Monthly Archives: 7月 2023

【88】騙された後の種明かしに呆然━━ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』の解説(堤未果)を読む(上)/7-27

 戦争や自然災害などの危機に乗じて、多国籍企業などが富を奪うに至るメカニズムを『ショック・ドクトリン』と名づけ、同名の著作を著したナオミ・クライン。この本が世に出て既に16年が経つのだが、日本ではあまりこれまで知られずにきている。ここにきて、ようやく人の口の端にのぼり始めた。それは、国際ジャーナリストの堤未果氏によるNHK 「100分de名著」の同名の解説本とテレビでの紹介の力によるところが大きい。原書は勿論、日本語訳書も読まずして、解説書を取り上げる安易さには後ろめたさを伴うが、いっときも早くこの本の魅力を伝えたい◆彼女が示すそのメカニズムとは、①クーデター(あるいは大自然災害)によるショックが発生する②それに乗じて、IMF(国際通貨基金)を使って、新自由主義経済の手法としての民営化を導入する③外国資本が参入し、利益を掻っ攫う━━といったもの。1970年代半ばのチリの独裁政権誕生から、1980年初めのイギリスのフォークランド紛争騒ぎを経て、1990年代後半のアジア通貨危機などが典型例として挙げられる。これらの背後には、米国シカゴ大学のミルトン・フリードマン教授を中心とするシカゴ学派およびその弟子たち(シカゴボーイズ)の連携プレイがあった。このドクトリンは、後進国から先進国まで、資本主義国家は当然のこと、中国、ロシアなど社会主義国家をも巻き込んで、世界中を席巻した。更に21世紀に入ってすぐのイラク戦争では、まさにやりたい放題となった事実が暴かれていく◆これまで地球環境の悪化と共に起こる、自然災害の多発という事態に「大災害の時代」との呼称が使われてきた。そこには、天災に起因するものだけしか視野に入っていない。だが、改めてクライン氏によって、この半世紀ほどの〝人災に基づく時代の特徴〟を整理されてみると、「ショック・ドクトリンの時代」と呼ぶべきものが浮かび上がってくる。今に生きる我々現代人の足元に巣くった元凶は、憎むべき対象ではあるが、あまりに見事な騙しのテクニックと、スピード感溢れることの運び方に、種明かしをされてもただ呆然とするばかりだ。しばらく経って、国家とイデオロギーにばかりに眼を奪われ、国家をまたぐ多国籍企業とカネの動きに頭が回らなかった我が身の拙さが哀しくなる◆とりわけ、イラク戦争をめぐっての日本の対応は惨めだったという他ない。小泉純一郎首相のもとでの自公政権は、米英の軍事介入に同調し、「後方支援だから」と自らを慰めた。岡崎久彦、山﨑正和氏ら名だたる学者たちが、あの当時、やがてイラクには、民主主義の根が定着し、見事に立ち直るはずだと楽観的な未来予測をしたことを思い出す。米英両国首脳は、「大量破壊兵器の存在」に事よせて自らの暴虐を正当化したのだが、後にその事実が虚構だったことが明らかになった。彼らは自らの誤りをそれなりに認めた。しかし、日本では総括すら未だなされていないのである。(以下続く 2023-7-27)

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【87】健常者よ障がい者の修行に学べ━山本章『出でよ!精神科病棟─大勢で大勢の自立を支援する━』を読む/7-13

 元厚生労働省の役人だったこの人の本を紹介するのは3回目。1作目は「薬全般」が対象だった。2作目の「麻薬」に続き、今度は「精神科」がテーマである。薬剤師というキャリアを十二分に活かすだけでなく、今回は身内に患者を持つ当事者という立場に加えて、同じ障害(以下、著者に見倣う)を持つ人たちの自立を支援する社会福祉法人の理事長として、極めて重要な提言をしている。精神を病む人を身近に持つ人びとだけでなく、今に生きる現代人必読の書と言っても言い過ぎではない。人は生きてる限り、いついかなる時でも障害を持つ(高齢者も同様)身になることは避けられないからだ◆精神に障害が生じてしまった人のことをどう呼ぶか。その昔の差別用語を持ち出さずとも、「精神病院」という呼び方も一般的に憚られるほど、偏見に満ちてきているのがこの病いであろう。最近は「統合失調症」という呼び名で統一されているが、これとて定着化しているかどうか疑わしい。かくいう私自身が「躁うつ病」と、とり間違えていた時期がある。国会議員時代には、イタリアを始めとする欧州各国のように、精神障害者を病院に閉じ込めない風潮に学ぼうという意識に立っていたのだが、所詮は口先だけだったかもと、深く反省する◆この本のタイトルに「出でよ!」とあることは重要なポイントである。これまで精神科の患者は病院から「出すな!」が常套句。街中にそうした患者が出ることを嫌がるのが世の常だった。その原因はひとえに、たまさかに起きる犯罪の容疑者にその病を持っているケースが少なくないからだと思われてきた。しかし、それが主因で、大部分の自立出来る患者を、病棟に閉じ込めてしまうことは、まるで〝座敷牢〟の大量生産のようだ。偶々この本を読みだしたところに、旧知の八尋光秀弁護士(C型肝炎訴訟弁護団の中心者)による「精神科の強制入院の課題」上(毎日新聞7-5付け)に出くわした。「とにかく入れておけ ゆがんだ法律」との見出し。「医療保護」という名のもとに、人の成長過程に国家が介入する非を厳しく断罪していた◆山本さんの本は、単に主たるテーマについての蘊蓄が傾けられているだけではない。世事万般に亘る面白くて造詣の深い話が読み取れることは、すでに前2作を手にされた方ならわかるはず。今回は第9部「生きがいを求めて」に集中する。例えば、第27章「不幸・不運・絶望、されど健気に」の中の次の一節は深く考えさせられた。「障害者・健常者のいずれについても、自立が出来ているかを人の評価指標としたらどうだろうと提案したい」とのくだりだ。「自立こそが障害の有無にかかわらず、人生修行の一大目標とするべきであり、支援付きでいいから自立を目指して健気に生きていく姿が人の心を打つことに着目して、『支援付き自立の健気度』をもって幸せの評価基準とする提案」を掲げている。見渡せば、見せかけだけの「自立」、通り一片の「幸せ」にやせ我慢する日常が多い。他人との比較でなく、自己自身の今日よりは明日への前進こそが尊い。文中、「修行」をめぐる僧侶と筆者の問答めいたやりとりの片鱗が窺え、興味深かった。「障害者の修行の方が余程リアル」との表現に大いに「挑発」された。次の機会には、この人の人生をめぐるエッセイ集を読んでみたい。(2023-7-13)

 

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【86】「西部邁」の真相をまわりくどく━保阪正康『Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想』を読む/7-6

この本を読もうと思ったきっかけは、NHKテレビETV特集での保阪正康の『最後の講義』がきっかけ。青年たちを相手に、生真面目にあまりにも真摯に戦争体験を語る姿に胸打たれたからだ。これまで保阪の書くものは読むにつけ息苦しさが先に立ち敬遠することが多かったのだが、この本は西部邁との交遊を回想する形態をとっているということに惹かれた◆西部邁が入水死をしてから5年余り。私は彼の書いた『福澤諭吉 その武士道と愛国心』と『中江兆民 百年の誤解』の2冊に深い感銘を受けた。とりわけ諭吉の『文明論之概略』を誤読した丸山眞男の姿勢を完膚なきまでに論破したその〝訴追力〟には惚れ惚れするものがあった。ということで、誤解されることが多かった西部観の修正を期待した。ついでに「死に至る秘密」を覗き見たくなかったというと嘘になる◆2人は共に少年期を北海道札幌市で過ごした。一つ歳上の西部と保阪は、いわゆる越境入学をした中学校に通う先輩と後輩だった。その当時の学校教育とりわけ教師の問題を縦軸に、年を経て共に著名な思想家となってからの西部への世評を横軸に、2人の交遊が語られていく。その語られ方が今昔交互に登場、中央部分がない十字架のようで、ちょっときっかいでわかりづらいのは否めない◆西部という人物は「怒りっぽく、自分に気に入らぬ言説を吐く人間には徹底的に論破し、噛みつくタイプ」だったことはそれなりに知られている。その背景にかの学生運動における挫折が絡んでいることはある程度分かるものの、最後まで全貌は見えてこない。この本でも西部に対し一貫して畏敬の念を持ち続け、遠慮しがちに付き合ってきた保阪の過剰なまでの配慮がもどかしい。読み終えて、大いに物足りなさが残った。そういえば、タイトルも「Nの廻廊」に「きれぎれの回想」とやっぱり回りくどい。(23-7-6)

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