Monthly Archives: 3月 2021

第3章8節 「おもてなし」をキーワードに日米文化を比較━━相島淑美『英語でマーケティング』

 ⚫︎米社会のホスピタリティとの違いはどこに

  著者の相島淑美さんは、上智大学で英語を学び、日経新聞で流通経済の現場を取材した後、慶応義塾大学院に入り直しアメリカ文学を研究。その後、某女子大で講師をする一方、翻訳家として20数冊の書物を訳す仕事に従事。さらに関西学院大経営戦略科のMBAとしてマーケティング習得に磨きをかけ博士号を取得し、今は神戸学院大学経営学部教授を務めている。

 標題作は、観光やアパレル業界などにまつわるマーケティングに関する三本の英語論文(抜粋)を優しく解説した本である。「英文に引っ張られるのでなく、自分から先に何が書いてあるかを予想しながら読む習慣をつけると、英文が無理なく読めるようになります」「抽象的な言葉が多く使われていますが、教育実習生と指導教員の関係を思い浮かべながら読んでいくとよいでしょう」━━長年に渡り、英書と格闘してきた人ならではのアドバイスが随所に光る。こういう英語教師と出会えなかった我が身の不運が悔やまれる、というのは少々言い過ぎかもしれないが、それに近い感情を持ってしまう。

 コロナ禍の直前、日本中はインバウンドに沸き、〝おもてなし〟に関心が高まった。そして今もまた。マーケティングの本場・アメリカでのホスピタリティとの違いはどこにあるのか。かつて、明石港、淡路島を拠点に、瀬戸内海の島々をめぐる観光に執念を燃やした私もあらためて思いをめぐらせた。達成すべき100点満点基準を「ゴール」に設定するホスピタリティ。これは、基準をいかに効率よく達成するかがポイントだ。一方、日本の〝おもてなし〟に「ゴール」はない。どこまでいっても、まだまだよりよくする余地はあると、著者はさらに「表面的な行為は似ていても、前提となる発想は大きく異なる」と切り込む。刺激に溢れた好著である。「英語」と「マーケティング」どちらかに関心を持つ人に、勿論双方共に学ぶ多くの人に勧めたい。

⚫︎日本の伝統文化の究極としての「茶道」

  この人、昨秋に『茶道』(CHA DO)なる本を出版した。「日本語と英語でわかる! もっと知りたくなる日本」とのサブタイトル風の宣揚文が付いている、全頁にイラストがふんだんに散りばめられ、日本語と英語の両語併記で、楽しく日本文化を紹介しようとの狙いを持つ本である。冒頭に「日本はおもてなしの国として知られています。おいしいお茶をのんでいただくように一生懸命に準備をする。招かれた側も、その気持ちにこたえる。これが茶道の基本である」とあるように、全編「おもてなし」の心で満ち溢れている。

 著者には『おもてなし研究の新次元』という佐藤義信関学大教授との共著があり、日本の伝統文化としての「おもてなし」について、マーケティングの角度から研究を続けている。その背景には幼少期の家庭教育から始まり、中高、大学時代を通じてのアメリカ文化の吸収やキリスト教の影響などがあろう。加えて、源氏物語を始めとする日本文学、文化(美学)への憧れとアプローチがその根底をなす。研究の中で、日米の感性の違いに関心が高まり、やがて、キーワードとしての「おもてなし」に行き着いたものと思われる。

 「おもてなし」の起源を探る作業の通過点として「茶の湯」の再発見があり、今は公私共に深く取り組んでおられるように見受けられる。この人の「おもてなし」研究の概念図を覗くと、経営学・マーケティング、教育、文化、心理学・脳科学、医療・介護・社会福祉、まちづくり・地域創生、観光と、実に多彩なテーマが列挙されていて、それぞれの周辺には数多のポイントが付記されている。パワフルな知的興味の発散がいかなる方向に今後収束していくのか、実に興味深い。時に、旨いお茶を頂きながら、強い関心を持って見守りたい。

★他生のご縁 異業種交流の場で出会い、交流深める

 5年ほど前に神戸北野坂の異業種交流会の場で、中小企業の経営をしながら、関学のMBAとして学ぶ長田高校の後輩より、相島さんを紹介されました。今は、学校現場における「いじめ」の問題から、才能ある人材の枯渇といった複合的な教育の荒廃を、抜本的に建て直すにはどうすればいいのかをテーマに、種々議論を重ねているところです。

 相島淑美さんが翻訳した(翻訳者名は鈴木淑美)『JFK  未完の人生』は、ケネディの知られざる一面をふんだんに盛り込んだ面白い本でした。とりわけ、「華麗なる大統領のプライバシー」の章で、「健康問題や兄妹の早世からくる『先が長くない』という気持ちから女遊びに走ったが、(中略) この先まもなく、核戦争が起こるかもしれない。となれば、人生を出来るだけ満喫したい、やりたい放題して生きたい、という衝動に拍車がかかった」とのくだりには衝撃を受けました。

 ケネディについては、マリリン・モンローとの浮名など女癖の悪さは知らないわけではなかったのですが、強いリスペクトの思いを持ってきた私としては、著者の表現のありように疑問さえ抱いてしまいました。相島さんに背景を聞きたい衝動に駆られますが、翻訳者に訊くのはお門違いかと、遠慮しています。

 

 

 

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(380)巧みな政党比較に酔うー山口那津男、佐藤優『公明党の真価を問う』を読む

世の中的には安倍晋三前首相の7年8ヶ月の評判は、功罪あい半ばする。それを与党の一翼として支えてきた公明党についても見方は分かれる。私見では、政治倫理に照らして怪しげなこと(例えば、いわゆる、もり、かけ、さくら問題など)で、安倍、菅コンビに対して、公明党が大きな声でノーと言った場面が見えなかったことが原因だと思う。それは、連立のパートナーとしてのマナーの遵守なのだろうが、結果として「存在感に乏しい公明党」という見立てを許してきたのは無念である。と、私は思ってきた▲しかし、田原総一朗氏との先の対談本に続き、今回佐藤優氏との第二弾も読み終え、大いに反省せざるをえない。知られざる山口代表の底力。それを世にどう伝えるか。もっと公明党は真剣に広報に取り組まねば、損をしていると思うことしきりである。例えば、イージス・アショアによる「敵基地攻撃能力」問題を公明党が一蹴したことはそれなりに知られている。しかし、その代替策として「スタンド・オフ・ミサイル」の開発に持ち込んだことは殆ど知られていない。この兵器は領土、領海、領空を守る自国防衛のためのもので、「画期的」(佐藤)な「最適解」(山口)だ、との評価は手前味噌でなく、間違ってはいない▲しかし、メディアはそう伝えていない。公明党からの発信も弱い。佐藤氏が「成果が出たあと、何事もなかったかのように、静かに次の仕事を続ける。この謙虚さも公明党ならでは」というが、私はむしろむず痒さを覚える。安全保障分野では「絶対的平和」を求める向きも支持者に少なくない。それゆえ誤解されることを恐れて、政策スタッフが発信を躊躇したものではないかと想像している。生活に直結する社会保障分野での数々の実績やその対応とは違うところだ▲この本での佐藤氏の巧みな比喩を使った政党比較が興味深い。例えば、自民党は「エピソード主義」だが、公明党は「エビデンス主義」だという。前者は「偶然出会った出来事を普遍化させて」自身の実績にしてしまうが、後者は現場で話を聞くと、「アンケートや訪問調査で根拠をとって裏付け」たのち、党の実績へと組み立てるからだ、と。なるほど。一方、旧民主党は、「コンサルタントみたい」で、「評価しながら関わるが、最後の出口まではしっかり責任をとらない」。公明党は「コーチをしつつ、最後まで一緒に(伴走者として)走り切る」。確かに。さらに共産党は「暴力革命政党」で、公明党は「人間革命政党」だ、と。公明党は「仏法の中道主義、人間主義、平和主義に基づく価値観政党」である。その通り。共産党は「共産主義と暴力革命という価値観政党」だと、同じ価値観政党として位置付けている。分かりづらい。ここはやはり従来通り「イデオロギー政党」であるとした方が落ち着く。ともあれ、この本を読めば公明党支持者は溜飲が下がること請け合い。ただし褒められ過ぎて、酔い過ぎにご注意だ。(2021-3-21 一部修正)

 

 

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(379)「知性と現代」「公明党の足もと」「姫路と文学」などに思い馳せる3冊

与那覇潤、山口那津男、森本穫ーこのところこの3人の本を続け様に2冊づつ読んだ。1冊目はそれぞれ読書録に既に取り上げたが、2冊目については3つまとめて1回分で印象に残ったところに触れたい。まずは、与那覇の『知性は死なない』から。社会全体の「うつ」症状を診る『知性が崩れゆく世界で』(第5章)を追う。ソ連風社会主義と米国流自由主義が30年の時間差で、瓦解する風景を二つながらに見ている私たち。与那覇はこの背景に「反知性主義的な反発」があるという。「身体に対する言語の屈従」をどう乗り越えるか。病みあがりの若い知性の挑戦は、老政治家の知的興味を刺激して止まない◆次に、山口と佐藤優の『いま、公明党が考えていること』を。これは5年前の「安保法制騒ぎ」の直後に出た。佐藤はこの本から公明党ウオッチャーの姿勢を一段と強めた風に見える。山口は苦労を重ねた末に、見事に「集団的自衛権」問題を「憲法の枠内」に収めたことを語り尽くす。山口の家族のことを含む体験談は感動深い。強く私が共鳴したのは「人間の生命だけが一番尊いわけでもありませんし、人間以外の動物や地球環境を犠牲にし続けることは許されません」との生命観を披歴したくだり。さりげないが、凄い一行だ◆更に、森本穫の本は、同居する私の義母が持つ『作家の肖像ー宇野浩二、川端康成、阿部知二』である。このうち姫路に縁の深い知二についての第三章だけ読んだ。冒頭に歌稿168首がずらり並ぶ。胸を病んだ彼の切なる思いは、かつて同じ年頃に同じ病に悩んだ我が胸に異音を持って響く。森本は40代半ばに姫路に居を定めてから、「知二」と必然的に深い関わりを持った。「〈抒情〉とともに色濃く現れている〈官能〉の要素。それは同時に、破滅や零落を招きかねない危険因子として、恐れと予感にみちて描かれている」との〈頽廃〉を想起させる書きぶり。姫路を離れてから逆にご縁を頂いた森本穫。彼の誘いによる知二との邂逅に、遠い日に別れた女と再会したような疼きを禁じ得ない◆あとは補足。与那覇は「人類が進歩するにつれて、世俗化(脱宗教化)してゆくという考えかた」の「信憑性が疑われている」として、米露におけるキリスト教の影響を挙げる。併せて、「創価学会のささえる宗教政党(公明党)が、キャスティング・ボートをにぎりつづけた平成30年間の日本の政局をくわえても、いいのかも」と続ける。この後、最大の信仰復興を実現したのはイスラム教だと、話題を転じているのは残念だ。彼の公明党観をもっと聞いてみたい。私は、これまでの政治家人生で、竹入、矢野、石田、神崎、太田、山口と6代にわたる公明党のトップと濃淡の差はあれ、それなりに付き合ってきた。数々の思い出の中に好悪の感情が入り混じるが、「山口那津男」には益々興味が尽きない。(2021-3-9 一部修正 敬称略)

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