Monthly Archives: 11月 2016

(189)燃えて生きた思い出だけが命に刻印ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➃

生きている人間の体を構成する細胞が瞬時、新たに生まれたり、死んだりを繰り返しているとの科学的事実は凡愚の身においてさえ想像を膨らましてくれる。夜中に目が覚めてしまい、その後なかなか寝付かれないことがしばしばあるが、そういう時はやはり後ろ向きな考えに陥りがち。一方、早朝のウオーキングの際などは沸々とやる気が充満して来る。これって生の細胞と死にゆく細胞の比率に関係するのか、などと思ったりしてしまう。今の一瞬に死を覚悟する生き方をせねば、ということをわが身に言い聞かせる一方、生きて生きて生き抜こうと不老長寿を祈って見たりする。あい矛盾するこの姿勢の共存も細胞の生死に無縁ではないのかもしれない▼先日、ドイツから友人夫妻(日本人)が新たなドイツ人の友二人を伴って来日された。姫路城天守閣に登城したあと、西隣にある好古園に誘った。奥の方にある入口に入った瞬間、赤く燃えたつような紅葉が目に入り、みな思わず「おーっ」「素晴らしい」と声を上げた。一本だけだが見事に紅葉したモミジの木が遠来の友を出迎えてくれた。北陸路から京都、広島を経ての彼らの紅葉狩りの旅路の果てに出くわした姫路のモミジの歓迎ぶり。長く記憶にとどめて頂くようカメラのシャッターを切った。今朝ほども、その庭園からほど近い「千姫の小径」なる堀端を歩くと、幾本ものモミジが見事に紅葉しているのを発見した。カメラを向けている通りがかりの人と「本当にきれいですね」と言葉を交わし、お互いほっこりした気分に浸ったものだ▼我が人生の師・池田大作先生は写真においても卓越した能力の持ち主だが、先日も見事な紅葉の姿とともに、万人の詩心をとらえて離さない言葉を私たちに下さった。「燃えて生きたその刻(とき)だけが色褪せぬ今生人界の思い出となる」と。我が誕生月である11月が来るたびに思うのは、「この一年、燃えて生きてきたか」との自らへの問いかけだ。年々歳々出会う人も直面する仕事も違ってきているが、向き合う姿勢には、わくわくとしたり、燃えるというよりも、よく言えば淡々とこなす、厳しくみればやり過ごすという感が強い。気になる新聞記事やら映像場面やらを、切り抜いたり録画をしたりしても、頭に叩き込むことなく結局は棚ざらしの末に廃棄してしまいがちなことが多い。この人生の思い出となるような明確に命に刻印する生き方をせねばとの思いだけが空回りする▼昨日、志村勝之氏と夕刻から姫路で懇談する機会を持った。定年後のほぼ10年、臨床心理士として日々具体的な心のやまいや悩みを持つ人々と向き合う彼の姿はまぶしいほどに光っていた。彼の個人的な課題(いわゆる悩みめいたもの)はブログを通じて熟知しているのだが、それを包み込む大らかさに感嘆するばかりだった。当方は、衆議院議員を辞してちょうど4年。大学なら卒業の時だし、”石の上に坐る”時期も1年を超えた。日々多くの友との語らいをわが身に課し、新たな仕事に情熱を込めてはいるものの、まだまだ激しく燃えるところまでは至っていない。今日11月18日は、創価学会創立記念日だ。2年後に目標を定め、燃え上がる気概で大いなる出発をしていきたいと心に誓う。(=この章はこれで終わり。次回以降は「忙中本あり」のコーナーから「後の祭り回走記」に移します。2016・11・18)

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(188)没頭できるものを持つ大事さー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➂

先日、NHK総合テレビの『プロフェショナル・仕事の流儀』を観ていて大いに考えさせられた。介護ホームを経営する40代の男性の、要介護者の側に徹して立つ仕事ぶり(大概の介護ホーム経営者とはこの人とはかなり違う)と、そこで暮らす何人かの要介護者の前向きな暮らしぶり(大概のひとは後ろ向きに陥りやすい)とが強く印象に残った。後ろから前へと、向きが変わるきっかけは、実はそのひとが”得意とする手作業”をしたことだった。一言でいえば、老化に抗する力は、「腕に覚えがあるかないか」がカギを握ると思った次第である。老化の果てに自分を失い、その極致としてのいわゆる「痴呆症」(今は「認知症」といわないと差別用語。だが、個人的にこっちが分かり易いのであえて使っている)になってしまう危険を救うのは、そのひとをそのひとたらしめている「得意技」を生かすことだ、という風に思わせられた(ということは「得意技」をもたないと危ういことでもある)▼男性の平均寿命が80歳、女性が86歳代といったように長寿が当たり前になってきた今日、老化とうまく付き合う方法が極めて大事になってきた。男性の場合、勤め人生活を終えて定年退職になってからのほぼ20年ほどの間における身の振り方が文字通り死命を決する。”会社人間”であった人ほど、志村氏がいう「志事期」をうまく乗り切れずに、茫然自失してしまいかねない。会社からの解放なのだから、本来はより元気にならねばならないのだが逆の場合が少なくない。女性の場合、特に専業主婦などで、夫が亡くなると、よりきれいになり、生き生きするひとが多いといわれるが、これは「圧政(圧性)からの解放」に成功したケースなのかもしれない▼男も女も死に至る前の一定期間を充実させるには、「得意技」をどう磨くか、あるいは新たに身に付けるかだと思うが、磨き方をめぐって私は生きたモデルが二人いると思う。一人は医師の日野原重明さん、今一人は書道家の篠田桃紅さんだ。共に百歳を有に超えておられるが、ますます盛んなお姿は、「現代日本の老人たちの英雄」に違いないとさえ思われる。このお二人は先年対談をされていたのをNHK総合テレビで観たが、色んな意味で対照的だった。片や理性のひと。方や感性のひと。日野原さんは数年先の日程まで、ことこまかに予定表に書き込んでいる。その歳にして今なお未来に生きる感じだった。篠田さんは明日の予定も書かないし、一向気にもしない風情。ひたすら今に生きるという姿が際立っていた。ともあれお二人は対照的に見えた▼お二人に共通するのは過去を見ないということだろうか。私はかねて物事に集中する時間を多く持つと、そのことに費やした時間はあとで帰って来るに違いないのではないかの仮説を持っている。つまり、我を忘れて没頭した時間は、あとでご褒美として天は恵んで下さる、と言った風に。逆にぼーっとして過ごすとそのひとの持ち時間は削られてしまう、というように。これって全く根拠はなく、思いつきのでたらめなんだが、秘められた確信としてわが体内に宿っている。古今東西の芸術家や優れた科学者らを見ていると、何やら時間を超越した存在が多く、そんな感じがしてならないのである。(2016・11・13)

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(187)様々なる老いの実態ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➁

「老化」について志村氏は二つの側面から紹介し、その実態に迫っている。一つは「心理学的老化物語論」で、老いの「価値・意味・アイデンティティ」を基軸としたものだ。精神科医の神谷美恵子さんの『こころの旅』や心理学者の平山正実氏の『ライフサイクルから見た老いの実相』の中から引用しながら、いずれも「老い」を「美しくまとめようとする」無意識下の共通点を感じるという。二つは、「科学的老化物語論」で、「人間の一生は遺伝的にプログラムされているものの、現実の個々の人生はひとさまざま」だというもの。動物行動学者のデズモンド・エリスの『年齢の本』を紹介しつつ、ひたすら楽しいものだとの彼の受けた好印象ぶりが読む側に伝わって来る。ひとというものは若い頃には、誰しも「老い」に対して、ある種の美化した観念を持ちたがるものだが、やがてそれなりの歳になるとその考えを遠ざけたくなるということではないかと思われる▼この『年齢の本』をここでも紹介したいとの欲望に駆られるが、彼が孫引きしたものをここで引っ張ると、ひ孫引きになるのでやめておく。論語における「30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る、60にして耳に従う。70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」などといった孔子発のことわざよりとても面白いとだけ。ひとはいにしえの昔より「不老長寿」を夢見て、ありとあらゆる挑戦を繰り返してきた。尤も、最近はいささか違った傾向にある。ひとはあたかも死なないものと思い込んでいるかのごときひとが多いのである。私が厚生労働省に勤めた一年の間に、75歳を「後期高齢者」と位置付けたことで大変な抗議を受けた。75歳過ぎたら死ねということか、と。死への準備をしようと問題提起しただけなのに▼「老化」は、科学的見地からは「細胞」と「個体」の両面から考えらえている。志村氏は、田沼靖一『ヒトはどうして老いるのか』から引用をしながら説明を加えている。いわく、細胞の老化は、プログラム学説、エラー蓄積説、体細胞廃棄説との三つがあるが、三番目のものが最も有力だと。このくだりは丁寧な説明が繰り返されているが、何度読んでも私にはよくわからない。それよりも個体の老化は分かり易い。「老化とは、運動能力、繁殖能力や生理的能力が加齢とともに衰えてゆくこと」であるというのだから▼人間の身体における細胞をめぐっては、「私たちのからだの設計図である遺伝子=DNAは、受精卵から約50回もの細胞分裂を繰り返して、約60兆もの細胞となって私たちのからだを作る」というのだが、その仕組みなど、この歳になるまでいくら聞かされてもわからない。ぼんやりと理解するに至っているのは、わが体内の細胞は瞬時生き死にを繰り返しており、何年か経つと全ての細胞が入れ替わっているということぐらい。では、別人になってるかというと勿論そうではない。それぞれの細胞に同型のDNAが刻印されているからだろう。若い時には、細胞が入れ替わるのだから、今日の自分は昨日の自分に非ず、などと発奮の材料に使っていたものだが、老いて来るとそうはいかない。頑張り過ぎて細胞がすりへってしまわないようになどと、わけのわからない自制することぐらいが関の山なのである。
(2016・11・9)

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(186)老化現象をめぐる個人差ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➀

志村勝之氏の「こんな死に方をしてみたい!」の第二章は、「老化論」である。「生老病死」というひとの一生における、「老と病」は通常順序良くいけば、老いて病となり死に至るというわけだが、ひとによっては、死に至るほどの病が先に来ることもある。かくいう私など22歳にして肺結核を病んで以来、「生病老死」の順で進んできているようだ。彼は70歳になった現在の自分自身の老いにまつわる諸現象を具体的に語る一方、様々な学者や識者の「老い」についての学説を紹介しており、なかなかに興味深い▼「老化現象」をめぐっては、当然のことながらかなり個人差があるように思われる。たとえば彼は眼について、老眼がもたらす不都合を嘆いているが、同い年の私は殆ど気にならない。私は近眼だからだ。早くしてメガネをかけざるを得ず、数多の苦労をしたがゆえか、老いて天は恵みを与えたもうた。近くはいくらでもメガネなしに見えるのだ。本や新聞を読むのにメガネを必要とするひとはひたすら気の毒に思う。また、私は左耳がかなり若い時から聴こえにくい。左側から話しかけられると聞こえず、苦労することが若き日より多かった。しかし、片方しか聞こえないというのは、寝るときに聞こえる方を下にして、つまり横になって寝ると、煩い音が聞こえずによく眠ることが出来るという利点がある。さらに、24歳頃にぎっくり腰を患った私は、ありとあらゆる対症療法をやった挙句に、ストレッチや糖尿病のおかげでやせたうえに運動を日課にしたためか、60歳を過ぎてピタリと腰痛とおさらばできた。恐らくこれから年を経ても腰痛との付き合い方が解ってる分、腰の老いは遅く来るものと思われる▼まだまだ私の体の不都合を挙げるときりがないが、このように、若くして「病」を持った人間は、老いて得をすることもある。少なくとも、あれこれと折り合いのつけ方を知るに至っているから面白い。健康一筋で老いたひとよりも、大げさに言うと満身創痍の方が「老化」を意識するのが遅いのではないか。尤も、喜ぶのはまだ早い。私など肺結核の最中に人生の師から「僕の青春も病魔との闘いであり、それが転じて黄金の青春日記となった。君も頑張ってくれ、君自身のために、一切の未来のために」との揮毫を頂き、感涙にむせび、命の底から発奮したものだが、病魔との闘いはいつなんどき再発するかも知れないからである▼志村氏は、私のような基本的には脳天気でアバウトな人間と違って、「老化」を感じるに当たって、「細胞」にまでその思いを至らせるから凄い。鼻の下の皮膚の隆起から、「皮膚細胞」の衰えだけではなく、脳内の「神経細胞」の衰えを意識するというのだ。自然科学の分野における「老化学説」は「老化学者の数だけある」と言われており、まだまだ定説を持つに至っていず発展途上にある、とも。さらに、心理学者の多くは「老化」というより、「老い」の「意味」や「価値」や「アイデンティティ」を一元的に追い求めることにおいて一致しているとする。つまり、ひとはなにゆえに、またいかにして老いるのかというテーマについて、自然科学における捉え方は千差万別でバラバラだが、心理学の分野では方向は一致しているというのだ。なんだかぐいぐいとひきこまれていくではないか。(2016・11・7)

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(185)冷徹な策謀家と無私なひとの二面性ー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➂

第二章で著者は西郷と島津斉彬との関係に焦点を絞る。斉彬は薩摩の10代藩主斉興の長男。異母兄弟で五男にあたるのが久光。斉興は42年もの長きにわたり藩主の座を譲らず、しかもその座を長男・斉彬ではなく、側室お由羅の子・久光に渡そうとしたことからお家騒動に。これが世にいうお由羅騒動と言われるものだが、世代間抗争の側面も持つ。すったもんだの挙句に結局は斉彬が家督を継いだが、比較的早くに亡くなり、結局は久光が登場する。西郷は斉彬を慕い、師事していたためもあり、久光とは全くそりが合わず、徹底して二人の関係は悪い状態で推移する。西郷は生涯を通じて久光との関係に悩まされ続けることになる▼西郷の持つ二つの二面性についても興味深い。一つは、冷徹な策謀家という”悪のイメージ”と、徹底した無私のひとという”善のイメージ”の二面性である。前者は赤報隊というテロ組織的なるものを作ったうえで、幕府を挑発し、鳥羽伏見の戦いを引き起こして戊辰戦争の発端を開かせたことに起因する。後者は、明治新政府の腐敗とその中心者らの権力欲を憎悪しぬいたところが背景にあろう。こうした二面性は歴史上の人物には付きまといがち。最初から最後まで善悪どちらかの色彩が強いというひとは意外に少ないかも。西郷は薩摩独特の郷中という若衆システムの中で育ち、薩摩弁で「大概」という意味を持つ鷹揚さでひとを惹きつけた側面が強い。著者は、最終的に故郷の若者たちに徹して求められたことが彼の人生の波乱万丈の秘密を解くカギになるというのだが▼私はもう一つの二面性に惹かれる。彼の人生を貫く強者のイメージとは反対に、優しい弱者の側面があることだ。最大のものは僧・月照と一緒に錦江湾で入水しようとしたこと。坊さんと海に飛び込んで心中するなどということはおよそ彼の全体的な人間像からは異質に見える。また、島に流された際に現地妻を娶り、後々まで、その睦まじさを語られることなども、いささか彼らしくないと思ってしまうのはこちらの僻目であろうか。こうしたエピソードがもたらすものは、弱者イメージというよりも強運の持ち主というべきことかもしれないのだが▼著者は西郷をして”ただのひと”であることを立証しようとしてかなり苦労している風が見て取れなくもない。その最大のものは、もともと西郷が斉彬の「使い走り」(パシリ)から出発して、後々の地位を得たことを強調していることだ。様々な人脈を知り得るきっかけとなったのはあくまで主君のおかげだということを指摘したいようである。尤も、これとて彼だけに特徴づけられることではなく、大なり小なり誰にでも見いだされることで、そうだからといって西郷を特に低く見ることには無理があるように思われる。これなど政治家の秘書をしてから、その道に入った私など「パシリ」の端くれであるだけに、大いに「それがどうした」といいたくなったのには我ながら苦笑いしてしまう。(2016・11・1)

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