Monthly Archives: 6月 2023

【85】住まいと老いと品格と──塩野七生『人びとのかたち』を読む❹/6-24

 衣食住──人間が生きていく上で欠かせぬ三大要件は、どれも大事で、重要度の優劣はつけ難い。ただ高年齢になると、食や衣はそれなりに贅沢やおしゃれに挑戦できるものの、住まいばかりは、新築や改造もままならない。テレビや映画で、素敵な家を見るたびに、思うことは多かったが、もはや諦めた。そんな私だが、かつてこの映画を見たときは、大きな家に住むのも考えものだと思わなくもなかった。その映画とは『ローズ家の戦争』。観たのは随分前だが、シャンデリアを空中ブランコのように使って夫婦が争う場面(どっちが襲うか覚えていない)にはたまげた◆ストーリーは大方忘却の彼方なので、説明は端折る。要するに、夫婦喧嘩が高じてそれぞれに思いのこもる豪邸から離れたくなくなった。心は冷え切ったにもかかわらず、離婚もできず家庭内別居ならぬ〝家庭内戦争〟に陥る。まさに壮絶な乱闘が展開され、やがて遂に死に至るというもの。豪邸に住んだものの離婚する羽目になった有名芸能人カップルというのは時々耳にするが、流石に家が「戦場」となったケースは知らない。観終えて、ああ自分ちは狭くて良かったと、皆妙に胸撫で下ろすかも。私のような40代になる直前に7部屋もある家を借金して東京に建てながら、選挙のために流浪の旅に出たまま帰れない人間も珍しい。引退した後も自宅は人様に借りて貰い、自分たちは70代後半になった今も、狭いマンションに仮住まいをし続けているというのだから、これもまた哀れだ◆年老いてからの住まいが私たち夫婦のように、若き日と逆転してみすぼらしくなってくると、自業自得とはいえ、あれこれ〝心の整理〟が必要である。それこそ書斎にぎっしりと揃えた蔵書はとっくに消えてしまった。本は図書館で借りて読むといった生活に慣れると、何だか20代に戻ったようだ。だから、若さ維持に繋がるとは口にするものの、所詮痩せ我慢にすぎないだろう◆老いをあらゆる面から描いた映画といえば、『8月の鯨』。塩野さんはここでも凄く品のある老姉妹に着眼している。今や品格の良い老人には滅多にお目にかからなくなっただけに、この映画は希少価値がある。住まいのありようと、気品は直結せぬと自らに言い聞かせているものの、自信はない。どんなところに住んでいても心には錦を飾っていたいものではある。この映画も是非、ビデオで観て、〝老いの道連れ〟にしたい。前回に続き、塩野七生さん理解のキーワードは「ディグニティ」だという点に、大いに共感を抱く。(この項了 2023-6-24)

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【84】子熊と山猫からの連想━━塩野七生『人びとのかたち』読む❸/6-18

 熊の生息の実態が森の荒廃を占うとの説を掲げる、一般財団法人の顧問になって20年余り。すっかり熊の味方になった、と一般的には思われているに違いない。だが、正直いって熊がそれほど好きだというのではない。私の「熊との共生論」は大いに観念的なものではある。そんな私が、この本の『夢を見ること』に描かれた映画『子熊物語』に嵌ってしまった。未だ映画を観ていないのだが、早急に観て『日本熊森協会』の本当に熊が大好きな仲間たちに知らせ、熊を無用に恐れる人たちへのアプローチを考えたい◆「時に何もかも忘れて夢を見ることは、子供よりも大人に必要だ」との書き出しから、「最後は、互いにくっついて冬眠に入った雄熊とチビを映して終る。外は一面の雪景色」のエンディングまで。夢の世界は現の世界と紙一重。釧路湿原のそばに住む世界的な動物写真家の安藤誠さんが撮った写真や映像は本当に凄い。兄弟グマと思しき2頭が仲睦まじく立ち話をしている場面がいつも甦る。ああいう世界に立ち入れるのは、ひとえに人間の内面に熊と相呼応するものがなければと思う。淡々と描写されていく中で、そっと挿入された若者狩人とチビ熊の交流が熱く胸を打つ◆連想ゲームの様に『パワーと品格と』にある『山猫』が目に飛び込んできた。長きにわたって観たいと思い続けてきた名作映画だが、ついに先日取り溜めたビデオから探し出して観た。シチリアが題材といえば、『ゴッドファーザー』シリーズのように、わかりやすいマフィアものが連想されるが、正直、一回観ただけでは、これはそれほど馴染めず、面白くもなかった。が、塩野さんの謎解きのような解説を通し、なんとなく分かった気にはなった◆彼女は、シチリアを良くするためになぜシチリア人は動かないのかという長年の疑問に対する答えが、映画の中にあったとの記憶から改めて観たようだ。それは、「すべてを変えても所詮は何一つ変わらないという状態は、今ではシチリアの現象ではなく、イタリア南半分の現象になっている」し、「一部の人の情熱では、どうにもならない状態にまできている」からだという。『山猫』に登場する公爵のようなシチリア人が積極的に公務を勤めていたら、と仮定を述べた上で、「品格もパワーの一つに成りえることを忘れていると、社会はたちまち、ジャッカルやハイエナであふれかえることになる」と意味深長な結論で終わっている。イタリアに住んでいると、「(この国をマフィアが)脚部から麻痺させている難病である」ことが強く意識されるに違いない◆20年余り前のことだが、衆議院憲法調査会の一員としてローマに行って、塩野さんに会い、あれこれ話したことがある。その際に、私は偉大なローマ帝国の頃と現代のそれほどでも無いイタリアとの比較論に話を向けた。その時の結論は曖昧だったが、今になって、答えは、この「シチリア不変論と品格との関係」にあるのかも、と忽然と私の脳裡に浮かんできた。これはイタリアだけでなく、日本の今にも当てはまるのではないか、と懸念が高まってくるのは禁じえない。(2023-6-18)

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【83】⑤-5 戦争の総括から逃げ続ける日本━━塩野七生『人びとのかたち』を読む

 

◆映画『地獄の黙示録』をめぐる議論

    塩野七生さんの名作『人びとのかたち』の扉には、「映画鑑賞を読書と同列において 私を育ててくれた 今は亡き父と母に捧げる」とある。これは映画にまつわるエッセイ集なのだが、かねて私は、この本を〝映画のおたから〟のひとつとみなして繰り返し読んできた。全部で48本のエッセイのなかで取り上げられた映画のうち、私自身の興味の赴くところと完全に一致したのが『地獄の黙示録』である。この映画については、作家・立花隆氏の有名な評論がある。『誰もコッポラのメッセージが分かっていない』である。かつて愛読した雑誌『諸君!』に掲載されていた。そこで塩野さんがどう〝分かり具合〟を示してくれているか、固唾を飲む思いで目を凝らして読み進めた。

 だが、結果は見事に外された。立花氏がこだわったカーツ大佐(マーロン・ブランド)については、「その解釈で充分」とだけしか書かれていず、それ以上は触れられていない。ただし、戦時のリーダーとしては「失格にする」とズバリ否定されている。一方、あのロバート・デュバル演じる破天荒な指揮官には好意的な眼差しを向ける。「負傷した部下たちの救出に配慮を忘れないこの男」は、戦の最中にサーフィンまでやらせる「パフォーマンスの名手」だと。神学論争になりがちな後半部分の解釈については、さらりとかわして、得意な「リーダー論」に持ち込む手際は、さすがという他ない。

 塩野さんは、随所でメリハリの利いた人物論を繰り出す。まさに小気味いい。グレタ・ガルボについての「スター」の一文が目を惹く。ここでは「実像と虚像」を巧みに論じる。〝スターは虚像〟の存在であって、〝実像〟を暴き出そうと、熱意を燃やす普通の人の努力は無駄であると、明解きわまりない。創造する側に、「虚像と実像の区別など存在しない」と断じつつ。で、実像は「その人が生まれつき持っていたものにすぎない」のだが、虚像は才能と、努力と運の結晶」だといわれる。ここまで読み、私は「作家って嘘つきでないと務まらない」との持論を思いだした。塩野さんはこの辺りについて「実を越えうるのは、虚しかない。偉大な虚のみが、現実を越えて生きつづけることができる」と述べている。この結語で、ようやく自分の勘違いを気づくに至った。その昔、ある著名な作家に持論を述べてしまった際のことだ。ひと呼吸あってからの彼の「そうですねぇ」との合意は、「虚の効用」を知らない凡愚な私を慮っての優しさだった、のだと。

◆いかなる戦争でも本質は変わらない

 塩野さんの代表作はなんと言っても『ローマ人の物語』全15巻だが、その物語の骨格は「戦争」である。私は、2000年も前のことをよくもまあ、見てきたようにお書きになるものだなあと、疑問に思ってきた。その辺りについての答えを「戦争」の章に発見した。昔も今も戦争をめぐる違いは、「相対的」であり、「(戦争それ自体は)歳月に関係なくヒューマン・ファクターに左右される」と述べている。その上で、❶マスコミの伝える戦力表示のいい加減さ❷湾岸戦争はベトナム化しない❸シビリアンコントロールは金科玉条ではない──との3つを考えたと述べていて興味深い。時代が変わろうが、人間のやることだから、人間観察さえしっかりしておれば、どんな「戦争」でも、本質は変わらず、その推移は見抜けるということだ、と。分かりやすく納得させられた。

 この章でのハイライトは、『反省という行為』に登場する映画『八月の狂詩曲』である。主題は「原爆」。ここで塩野さんが問題にしているのは、「四十代五十代の日本人が戦中戦後の日本に面と向かわない」ことである。原爆はその象徴だろう。「経済以外のことから、逃げに逃げてきた50年だった」という。この人は「もうそろそろ、第二次世界大戦の総括という形で、顔を見せてはどうであろうか」と問題提起し「厳密な客観性で、あらゆる資料を集めて、整理し、まとめること」を主張する。黒澤明監督ただひとりだけが原爆について発言したと、この映画を高く評価してやまない。私も塩野さんと同様に、これまでの日本を恥ずかしいと思うひとりである。残念ながら、この本が世に出てより30年が経とうとしているが、日本は未だ逃げ続けている。G7の首脳たちに『平和記念資料館』を見てもらったと喜んで済ませている場合ではないのである。

【他生のご縁 ローマでの見事な肩透かし】

 衆議院憲法調査会の一員として中山太郎同会長団長とする一行と一緒にイタリアを訪れた際に塩野さんにお会いし懇談しました。開口一番、日本の国会議員の皆さんがわざわざローマに来られて、私に憲法について話せとは、またどういうことでしょう、と。何とも複雑な思いにとらわれたものでした。

 お別れする際に玄関まで見送った私は、日本人男性には『ローマ人の物語』を愛読する人が多いですが、女性は須賀敦子さんの愛読者が多いようですね、と妙なところで「女流作家比較論」を繰り出したのです。これには、「私ももっと須賀さんに見倣わないといけませんねぇ」と応答。見事な肩透かしを食らってしまいました。

 

 

 

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【82】「コッポラのメッセージ」異聞──塩野七生『人びとのかたち』を読む❶/6-4

 塩野七生さんの名作『人びとのかたち』──この本の扉には、「映画鑑賞を読書と同列において 私を育ててくれた 今は亡き父と母に捧げる」とある。これは映画にまつわるエッセイ集なのだが、かねて私は、この本を〝映画のおたから〟のひとつとみなし繰り返し読んできた。全部で48本のエッセイの中で取り上げられた映画のうち、私自身の興味の赴くところと完全に一致したのが『地獄の黙示録』である。この映画については、少し前に亡くなった立花隆氏の有名な評論がある。『誰もコッポラのメッセージが分かっていない』である。かつて愛読した雑誌『諸君!』に掲載された。そこで塩野さんがどう〝分かり具合〟を示してくれているか、固唾を飲みつつ目を凝らして読んだ。だが、見事に外された。立花氏がこだわったカーツ大佐(マーロン・ブランド)については「その解釈で充分」とだけ。それ以上は触れられていない。ただし、戦時のリーダーとしては「失格にする」とズバリ否定。一方、あのロバート・デュバル演じる指揮官には好意的な眼差しを向ける。「負傷した部下たちの救出に配慮を忘れないこの男」は、戦の最中にサーフィンまでやらせる「パフォーマンスの名手」だと。神学論争になりがちな後半部分の解釈については、さらりとかわして、「リーダー論」に持ち込む手際は、さすがという他ない◆塩野さんは、随所でメリハリの利いた人物評を繰り出す。まさに小気味ばかりだ。グレタ・ガルボについての「スター」の一文が目を惹く。ここでは「実像と虚像」を巧みに論じる。〝スターは虚像〟の存在であって、〝実像〟を暴き出そうと、熱意を燃やす普通の人の努力は無駄であると明解きわまりない。創造する側に、「虚像と実像の区別など存在しない」と断じつつ。で、実像は「その人が生まれつきもっていたものにすぎない」のだが、虚像は「才能と、努力と運の結晶」だといわれる。ここまで読み、私がある有名な芥川作家の自宅に行った時に「作家って嘘つきでないと務まらないですよね」と、投げつけた言葉を思い起こす。いらい今日まで、作家の壮大な「結晶」をして〝嘘つきの所産〟と決めつけたことを後悔し続けてきたが、「実を越えうるのは、虚しかない。偉大な虚のみが、現実を越えて生きつづけることができる」との塩野さんの結語で、ようやく納得するに至った。あの時、芥川作家の、しばし呼吸をおいてからの「そうですねぇ」との同意は、「虚の効用」を知らない凡愚な私の身を慮っての優しさだった、と◆(この稿83号と一体化させています)

 

 

 

 

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