本屋に行くと思わぬ出会いがある。東京に行った際に覗いた丸善でパリ第八大学准教授・小坂井敏晶氏の『社会心理学講義』を発見した。この著者については、畏友・志村勝之君(私がなにわのカリスマ臨床心理士と命名)からその鋭さを聞いていたこともあり、ライフネットの出口治明氏の推薦の言葉にも動かされ、直ちに読むことにした。選挙前に購入したこともあって、未だ読み終えていないものの、あれこれと刺激を受けている。アルジェリアに長く住んでいたというこの人の体験そのものがユニークだが、自分の頭で考えるということに、とことんこだわってるところが魅力的である。若い学者から「科学が実験データを基に解釈するように、テクストの解釈が哲学者の仕事だ」と言われて唖然としたり、日本の学者や学生から「何を研究しているのかではなく、誰を研究しているのか」と聞かれて当惑したと「あとがき」に書いている。「あなたにとって、主体とは、時間とは、責任とは何なのか。これらの問いに対して、あなたはどうアプローチして、どのような答えを出すのか。本当に大切なのはそれだけです」。このくだりは当たり前のことを言っているのだが、正直難しい。言い換えれば、解説書の類いではなく、原典、古典に当たれということだ。ややもすれば、わたしたちは様々な解説書めいたものを読んで分かった風に思ってしまいがち。心せねばならない▼そんな小坂井氏が、自分の立ち位置がわからなくなると何度も繙いて読み直すのは「高橋和巳だけ」だという。この書きっぷりにころりと私は嵌ってしまった。全共闘世代と安保世代の中間に位置する私の学生時代はいかにも騒々しかった。ほぼ50年前。その頃、一世風靡した代表的作家が高橋和巳だった。共産主義や社会主義の類いが体質的に合わなかったというしかない私には彼の一連の著作は流行のよすがとして、ざっと読む程度ですませ、ひたすらに宗教活動に邁進したものであった。それがこの歳になってなぜ改めて再読吟味する気になったのか。小坂井氏が引用している以下の文章を読んだのがきっかけだった。「人の解決を盗むのはやさしい。(中略)だが、『思うとは自分のどたまで思うこと』を日本人はまず肝に銘じなければならぬ。でなければ日本人はかつて中国に内面的に従属し、今またヨーロッパに追従するように、永遠に利口な猿となりはてるであろう」。この一節こそ高橋の代表作『邪宗門』からのものである。文庫本上下二巻1000頁にも及ぶ長編小説。明らかに大本教をモデルにして著者が自在に創造の羽を広げた大作であるが、人生の半ば以上を宗教と共に歩み、政治家として駆け抜けた人間にとって、まことにあれこれと考えさせられる中身であった▼大学時代の私は法華経を書物で、そして身体で読んだものだ。当時の一般的な大学生の常識とはかなりかけ離れたものだった。ろくすっぽ大学に行かずに、首都圏各地を西に東に、北や南へと転戦した。昭和40年代前半。胎動する学園紛争を尻目に、深く体内に法華経を根付かせるべく、自分なりの活動に汗をかいた。そういう私には、この本で描かれる宗教的世界は文字通り「邪宗教」的なるものに見え、殆ど体質的に受けいれることが出来なかった。しかし50年の歳月を経て、法華経を思想的にも生命論的にも取り入れた結果として、今改めて読むと実に面白く読めた。高橋和巳は、あとがきにおいてこの小説を書くに至った発想のきっかけを「日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世直し>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった」としている。そう、当時こそ<世直し>の気分華やかなる時代であった。私が大学入学前に創価学会に入会したことを、数か月後に知った親父は、「そうか。もう入ったのか。お前を東京の大学にやると、共産党か新興宗教のどちらかにはいるのではないかと恐れていたが、もう入ったのか」と嘆いたものであった。だが、<世直し>運動を表面的な活動としてだけ捉えるのではなく、まずは人間そのものを革命するという「人間革命」の思想に、私が触れたことは幸い(ほぼ十年後に親父も入会)であった。<世直し>の前提としての<人直し>の思想としての法華経を体内に沈潜させることに邁進できたからである。小坂井氏が高橋和巳を礼賛するのはその「思考実験」のユニークさと徹底ぶりにあると思われる。人の考えたものを受け売りするのではなく、自分の頭で考えるその姿勢に、である▶また、同書の解説を担当している佐藤優氏は「日本が世界に誇ることができるスケールの大きい知識人」であるとの高橋和巳への認識を示すとともに、この本が、「世界文学としての価値を主張できる」と高く評価している。更に世界で現在起きている見えにくい現実の内在的論理を理解するためにも役に立つとも。だが、一方で、彼は「『世直し』の先をもたない宗教は、結局のところ権力を志向するイデオロギーに堕してしまう」し、「世直しに失敗した場合には、自己解体すなわち自殺というシナリオしか残されていない」(『功利主義者の読書術』)と述べ、高橋和巳が破滅の道を歩むしかなかったことを惜しんでいる。加えて「<世直し>型の政治が必ず陥る閉塞状況を見事に表現した作品として、現在も命を持っている」と、地に足をつけた適切な評価を加えている。フランスで学者の道を歩みつつ、出版を通じて現代日本人に真の生き方を問い続ける小坂井氏。一方、ロシアを専門とする外交官を経て、キリスト教信者の眼差しで創価学会SGI運動に深い関心を寄せ続ける佐藤氏。二人の今を生きる知識人の二つの「高橋和巳論」を読み、大いに知的興味を満喫出来た。以上、本の中身には触れずじまい。皆さん直接お楽しみください。とりわけ上がとても面白い。(2017・10・29)
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(229)「奇怪な妄想」の持つ異様な迫力ーカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳)を読む
今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏のことを恥ずかしながら殆ど知らなかった。映画化された作品もあるというのに。慌てて本屋に行ったものの在庫はなく、辛うじて『わたしを離さないで』が一冊だけ残っていた。選挙戦に入り、何度か足を運んだ大阪への行きかえりの車中で読むに至った。結果的にこの本を彼の作品の中で最初に手にしたことは幸せだったかもしれない。日本人の両親のもとに長崎で生まれて後に、5歳で英国に渡って以後、そこを離れたことがないという著者の生い立ち。この本は、そうした彼の人的背景の影響をあれこれと詮索する必要はなく、普遍的なテーマに迫るものだからである。「クローン人間と臓器移植」という極めて重いテーマに真っ向から挑む「実験的小説」との色合いについては、ノーベル賞作家に相応しいものと云えよう。ともあれ、総選挙という生臭い俗事からしばし離れて、未来に横たわる人類の重要課題に目を向けさせられ、幾分か高尚な気分になったように思われる▼このテーマについては、実は現役時代に向き合うことがあった。衆議院憲法調査会の一員として憲法改正をめぐる議論に参画した際に、否応なく考えざるを得なかった。当時同調査会の会長であり、元小児科医だった中山太郎氏の口から、将来の憲法にはこのテーマについて記す必要があるとの意見を幾度か聴いた。現行憲法が用意していないテーマを新しい憲法には書き加える必要があるとの観点だったと記憶する。恐らく2005年に発表されて以来、世界的ベストセラーになっていたこの本を読んでいたであろう同僚議員からも、そうした主張がなされていた。ただし、かつて臓器移植法をめぐる議論の際に、自らに近い生命の存続をもたらすために他人の生命の終りを待望することに私は疑問を抱き続けた。そして同時に臓器それ自体にも個人のDNAが色濃く反映しているものを、他の生命体に移すことに大いなる疑問を持ち、当時、政党の縛りがなく個人の判断にゆだねられた採決に、反対票を投じたものであった。しかし、あれから10年を超す歳月の中で、いかにそうした自分の考えが現実の要請と遠いものかを知る機会もままあったことを正直に告白する▶この小説がベストセラーになった背景の一つは、ある意味で推理小説仕立てであること無縁ではないと思われる。英米文学研究者の柴田元幸氏がその解説で、内容を述べることを避ける理由について、「作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。予備知識は少なければ少ないほどよい」と思わせぶりに書いている。不幸なことに私は重要な一点を知ってしまってから読んだ。であるがゆえにも関わらずというべきであろうか、なかなか核心に迫ってこないように思える記述は、闇夜に道に落ちたものを探すかのように、もどかしいものではあった。途中三分の一くらいのところでようやくことの秘密の一端が明かされるのだが、またすっと元の記述に戻ってしまい、なんだか手に入れた落とし物を再び亡くしたかのような錯覚に陥る▶クローン人間がどのように作られるかには触れられず、臓器移植についても具体的な記述は一切ない。すべては想像力に委ねられている。遠からずこうしたことが現実になるのかどうかはわからない。AIが話題になり、ロボットが人間にとって代わることはもはや現実の射程に入っているかに見えていることからすると、このテーマは遠い。いや、わたし的には現実のものとさせないためにこそ著者はこれを書いたと思いたい。この先遺伝子工学がどんなに進もうとも、してはならないこと、あってはならないことについて、著者が創造力の限りを尽くして挑んだのだ、と。つまり、これはまた「カズオ・イシグロ自身の頭の中で醸造された奇怪な妄想」(柴田氏)である、と考える。(2017・10・24)
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