21世紀に入る直前に私は、新幹線で姫路と東京を往復する新幹線車中で週一回、書評を書き始めました。二年間の100回分をまとめて『忙中本ありー新幹線車中読書録』と題して2001 年に出版。その後もブログ上で書き続けましたが、昨年末、退職に伴って一たび終了しました。以来、ほぼ一年、このたび今年の読書週間を機に、再開することにしました。なにとぞ、ご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。
子どもの頃からの本好きな私は、一度手に入れた本を手放すことはなかった。しかし、20年に及ぶ東京での単身赴任生活に区切りをつけ、故郷に帰るにあたって、事務所や宿舎に溜まりにたまった本は狭い我が家に送るわけにもいかない。結局、千冊あまりを処理せざるをえなくなり、お世話になった各方面の人々に引き取ってもらった。引っ越しのどさくさに紛れたとはいえ、これはまさしく画期的なことだった。家の方もこの際に整理をとの妻の声に追い込まれ、姫路市立図書館主催の古本市に協力する形で数百冊を提供してしまった。それやこれやで大胆なダイエットが成功した身体のように書斎はすっきりとした。どうせ持っては死ねない。これからは読んだ本は頭の中に叩き込み、全部処分したうえで、旅立とうと開き直っている。
そんな折も折、ショーペンハウアー 鈴木芳子訳『読書について』を読んだ。この本は古典的名著だが、このたび新訳で登場した。「読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない」と断じ、サーファーが波乗りをするように本をただ読み散らすことに警鐘をならしている。ややもすると、自分の頭で考えることをせずに、ページをめくるたびに感心したり興奮するという読み方をしてきたものとしては衝撃的な内容である。兵庫県はデカンショ節発祥の地・篠山市を擁するのだが、デカルト、カントに偏向し、三番目のお方を無視するきらいがあったことを大いに反省させられた。これから読書に挑戦しようとする若者には真っ先にこの本を読まれることを薦めたい。あれこれ本を読み漁ってきた末に人生の晩年になって「たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう」と言われたんでは、まったく実も蓋もないからである。(10/28)