これまで3回にわたって『古事記』をめぐる様々な思いを綴ってきたが、今回締めくくるにあたって画期的な本を紹介したい。村瀬学『徹底検証 古事記』である。この本と出会わなければ、古事記を誤解したまま終わったかもしれないとの印象は強い。
古事記を読んでも正直に言って良く分からない、との読後感は多くの人が持つはず。日本最古の物語であってみればそれも仕方ないか、と私も思いつつ、それにしてもとの割り切れぬ感情は否定しきれなかった。それが村瀬学氏の検証に付き合ってみてかなり腑に落ちた。まさに目からうろこだ。
副題に「すり替えの物語を読み解く」とある。古事記は「日・光の神々」のお話として語り継がれてきたというのが一般的であり、常識ですらある。しかし、著者は、それを真っ向から否定し、「火・鉄の神々」の物語だという。本居宣長いらいのあまたの研究者はどう反論するのだろうか。
「古事記は鉄の物語である」との断定は、唐突なものではない。古事記の神話編を貫く語り方には、「神話の世界そのものを『修理固め』として提示するという前提」があるとは知らなかった。この見方が多くの研究者の間の共有事項だという。しかし、そうでありながら、誰もが「稲作の物語」であることに疑いを差し挟もうとはしてこなかった。そこにこの著者は喧嘩を仕掛けている。
西郷信綱や三浦佑之といった名だたるこの道の専門家が滅多切りされている。とりわけ西郷には厳しい。随所で「優柔不断な注釈である」とか「書き写していても恥ずかしいところである」など、と。「はじめに」で、西郷信綱の『古事記注釈』には「私のこの論考もあり得ないほどの決定的なお世話になっている」と述べておりながら、である。古事記を「瑞穂の国」誕生のシナリオ通りに解釈する、という旧来的な読み方のモデルとして西郷を血祭りにあげているわけだ。
鉄の神が日の神にすり替えられたとはどういうことか。例を挙げる。イザナギが「あなたの身はどんなふうになっているのか」とたずねると、イザナミは「私の身にはまだ足らない部分があります」と答えたー「成り成りて成り合はぬ処」と「成り成りて成り余れる処」の件だ。ここはいわゆる男と女の性交をユーモアを交えて語っているとの要約が通常だろう。しかし、これは、銅鐸などの鋳造の場面を比喩的に語っているという。「凸として準備された鋳型と凹として準備された鋳型を合わせて、その間に溶けた金属を流し込む」場面なのだ、と。子作りと、鉄づくりとの類似性とは、まったく驚く。
また、天の岩屋の場面も「鏡」に込められた鍛冶の力への畏怖の念が見て取れるとか、スサノオのおろち退治の話も異族の産鉄の力を自分のものにしようとしたことだとか、いなばの白兎の話も単なる病を治したどうこうではなく、「海の向こうからやってくる『鉄/兎』に対して」、「二つの異なる鍛冶の対応をしている話」だというのである。推理小説の謎解きのごとく、面白い。
著者には、「古事記の神代の神々を最初から最後まで鉄の神々の物語として」、徹底した一貫性をもって読み抜いたのは自分だけ、との強い自負がある。アカデミズムが鉄の匂いを感じながらも結局は誰も本気になって向き合ってこなかったことに対して、「国文学ではわからない」「牧歌的にすぎる」との表現が勝ち誇ったように出てくる。このあたり、『逆説の日本史』で繰り返し歴史学者を虚仮にする井沢元彦と似てなくもない。
この本で、言葉の持つ多義性に思いをはせ、語源に遡ることの大事さを改めて痛感した。現代の言葉遣いだけで古代の言葉を判じようとする無理さ加減を、いやというほど感じさせられる。裏付け証拠として、白川静の『字訓』が至る所で顔を出すのは印象深い。
もう一つ見逃せないのは、著者が「火(鉄)」を作る話を、「日(明り)」の話として人々に受けとめさせる必要に迫られた時期が日本史上三度あったとしていることだ。一度目は、日本という国名を用いて、それ自体を照らす存在として、アマテラスを創り出した時。二度目は、明治になって鉄の大国を支えるためにアマテラスの話を学校の教科書などで大々的に宣伝しはじめた時。そして三度目が先の大戦が終わって、「地上の太陽」という触れ込みで原発を建設しはじめた時。確かに、いずれもイデオロギーを優先させた、すり替えが基本にある。ここを見抜いていかないと、東北の大震災以後の、原発が提起する文明の根源的課題に対応できない。
著者は、謎の多い古事記の真相に迫るには「詩的な構想力が不可欠」だと言う。確かにそうだろうと思う。ならば、村瀬氏は最後の最後まで責任をもって古事記の謎を解明してほしい。この論考は第一巻の神代編だけで、その後の二、三巻は手つかずだ。この一巻においてもいくつか「私にはわからない」との箇所がでてくる。正直でいいのだが、引き続き解明の努力をしてほしいと思わざるを得ない。