一振り一振り、精魂をうちこめているような境地にひきこまれます」──静かで見事な風景描写だ。「匠は、市井の人でした。仕事に誇りをもち、思いがけない一家言の蓄えの一端が開示されます。はっきりした性格を所有しているひとでした」──激しさを隠し持った見事な人物描写である。ひとを見抜く力を持ったひとをして、「赤松を見誤っていた」と言わせたかった。
【他生の縁 憧れの編集人への思い】
潮出版社というと、私には若い日からの思い入れがあります。大学を出て公明新聞社に入ることになったのですが、母が「そんな会社に息子が勤めることになったなんて、人に言われへん」と言いました。50年以上経った今も忘れもしません。信仰と縁が薄く、見栄をはること大なるものがあった人です。私が「新聞記者やないか。報道に関われるんや」というと、追い討ちをかけるように、「NHKやったらええけど」ときました。「うーん、そんなら『潮』っていう出版社に入ったとでもいうときゃ、ええやん」と、やけくそ気味で言い返しました。咄嗟に出た〝勤め先詐称〟の発言ですが、〝息子の心母知らず〟もいいところです。母は『潮』の存在すら知らなかったはずですが、それきり黙ってしまいました。
『潮』には、尊敬すべき先輩が何人もいました。背戸さんの直ぐ歳下の木村博さんもその一人です。この人とは晩年親交を深めることが出来、60歳を超えてドイツに居を移された再婚先にまで押しかけました。再婚相手は、『潮』同期入社の若くしてドイツに渡られた女性です。その木村さんのお宅で、背戸さんの本の魅力を語り合ったものです。雑誌編集に生涯をかけた魅力溢れる先輩は、もう二人ともこの世にいないのは残念なことです。
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