Monthly Archives: 11月 2023

【104】3-② 手取り足とり秘伝を公開━━丸谷才一『思考のレッスン』

◆読み方、考え方、書き方のコツが披瀝

 作家で文芸評論家だった丸谷才一氏が20年ほど前に出版したこの本は、全部で6つのパートに分かれており、前半三つがご自身の体験で、「丸谷自伝」的読み物である。後半三つは、「本の読み方」「物事の考え方」「書き方」のコツが披瀝されている。まさに、秘伝公開の趣きがあり、若い人たちがこれを読み、実践に移せば、たちどころにレポート、論文はスラスラとかけるはず、かもしれない。

 私は、後半から読み、最初に戻り、そして鹿島茂氏の「解説」へと進んだ。フランス文学者の鹿島氏は丸谷さんのこよなき「後継者」である。そう私は勝手に思ってきた。〝異流派のすぐれもの〟による見事なまでの手ほどきは、鮮やかというほかない。学生との対話形式で、この本の「使い方」を伝授してくれている。ものぐさな読み手は、この解説を読めばそれで事足れりと思うに違いない。「どんな本を読めばいいか」「読書感想文と論文との違い」から「良い問いかけ」「仮説の立て方」に至るまで、全部で10個の作法を本文の頁付きで提示している。まさに手取り足取りの「思考のルールブック」なのだ。

 丸谷流の「読書のテクニック」は、実にユニーク。本はバラバラに破って持ち歩け、索引から読み始めろ、人物表、年表を作れ、と。図書館通いの私はコンビニでコピーをとるという禁じ手を犯し、あとがき、中程から読み始め、本の見返しや、しおりの裏に登場人物を書き出そうとするも、書けない仕様ぶりに悩まされてきた。「考えるコツ」で、真っ先に挙げているのは「謎を育てる」こと。時間をかければそのうち何かが発見できるなどと、悠長なことをおっしゃっている。本は慌てて読まず、散歩しながら思案し、お風呂に入りながら考えよう、とまで。私など、〝下手な考え休むに似たり〟とばかりに次から次へと本を読んできた。〝考えない人〟の典型かもしれない。恥ずかしい限りである。

 「書き方」については、谷崎潤一郎の文章の一番すごいのは、「英語の文章の書き方と日本語の文章の書き方を丁寧に対応させた上で得たコツをうまく生かして書いている例」だと絶賛する。また、「漢語と大和ことばを上手に混ぜて文章をつくる。片仮名ことばはできるだけ控える。そうすると文章が落ちつく」との指摘も得難い。このくだりに触れる前段で、鳩山由紀夫元首相の話し方の不味さぶりを例に、政治家の言語責任を問うてみたり、漢語がやたらに多い官僚の文章の問題点を槍玉に挙げたりしている。確かにその通りだったなあ、と我が身の拙さを棚に上げて、納得してしまうのである。

◆実例としての『日本文学史早わかり』

 実はこの本のなかで、著者は、『日本文学史早わかり』なる著作を紹介、「思考のレッスン」の具体例を示している。日本文学史については、政治に偏重した時代区分では、どうも面白くないと思い続けてきたが、「自分の心の中の謎と直面して、ああでもない、こうでもないとあれこれと考え直し続けていく中で、従来の通説と違う新説に突き当たった」といわれるのだ。

 これは、全体を五期に分け、第一期→八代集以前(?──9世紀半ば)  平安遷都後約50年の頃までで、宮廷文化の準備期。第二期→八代集時代(9世紀半ば──13世紀初め)    菅原道真誕生の頃から承久の乱の頃までの宮廷文化の全盛期。第三期→十三代集時代(13世紀──15世紀末)承久の乱から応仁の乱の頃までで、宮廷文化の衰微期。第四期→七部集時代(15世紀末──20世紀初め)応仁の乱の頃から、日露戦争の直後あたりまでの宮廷文化の普及期。第五期→七部集時代以後(20世紀初め──?)日露戦争の直後(自然主義の勃興)から今に至る宮廷文化の絶滅期、としている。丸谷さんは「第四期がむやみに長いのは気になるけれど、しかし、これが日本文学史の実態なのだから仕方がない」と述べている。

 確かに斬新な感じはするが、しかし分かりづらいことは否めない。ご本人はいいと思っておられるようだが、あまり人口に膾炙していない。そもそも八代集、十三代集と7部集という括り方が一般受けしないのではないか。せめて、頭に和歌、俳諧の2文字をくっつけて欲しいと思うのだが。丸谷新説をあらためて眺めてみると、明治維新以後の西洋文明の影響に関心が向かわざるを得ない。日本固有の文学史は、明治期を境に、短詩型中心の時代が終わりを告げ、西洋風の小説、長詩中心の時代が到来したということだろう。尤もこれは、早わかりならぬ、早とちりだと言われるかもしれない。

【他生の縁 桐朋学園創立50年の集いでの大爆笑】

 20年ほど前、桐朋学園創立50周年のお祝いの宴に、同学園を卒業した私の妻と一緒に出かけました。その際のご挨拶に登壇した同学園を卒業した指揮者の小澤征爾さんが、「私は在学中に英語を丸谷先生に習ったのですが、おかげで一向に英語が上達しないのです」と、暴露話をされて場内は大爆笑となりました。

 そのすぐ後に、私は個別にご挨拶に向かい「先生、厳しいこと言われてましたね」と水を向けたのですが、なんだか妙に嬉しそうだったのが印象的でした。

 

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【103】今なぜ「日蓮本仏論再考」か━━創学研究所編『創学研究Ⅱ』を読む(下)/11-21

 池田先生が霊山に旅立たれて初7日が経つ。『創学研究Ⅱ』についての読書録上編を公表したのが14日だったので、下編までの7日間が不思議な意味合いを持つように思われる。我が人生における永遠の師との今生の別れという劇的変化を受けて、身も心も引き締まる。質量ともに圧巻と言っていい読み物(講演)は、松岡幹夫所長による第2章「日蓮本仏論再考━━救済論的考察」である。全体の半分以上の分量(時間)が当てられて「信仰の証明学としての日蓮本仏論史」が語られている。中身を大胆に要約すると、鎌倉時代の宗祖・日蓮大聖人より後継の祖・日興上人を経て、江戸期における中興の祖・日寛上人から近・現代に続く日蓮仏法の系譜が、創価学会の今に至るまでの正当な流れとして見事に解明されている。同時に、800年の時間的経緯の中で、袂を分つことになった身延山久遠寺を始めとする諸々の日蓮宗系各派の位置付けやら、富士大石寺系統の現・日蓮正宗及びその異端としての顕正会に至るまでの側・裏面史も表裏一体のものとして整理されている◆これがこの講演で私が理解した核心部分なのだが、そこに至るまでの議論の腑分けに必要な幾つかの道具立てが用意されている。「史実論と救済論」「護持の時代と広布の時代」などは、文字だけで大まかに推測出来るが、「準備」「予型」「過程」「真意」といった「四つの原理」は字面だけでは解りづらい。イメージ的には、過去に学んだ仏法理解のツールとしての、小中高大の教育段階での役割分担や、建設作業での足場のようなものと言えば、少しは身近に感じられよう。ともあれ、世界広布の時代の民衆救済という観点に立てば、過去に意味を持ったものも、小さくて身体に合わなくなった古い時代の衣服として捨てるしかないということである。誤解を承知の上で杜撰な理解ぶりを披歴したが、読み終えた今、複雑怪奇な迷路から脱して眺望晴れやかな高台にたどり着いた時のような爽快感を味わえたことだけは確かだ。松岡さんの労作業に、それぞれ自身の力で挑戦されることを薦める◆この松岡講演(第2章)を挟んで、前回の仏教的観点の議論(第1章)に続き、佐藤優、黒住真両氏によるキリスト者の論議がまた読み応えがある。文献学や神学といった学問に取り組む学者が、人々の生活する世界から離れていった事実を、黒住さんは挙げる一方で、生の人間の生き死にの場面━━戦場での傷病者や癩病患者の治療の場など━━で献身的に寄り添う司祭たちの姿を描いているくだりが注目された。この描写に続き、彼が「創価学会は法華経の研究者を輩出しただけで終わっていません。それ以上に、人々の生活世界そのものに飛び込んで応対していった。実際に、創価学会は多くの苦しみ、絶望した人々を救ってきています」と述べて、東西を問わず「現実世界での宗教、それと文献、言葉とが結びつくことが必要で大事」と強調しているのです。佐藤優さんは一貫して創価学会員の仲間たちの民衆救済に取り組む姿を礼讃してくれています。この本でも随所で、その視線は宗教の差異を超えて、学会員と完全に一体化しているかにみえます。私はこれらに接するたびに、その期待を裏切らぬようにと、祈る思いになるばかりです◆最終章の2本の寄稿(羽矢辰夫創価大名誉教授と関田一彦創価大教授)は、共に強いインパクトを受けます。前者は「『創学研究Ⅰ』の書評に代えて」との体裁をとっており、そのなかで、池田先生、創価学会が提唱する「人間主義」は、ヨーロッパ由来の概念としての「人間主義」との区別をすべきだと主張しています。これまで「凡夫を人間の唯一のモデルとしてきた(ヨーロッパの)人間主義」と「ボサツを人間の新しいモデルとする人間主義」を区別せよと言われるのです。これには私も全く我が意を得たりです。私風には、これまでヨーロッパのものは、自然をも含む生きとし生けるものへの畏敬の念がないため、「人間中心主義」と呼んできました。「人間主義」だと、羽矢さんが指摘されるように誤解を招きます。私自身は「人間主義」との表現を避けて、敢えて「人間主義(生き物主義)」と面倒な表現をするように心がけてきました。最後に関田さんの「仏法から見た協同教育━━十界論から授業を観る」には感動を禁じ得ませんでした。「学校が子どもたちを苦しめるいじめや不登校の温床になって久しいにも関わらず、未だ解決できないのは仏法の生命論なかんずく十界論の観点から子どもたちの学校生活を考えるという発想が乏しいから」だとの指摘には目からうろこです。公明党の人間としても今ごろになって気づきを得て、恥ずかしい限りです。(2023-11-21)

 

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【102】「日蓮本仏論」の興味津々たる展開━━『創学研究Ⅱ』を読む(上)/11-14

 待望の2巻目が出た。1巻からの熱心な読者のひとりとしての私には特別な思いがある。日蓮大聖人と出会った、つまり創価学会の信仰に帰依した大学1年の4月頃(1965年/昭和40年)は、公明党結成後半年ほどの時であり、それいらいずっと「政治と宗教」を考えることが人生の主たるテーマになってきた。創価学会の信仰を体内に取り入れ、その魅力を人に発信する行為と、公明党を理解し世に喧伝する営みが〝人生自動車〟の車の両輪になってきた。そんな私にとって、創学研究所による、信心、信仰に学問的な考察を加えようという挑戦は、実に魅力あふれるものである。あたかも目の不自由なマラソンランナーが優秀な伴走者を得た思いがするからだ◆「信仰学」をテーマにした1巻に続き、2巻目の主題は「日蓮大聖人論」。ありていに言えば、仏教は釈迦でなく、日蓮大聖人が究極の仏だという「日蓮本仏論」への推移と帰着を追求している。釈迦が創始した仏教において、日蓮が本仏とは如何なる帰結なのか。日蓮という人物は「4箇の格言」で、他宗派への断定的評価付けをあらわにしていったのはなぜなのか──今になお曖昧さが消えない古くからの命題を大事な物入れから取りいだすように、懸命に頁を繰っていった。国際社会がロシアの仕掛けたウクライナ戦争に四苦八苦していたところに、ハマスのイスラエル攻撃に端を発したパレスチナ戦争の再発という複合的悲劇。今や、世界は第三次大戦へと向かいかねない様相で、不気味な恐怖と不安が一段と漂う。その時だからこそ、「宗教再発見」であり、「仏教再考」が求められる──いやそんな悠長なことでなく、「日蓮仏法」の現代的展開である「池田思想」を直ちに広めなければならない。そんな思いが募る。この本の第2章での松岡幹夫さんの「日蓮本仏論再考──救済論的考察」は上下2段組み169頁にも及ぶ大部なもの。門外漢には詳細を究めた議論の連続的展開で、極めてマニアックなものに思われる。だが、あたかもこんがらがった糸をみごとにときほどくような、微に入り細を穿った表現ぶりは、注意深く読めば不思議なほど面白さに満ちている◆今回の試みでまず私が注目したのは、蔦木栄一さんと三浦健一さんという気鋭の若手論者による小説『人間革命』と『新・人間革命』についての考察であり、それに対する佐藤弘夫氏、末木文美士氏という2人の外部学者による講演とそれを踏まえた討論である。とりわけ、佐藤、末木両氏による率直な問題提起や提言は、身内だけの紅白戦に突如外部から武者修行者の挑戦を受けたかのようで、緊張を孕むと同時に面白い議論が期待された。例えば、佐藤氏は、日蓮本仏論について、特権的な宗教的権威を日蓮ひとりに集中させる論理では、「教祖の権威が絶対化され、一人歩きして非常に危険な事態を招きかねません」とし、更に後段でも「誰か特別なひとだけを絶対視するような権威を作らない」ことを望む意向を繰り返している。明らかに、これは宗祖だけでなく、創価学会の側にも向けられた忠告だと思われる。さらに、同氏は、後半の「総合討議」の場で、地球上の全生命が生き残れるかどうかが問われる厳しい時代に入ったにもかかわらず、「創価学会の教学は相対的におとなしく見えてしまう」と、率直な見解を述べている。これは創価学会そのものがウクライナ戦争などや破壊が進む地球上の自然環境の現状に対して強い発信をしていないことを意味していよう。この2点について、研究所側からは直接の答えが読み取れないように思われる。前段の指摘にはノーコメントだし、後段については、〝生々しさの意味〟を取り違えているように私は見てしまう。ここは、もっと世界の現実打開へ発信すべきだとの佐藤氏の指摘だと思われる◆一方、末木さんは、鎌倉時代の仏教について、「仏教の総合化が図られていき」、「宗派対立の仏教ではなかった」とする一方、「従来は『鎌倉仏教は一つを取ったらほかは全部否定する』という考え方が広がっていました」が、「これはまったく間違っています」とした上で、「日蓮についてももう一遍考え直す必要があるだろう」と述べている。これは私のような〝従来的考え〟にとらわれた人間にとっては、強烈なインパクトで響く。しかし、このくだりについて噛み合った議論が見られないのはどうしてか。私が見落としているのかもしれないが、ぜひ、突っ込んだ議論が聞きたかった。他方、末木さんの「創価信仰学はキリスト教の神学をモデルにして作ろうとしている」との質問に対し、松岡さんは、世界192ヵ国・地域に広まっているSGIの世界布教を本格的にやろうとすると、「世界宗教であるキリスト教をどうしても参考にせざるをえません」と述べ、現状の取り組み状況を率直に明かしているのは納得できる。これまでキリスト教神学=佐藤優風神学をモデルにされ過ぎてるのでは、との意見も散見されるだけに、大事なやりとりであると私には思われる。ともあれ、思索の波音が高まり聞こえてくるような貴重な研究の所産にめくるめく思いを禁じ得ない。(以下続く 2023-11-14)

 

 

 

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【101】「代議制民主政治」に取って代わる仕組み━━ジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』(柴田裕之訳)を読む/11-11

 「再野生化する地球」にあって、人類が生き残るための大転換の必要性を強調してやまない、今話題のジェレミー・リフキン氏の『レジリエンスの時代』━━ここでの「代議制民主政治が分散型ピア政治に道を譲る」という一章がとりわけ私には興味深く迫ってくる。民主政治の行き詰まりを指摘する声はあまた満ちていても、それに代わりうるものとなると、直ちには思いつかない。そんな中で著者が注目する「分散型ピア政治」なるものは、世界各地で効果を上げていて興味深い◆そもそも「レジリエンス」とは何か。そして「ピア」とは。著者(訳者)は、効率を重視する「進歩」の時代から、今世紀後半には「適応」を重んじる「レジリエンス」の時代へ移行すると、表現している。あえて訳語を与えていないのだが、一般的には「回復する力」を意味する。私としては「蘇生」の意味合いを持たせて理解したい。また「ピア政治」については、「対等者政治」との訳語をあてている。これも聴き慣れぬ言葉でイメージしづらいが、ギリシア語に由来する民主政治(デモクラシー)を踏まえた英語の造語である。裁判における陪審員制度が近いかもしれない。市民の中から、選挙ではなく、無作為に選び出された人たちが、統治に関わる意思決定を能動的に行うというのだ◆ピア議会で最もポピュラーなものとして導入されてきているのは、「参加型予算編成」と呼ばれるもの。自分たちで予算を組むとは魅惑的ではないか。ことの発端は1989年にブラジルのある州でのこと。労働者党がこの地の主導権を握ったことから始まった。地域内のコミュニティ組織を中心に新たな予算提案を募る一方、代表者を選んで「ピア議会」を開催し、皆で話し合って合意を得ていった。もちろん最初からすんなりまとまったわけではなく、あれこれと試行錯誤を繰り返したようだが、それなりの成功を収めた。その結果、上下水道の普及率、医療と教育に回される予算の割合、学校や道路建設が飛躍的に増えていったと報告されている。「ピア議会」の市民参加者数は約10年で、40倍になったという。入れ替わり立ち替わり、普通の市民たちが統治を議論する場に出ていったというわけだ◆現時点で、こうした仕組みを用いて、世界各国の地方自治体で参加型予算編成が積極的に行われているケースは、ニューヨークやパリを含めて一万を超えているというのだから驚く。今や、教育、公衆衛生、警察活動に関するコミュニティの監視、インフラ計画などへと対象は広がっているともいう。市民社会組織の時代の到来として大いに注目されよう。選挙で選ばれた政治家に任せて当たり前だと思っているばかりの日本社会では考え辛い事態だが、自分たちが選んだ政治家の酷い現実にぼやいているだけではいけない。こうした市民参加型統治の仕組みをわれわれも取り入れない手はない、と思われる。(2023-11-11)

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【100】熱い思い伝わるも虚しい実現性━━斎藤幸平+ 松本卓也編『コモンの「自治論」』を読む/11-2

 『人新世の資本論』以後の斎藤幸平氏の著作に注目してきた。資本主義の次にくるものは何かをめぐる考察について、である。環境危機や経済格差が一層広まって、国家も大衆も今や危機に喘いでいる。それにつれて崖っぷちに立たされたといえる民主主義の危機を乗り越えるにはどうすればいいのか。破壊されゆくコモン(共有財と公共財)を再生し、その管理に市民が参画していく中で「自治」を育てていくしかない、というのが斎藤氏の目論みであろう。その第一歩を踏み出すための実践の書だと銘打って、松本卓也氏ら6人と共同で書いた本に大いに期待した。刺激的な内容ではあったが、実現への道筋は果てしなく遠いというのが実感だ◆我々は身の回りで「資本による略奪」とでも言うべき事態が静かに進行していることになかなか気づかない。公園などの公共の場を、市民の反対の声を排除しながら商業施設に変えてしまおうという大資本の動きがあったり、公営事業としての水道事業の民営化を持ち込み、そこに利潤獲得の道を開こうとする大資本の試みがあるのにもかかわらず。そうしたコモンが直面している危機的な事態を打開し、逆に蘇らせていくには、ひたすら自治の力を磨きゆくしかないという。コモンを耕し、それを管理する方法を模索するなかで、私たちの「自治」の力を鍛えていくべきだ、と。資本の浸透は、放置していると、全てを乗り越え迫りくる。対抗するには万人が立ち上がるしかない、と◆この本では、斎藤氏以外の6人が、それぞれ大学、商店、区役所、市民科学、精神医療、食と農業といった、現場における「自治」の現状について興味深い問題提起を展開している。とりわけ、白井聡氏の大学における「自治」の危機についての言及には、呆然とするほかない。「教授会自治」も「学生自治」も形骸化は歴然としており、かつての「産学共同反対」はどこへやら、「産業界の意向を受け入れ、他大学と競争しながら予算を獲得することが自明視されて」おり、「『稼げる大学』といったスローガンさえもがはばかりなく語られる」ほどだという。しかも、学生たちのものの考え方も大きく変化し、権力に対して批判的な視点を持つことが当然だとの常識はもはや通用しないとまで。人材育成の要・教育の現場がこれでは、心許ない◆こう書いてくると、「コモンの自治」は前途遼遠で、何を言っても絵空事の感は免れないのだが、斎藤氏はめげずに、最終章で自治実現への手立てを説く。「垂直型の政治や運動に代わる新しい形の参加型『自治』に向けた、21世紀の理論と実践の可能性です」とし、「そのカギとなるのが、万人が〈コモン〉の再生に関与していく民主的プロジェクトです」と力説する。ただ、残念ながら、いかにもわかりづらい言い回しである。「これはユートピアではなく、世界でも、日本でも萌芽の出てきている二十一世紀のコミュニズム(コモン型社会)のプロジェクトです。そして、そうした自治の実践こそが、資本主義の暴走から民主主義を守るための道なのです」というのだが、虚しく聴こえてくるのはいかんともし難い。事態打開への熱い思いは伝わってくるものの、空回りは否めないのである。(2023-11-2)

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