看板に偽りあり──この本の第4章(最終章)は、「戦争を終わらせた後の世界に向けて」がタイトルであるが、これにはいささか驚いた。『戦争はどうすれば終わるか?』という本のタイトルを信じて読み進めてきたのに、ゴール前に、いきなり「終わらせた後」が来るっていうのは、はぐらかされたみたいに思われる。尤も、「自衛隊を活かす会」事務局は、当初はウクライナ戦争をどう終わらせるかに、問題意識はあったものの、「議論を始めてみると、終わらせる対象の戦争というものをどう捉えるかを抜きにしては、個別の戦争の終わらせ方も論じられないことが見えてきた」と正直に「断り」を入れている。加えて「ガザの人道危機」も遅れて起こった。要するに、当初の狙い通りにはことは運ばず、看板はそのままにして、つまり答えは棚上げにして、いつ終わるともしれない「戦争後の世界」を4人に寄稿して貰ったというかたちに変更しているのだ。読者としては不満だが、著者たちの苦悩を推察して、「ま、いっか」という他ない◆ところが、現実には4人の寄稿は精一杯終わらせ方へのアプローチをも率直に「難しい」と逃げずに言及している。事務局としてはあらかじめ防御壁を張っておいたということなのだろう。伊勢﨑さんは「戦争は避けられない人間の性だと認めざるを得ないのが現実」と述べた上で、「世界を巻き込むふたつの大きな戦争が進行する現在、〝正義〟を言い募る言説空間が荒れ狂う中で、今ほど停戦を求める言説空間が必要な時はない」と律儀に訴える。加藤さんは、停戦、解決に向けて「現実空間において、どちらか一方あるいは双方が、戦闘の意志と能力のいずれか一方、あるいは両方を失うこと、そして言説空間においては現在の対立を止揚する新たな言説、すなわち新たなシステムを構成する統制的理念とそれに基づくシステムの構築が必要」という。難しい言い回しでわかりにくいが、「停戦、解決が非常に困難になっている」ことと大差はない◆さらに林さんは、「中国がプーチンの戦争の停戦、あるいは終戦に向けてどのように動くか30年戦争(1618-1648年)の示唆を強く意識する」として、習近平が仲介の適役であるという「牽強付会」をひとり大胆に試みている。柳澤さんはウクライナ戦争について「(ウクライナは)異国に支配され、抑圧される状態を平和とは言えない。さりとて、果てしない殺戮を止めたい気持ちもある。だから停戦は難しく、平和はなお難しい」「ただ平和を叫ぶだけでは、多分、平和の力にはならない」と、当然すぎることを述べる。一方パレスチナの事態についても「『テロとの戦い』や、『国の自衛権』といった既存の概念で理解しようとしても理解できない」し、「武力で殲滅しても、パレスチナの人々が追い込まれた状況が変わらなければ問題が解決しないことは分かりきっている」と、結局は、「こうして、あらためて自分の知恵の足りなさを思い知らされている日々です」と、正直に白旗を掲げている◆以上、4人の筆者たちの長広舌を部分的に勝手に切りとって、ご本人たちには不本意なことを敢えて承知の上で、戦争の終わらせ方についての言及部分を並べてみた。敢えて整理すると、現実空間に関わる具体的見立ては、唯一、林さんの習近平の仲介役への期待だけ。一方、伊勢﨑、加藤のお2人は、現実空間をひっくり返すぐらいの強烈な新たな言説空間を構築せよと言っている風に読み取れる。戦争終焉への国際的世論の高まりへの期待である。さて、〝この本からの学び〟をまとめてみて思うことは、日本での2つの戦争への関心はいたって弱く、停戦、休戦への世論のうねりは極めて弱いように思われる。最後の最後に、柳澤さんが「自衛隊と戦争との関係」に触れて、「自衛隊が進んで戦争を求めることはないし、あってはならない。それは政治が決めるべきこと」であり、その政治の選択は国民に跳ね返ってくるのだから、「一国民として戦争とは何かを考える」と結んでいる。この本の企画者としての本心である。東アジアに戦争事態が起こった際にどうなるのか。どうすべきか。戦争を決める政治の世界に今も関わる身として、与党・公明党に「非戦の安全保障」に十分なる備えと覚悟があることを強く期待する一方、一人ひとりの国民が自らの考えをしっかりめぐらせようと訴えたい。(2024-4-20 この項終わる)