Monthly Archives: 1月 2022

【18】風化する「戦争への感性」ー伊藤絵理子『清六の戦争ーある従軍記者の軌跡』を読む/1-22

 人と人が殺し合う戦争ー日本はそれを起こした結果、敗れてひとたび滅びた。今から77年前のことである。私はその年・1945年(昭和20年)にこの世に生を受けた。いわゆる戦記物は数多く読んできたが、いつの日か読まなくなった。読んでも気分が晴れないからである。新聞記者である著者が、自分の祖父(従軍記者)の戦争報道を追ったドキュメント風のものを久しぶりに読んだ。「戦争の描き方に、この方法があったとは!」と感嘆する加藤陽子東大教授と同様に、私も珍しさに惹かれたのである。戦場になった中国の人びとと、そこまで彼らを殺しに行った(結果的に)日本人。改めて隣国同士の不幸な歴史と位置関係に考え込まざるをえない◆私が直接聞いた「戦争体験」は、我が父母の従軍した兄弟たち3人からだ。うち一人は陸軍少年航空兵に志願し従軍、フィリピンマニラのイポで片腕を失って帰ってきた。その叔父の肩先から伸びた装具の先端の〝鉤型の手〟と共に、忘れられない言葉がある。「マニラ湾に沈み行くあの大きくて美しい太陽を見たことのない人間に戦争を語る資格はない」ー新聞記者として安全保障問題に取り組みはじめていた私に、投げかけられた。戦争を知らない世代が何を論じても、結局は空理空論に過ぎない、と言いたかったのだろう。マニラの夕陽と重ね合わせたところに、その叔父のリアルを感じて、黙るしかなかった遠い日を思い出す◆この本の著者は同じ新聞社の先輩記者だった祖父清六の足跡を丹念に掘り起こし、南京へ、マニラへと足を運ぶ。あの「南京大虐殺」の現場に行き、「捕虜の殺害」に関わる清六の報道の痕跡を追ったくだりと、著者が自身の子どもと一緒に訪れた「記念館」での体験には息を呑んだ。「清六は南京で何を書いたのか」ーこの一点に著者の関心は集中し「必死になって記事を探し続けた」ことは当然だが、結局見出し得なかった。その空白を埋めるかのように、南京事件を伝える記念館での体験が語られる。「報道統制の中で戦場の惨状を伝えなかった記者たちが、虐殺などを行った『加害者』の一員であるという事実は重い。日本軍が中国人に対して行った非道な行いを目の当たりにし、私は申し訳なさといたたまれなさを抱えたまま、記念館を後にした」と◆一方、フィリピンでの清六の足取りは、陣中新聞『神州毎日』を洞窟等で発刊し続けた後、マニラ東方のヤシ畑で栄養失調での最期を迎える。「神州毎日は将兵愛好の的で至るところ引張凧であった」との記述が清六の彼の地での日常を物語っていると、私には見える。著者は、末尾近くで「どうすれば、戦争をあおる記事を書かずにすんだのだろう。故郷を遠く離れた場所で死なずにすんだのだろう」と、問いかけ「戦争へと時代の流れを推し進めた記者の責任は重い。そして、私自身を含む誰もが『清六』になりうることに身震いする」ーこの本の流れと結末を読み終えて、どうしてこれが二つものジャーナリストを称える賞を受賞したのか。正直いって私には分からない。75年前の記者を今の記者が追う旅に出た記録。一呼吸終えたのちに、この顛末にさして感じない我が感性の衰えー「風化する戦争体験」に愕然とする。さて、イポの戦闘で重傷を負い、米軍医に片手切断の手術を受けた我が叔父。その子や孫はこれをどう読むか。そして貴方ならどう読まれるか。(2022-1-23 一部修正)

 

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【17】創造の触媒になった日蓮の思想ー高橋伸城『法華衆の芸術』を見て、読む/1-16

 読み終えて、立ち込めていた霧が晴れ渡ったような爽快感が込みあげてきた。高橋伸城『法華衆の芸術』である。通常の本よりひとまわり大きいハードカバーで、芸術を説くものらしく鮮やかな写真が随所に盛り込まれた素晴らしい佇まいを持つ。昨年末に出版元の第三文明社に親しい先輩・大島光明社長を訪ねた際にいただいた。「とても良い本だよ」との言葉とともに。新年明けの数日に見て読んで私の長年の仏教美術に対する引っ掛かっていたものが払拭した。仏教美術というと思い起こされるのは仏像である。そして水墨画にみる山岳風景であろう。かねて私はそれらを西洋の宗教美術一般に比して、漠然とだが〝粋でないもの〟と受け止めてきた。あたかも讃美歌と読経の差のように◆この本では、『鶴図下絵和歌巻』(本阿弥光悦)、『源氏物語関屋澪標図屏風』(俵屋宗達)、『唐獅子図屏風』(狩野永徳)、『楓図壁貼付』(長谷川等伯)、『雪中梅竹鳥図』(狩野探幽)、『風神雷神図屏風』(尾形光琳)などが、法華衆の芸術として取り上げられている。更に、もっと一般の目に触れる、あの葛飾北斎、歌川国芳らの絵も。この作家たちが何と、皆日蓮大聖人を慕い、法華経を生活の根本にしていたという。恥ずかしながら知らなかった。安倍龍太郎の小説『等伯』をのぞき、関連する表現との出会いはこれまで私にはなかった。美しい一連の屏風絵や絵図を見ながら、ただ唸るしかなかったのである◆この本の著者・高橋伸城さんは新進気鋭の「ライター・美術史家」である。「大切な人の無事を祈らずにはいられない」「 絵であれ、彫像であれ建物であれ、ものを作るという行為もまた、広い意味での信仰と無縁ではありません」との印象的な文章で始まるこの本は、法華衆による芸術を初めて世にまとまった形で提起したものと言えよう。これまでの仏教美術の常識的見方をぶっ飛ばす勢いと価値がある。まず13人の法華衆の作品群が感性を大胆にくすぐる。そのあと、西洋に広がった法華芸術の展開から、現代美術家の宮島達男氏との対談、河野元昭東大名誉教授へのインタビューが続き、理性を鋭く刺激する。〝絵解き〟〝文字解き〟〝理屈解き〟で、三重奏に酔いしれる思いだ◆「爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり」ー手段としてでなく、見る対象そのものズバリを美と捉える、日蓮大聖人の「白米一俵御書」の有名な一節だ。今生きている時代と場所を肯定する法華経の考え方は、宮島氏が言うように「この世にある素材を使い、この世でものを作り上げる造形美術と結びつきやすかった」し、「(日蓮の)革新的な姿勢は、惰性と見分けがつかなくなった〝伝統〟を打破しようともがくアーティストたちにとって、強力な指針になった」と思われる◆こう解説されて得心はいくものの、造形と宗教・思想との関係がこれまで殆ど問題とされてこなかったのはなぜなのか。6年余り前から「芸術創造の触媒となった日蓮の思想」に着目してきた河野氏は、その2つを分けてみがちな学問領域の問題や、宗教と時代の関わりの濃度の差があるとしたうえで、「端的にいえば、実証が難しい」ことに原因があるという。作者たちが、制作にあたっての心境などを語っていない限り、確かにそうに違いない。研究は「まだ緒についたばかり」で、鈴木大拙氏による禅宗のインパクトや、浄土宗的仏像美術の流布に比べてはるかに遅れている。であるからこそ、大いなる希望が水平線の彼方から顔をだす太陽のように沸き起こってくる。わくわくしながら時の到来を待ちたい。(2022-1-16)

 

 

 

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【16】めくるめく池田思想の展開序曲ー創学研究所編『創学研究1ー信仰学とは何か』を読む(下)/1-10

 「仏教では、イエスの復活のような非現実的なことは説かない。こういう人もいるでしょう。しかし、そんなことはありません」ーこの本では随所で〝面白い発言〟が発見できるが、最も私が感じ入ったのは、この松岡氏の見解(第二部「信仰と学問の間でーそれぞれの人生体験から」)である。以下、こう続く。「仏教教典を読むと、非現実的な出来事は随所で説かれています。原始仏典に出てくるブッダと神々や悪魔との対話、法華経に説かれる虚空会の儀式などは、およそ非現実的な出来事というしかありません。その点ではイエスの復活と変わりないのです」。いやはや、よくぞ言ってくれた、と多くの人は思うに違いない。この当たり前のことが長く私たちの周りから聞かれることはなかった◆「キリスト者は二重人格」ー私が創価学会に入った50年余り前には、こう無批判に切って捨てることで、よしとしてきた。それが、「我々仏教者も、佐藤さんが言うように宗教的事実と歴史的事実を立て分けて理解する必要があります」との見解が素直に身の内に入るようになり、キリスト者ともまともに対峙できるようになったのである。これこそ、ここ数年の佐藤優、松岡幹夫両氏の功績に依るところが大きい思われる。尤も、これまでの他宗教批判は、日蓮大聖人の「四箇格言」を勝手に拡大化したものともいえ、取り扱いには注意を要する。日本における仏教理解は、伝来してより1500年足らず経っても、未だ充分になされているとは言い難いのである◆創価学会的世界に安住してきた私のような人間にとって、この本における黒住真、未木文美士、市川裕氏ら宗教学、哲学者の皆さんの指摘は極めて新鮮に聞こえる。例えば未木氏の「(現在の創価学会が)『池田教』のようになってきたのではないか」と、従来は伝統仏教の側面を有していたのに、現状では「純粋な新宗教になって」いる、との危惧を述べているくだりをあげよう。松岡氏はこれに対して、御本尊も、勤行の形式も、御書の解釈も基本的に変わっていないとしたうえで、「要するに物の見方が変わったのです」として、「池田先生の仏教解釈が一切の基準になっています」と明言している。池田思想の本格的展開を待望してきた者にとって、これ以外にも実に興味深いやりとりがなされていて、刺激的だ◆一方、一創価学会員として注目されるのは、第三章における「御書根本」と「信仰体験」に関する記述である。蔦木栄一氏は「池田先生の著作に見る『御書根本』について」の中で、「ただ御書を読むだけでは不十分であり、師弟の精神がなければ御書を身で読むことができない」として、『人間革命』『新・人間革命』から御書についての記述を丹念に拾い上げており、参考になる。私のような些かへそ曲がり的信仰者は、ややもすると、大聖人の御書の核心部分が眩しく見え、「身で読む」ことをためらいがちになる。大聖人の壮大な大確信から発せられる言葉を、時に〝独特の誇張表現〟と見てしまうこともある。この辺り、松岡氏の「学会精神の日蓮大聖人」との表現に見られるように、「超越性と現実性」を併せ見ることが必須なのだろう。最後に、山岡政紀氏の「『新・人間革命』に描かれる地涌の菩薩たち」には唸った。今私がブログに連載する「小説『新・人間革命』から考える」では、気にはなりながら、信仰体験部分をカットしてきたからだ。ともあれ、この本は今に生きる創価学会員にとって必読書だと心底から思う。(2022-1-10)

 

 

 

 

 

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[15]積年の気掛かり吹き飛ぶー創学研究所編『創学研究1ー信仰学とは何か』を読む(上)/1-8

「創学」とはまた聞き慣れない言葉である。キリスト教における「神学」と相関関係にあるものとされる。創学研究所は、つい3年ほど前の2019年4月に設立された。松岡幹夫氏が中心となって立ち上げられたもので、この本が「創学」の出発点であり、現時点での研究所産のすべてになるものと見られる。意欲的な論考や対談、鼎談が満載されており、知的興味を超えた信仰的刺激をたっぷり受けることが出来た。松岡さんの著作についてはこれまで数多く読んできたが、『日蓮仏教の社会思想的展開ー近代日本の宗教的イデオロギー』が最も印象に残っている。作家でキリスト教神学に造詣の深い佐藤優氏との〝二人三脚的関係〟も、昨今つとに知られているが、この本では改めてその絆の深さに感じ入った◆この本を通して、多くの発見や気付きがあったが、ここではほんの一例を挙げてみる。それは「信仰的中断」との概念についてである。これまでの56年を超える信仰生活で、常に私の頭を離れなかったのは、理性的思考と信仰との両立である。疑うことと信じることは正反対の位置にある。日常的にも「思考停止」は悪とされ、考え続けることの重要性は自明の理である。それを日蓮仏法の門を叩く際に、仏の教えは、はなから正しい、その通りですとの姿勢から出発すると聞いて、抵抗感がなかったかというと嘘になる◆しかし、下世話な言い方をすると、文字通り試しにやってみたら、良い結果が出たがゆえに、あれあれっていう感じが続く中で、今があるというのが偽らざる実態である。その仕組みについて、こう説明されている。「あえて、我々は信仰は思考の中断から始まると訴えたい。その意図は自己自身の思考の方法論的死である。決して思考の全面的停止ではない」「思考再生のために、自らの小さな思考を方法論的に殺す。それゆえ、信仰的『中断』と称し、思考停止の一時性を強調する」ーこの解説を読んで、なるほどと心底から得心がいった。折伏の場面で、「下手の考え休むに似たりだよ。我見を一旦捨てて、こっちの話を聞きなよ」と言ってきたことを思い出す。「信仰的中断」をめぐるこの本での絶妙の言い回しに深い感動を覚えるのは私だけではあるまい◆尤もこれは、入り口の段階でのことであって、一旦中に入ると、武芸の道と同じように先達の教えに従うしかない。つべこべ言わずに、ひたすら練習して、基本の繰り返しをするだけである。ただ、この最初が肝心で、一つ間違うと負のスパイラルに陥る。であるがゆえに、皆躊躇するのに違いない。私の場合はレアケースかもしれないだろう。この偉大な仏法にめぐり合い、池田先生という稀有の大師匠と若くして出会った我が身の福運に大感謝するしかない。懐疑の連続。考えに考え抜く日常生活の中で、随所で「信仰的中断」を織り交ぜるー我が身についたこのリズムを改めて確認できた。これを始めとして、この本では深い思索と信仰実践から紡ぎ出された貴重な「考産」が次々と登場してくる。積年の懸案が一気に吹き飛ぶ思いがしてならない。(2022-1-8)

 

 

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[14]失われたものへの貴重な気付きー大隅良典・永田和宏『未来の科学者たちへ』を読む/1-3

 初夢を見た。経済的に恵まれない若者たちに、私が資金を提供する基金団体を作って喜ばれているというものだ。かねて人生最後の望みがそこにあることを吹聴してきたからに違いない。実は、昨年暮れも押し迫った頃に、姫路出身東京在住の仲間たちの集い「姫人会」が久しぶりに開かれた。その際に、元日経新聞記者から東京工大副学長を経て、現在は公益財団法人「大隅基礎科学創成財団」の常勤理事を務める異色の経歴を持つ才人・大谷清さんから、標題の本をいただいた。出版したばかりの『77年の興亡』を差し上げた代わりだったので、文字通り物々交換となった。よければ読書録に、とのことだった。そういう目的で本を貰うことはあまりないので喜んでいただき、年末から貪り読んだ。2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅さんは、冒頭に書いた私の夢に近いものを既に見事に実現している。卓越した文筆家でもある著名な生物科学者の永田さんの興味深い論考と、お二人の対談を織り交ぜた本だが、実に面白く楽しめた。私のような年老いた政治家が読んでも貴重な〝気付き〟が幾つもある。科学に近寄りがたいものを持つ全ての人たちに勧めたい好著だ◆大隅さんがこの財団を作るに至った背景には、基礎科学の分野が危機に瀕している現実がある。国のお金にだけ頼らず広く寄付を募り、基礎科学の理解と振興を目的としての、眼を見張るべき挑戦だ。これは「新しい社会的実験」だとする大隅さんらの試み。それへの宣伝の役割をこの本は持つともいえよう。大いに啓発された。遠い昔に、父親から『なぜだろう なぜかしら』という本を買って貰ったことを覚えている。科学的なものの考え方に興味を持つきっかけを作ってくれようとした親心だったはずだ。だが、後に高校時代に、いわゆる出来のいい友人たちの多くが理系志望だったことに反発する思いもあって「試験管を動かすよりも、人の心を動かす」のだと、私は心密かに息巻いた。そして政治学の門を叩いた◆以来、半世紀近くが経って、国会の場で、基礎科学への財政的支援をするべし、との気運が公明党内でも起こり、私もその気になった。しかし、結局は確かなる手応えの結果はもたらすことができなかった。大隅さんは恐らく政府、政治家に頼ることを諦めて、自ら財団を作る決意をされたのだろう。日本人が総じて「議論」が苦手であることはもはや通説だが、この本ではその代表例として政治家のケースが挙げられている。「いま議論の虚しさを感じさせる場面は国会かもしれない。議論が破綻していることは誰の目にも明らかだ。日本の政治の劣化は著しい」ーこの指摘は悔しい思いもするが、的中している◆この本の二人の著者は私と同世代。様々な意味で現代日本についての思いは共通する。国会、政治家の劣化を指弾されて、人生をこの分野だけで生きてきた者として、恥ずかしながら同調する気分は抑えがたい。いったいどうしてこんなことになってしまったのか。大隅さんは、テレビで映される国会中継を見て、「議論の中から新しいものが生まれる生産的な活動だと実感することはできようもない」と手厳しい。私はこの度の自著で最後に、国会議員の質問を査定する機関を民間で立ち上げる提案をした。色々障害はあっても、やってみる価値はあろう、と。基礎科学への支援を広く呼びかける試みに見倣って、今の国会、政治家を建て直す企てへの支援を呼びかける財団でも作ってみたい。これは〝正夢〟にしたいのだが。(2022-1-3)

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