単純率直に言って面白くて滅茶苦茶怖い本である。1995年にポルトガルで刊行され、瞬く間に話題になり、1998年にジョゼ・サラマーゴはノーベル賞を獲得した。この2月にNHKテレビで放映された『100分deパンデミック論』に取り上げられたのを観て、読む気になった。その番組で作家の高橋源一郎氏が解説していたように、カミユの『ペスト』では取り上げられていない、被害者側(失明者)の立場から書かれている分、同じパンデミックと言っても全く「凄み」が違う。一人を除いて登場人物全員が失明状態になってしまう。会話が括弧つきなしで、交互に出て来るうえ、説明文も時に挟まれ延々と続く。しかも名前は一切出てこず、最初に失明した男、医者、医者の妻、サングランスの娘等と言った調子。一見読みづらい文体だが、テンポ良くぐいぐい引き込まれていった◆交差点で前にいる車が動き出したのに、真ん中の車線の先頭の車が動かない。当然ながら後続の車はけたたましくクラクションを鳴らす。立ち往生した車の回りに人が集まり、閉じた窓ガラスを叩いたり喚いたりする。ハンドルを握った男は何ごとか叫んでいるのだが、わからない。車のドアがやっとあけられたとき、何を言ってるのかわかった。目が見えない、と。このあと、運転者と接触した人間の眼が次から次へと見えなくなる。運ばれた先(この時運んだ人は見えていたがやがて失明する)の眼医者も。また患者たちも。この流れが実に怖い。舞台はやがて収容先にあてられた精神病院へと移り、失明者が次々と運び込まれていく。そこでの惨状が一人だけ見える(理由はない)医者の妻の目線で明かされる。ものは口から入れ、下から出す。食い物をめぐる争い。排泄された汚物の上を歩き、転ぶ。どこまでも汚くとんでもなく臭い事態が克明に明かされる。監視する役目の男たちとの諍いは死を招き、やがて〝性の魔の饗宴〟へと堕していく◆後半は収容所から一応〝自由な〟外界へ、と。といっても見えない環境は同じ。視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚の五感のうち、どれが壊れて使えなくても立ちどころに人間は危急存亡の危機をきたすが、とりわけ外から無惨に見えるのが視覚障害。みんな見えない状態は不遜だが滑稽でさえある。そんな情景がこれでもかと繰り返され、読む側は苦痛さえも。パンデミックの究極は人間存在の危うさと惨めさを否が応でも突きつけてくる。様々な小説を読んできたが、リアルなえげつなさにおいて超突出している。水がなくて雨を渇仰し、食う物がなくて‥‥。紹介も憚る場面がうち続く。『ペスト』についでノーベル賞をとったパンデミック作品だが、これを上回る人間の哀れさを催す小説はこれからもちょっと出てこないのでは◆作者は、ここで何を訴えたいのか。女がいないと何も出来ない男のひ弱さ、そのくせ平時は偉そばるどうしよもなさ。眼が見えているようでいて、ことの本質は何も見えていない人間の弱さなどに考えは向かう。いったいどういう結末にするつもりなのか。終わり方が気になる。ひょっとして、ずっと見えていた医者の妻が見えなくなって、ジ・エンドなのか?突然見えなくなったから、また突然にみんな見えるようになるハッピー・エンドなのか?ある意味でパンデミックの極致と言える設定である。宗教との関わりが最終局面で登場するが、いたって暗示的なのが気になる。ともあれ、生まれたまんまの人間は本来いかに無力か。それを再認識する。風呂場で、昔日の面影が遠い我が裸体を見ながら、何故か見たこともなく見たくもない〝プーチンの裸姿〟が脳をよぎる。(2022-4-24)