Monthly Archives: 1月 2016

【140】哲学は真理を教えているものではないー古田博司『使える哲学』

「今大学で何が起こっているか、知ってますか」って、数年前に筑波大学の古田博司教授から投げかけられた。「学問の淘汰が始まっているのです」「細分化された学問がどんどん間引きされ、使えないものには学生が全く見向きもしないのです」ー筑波大の場合では大学院の法学専攻が5年間志願者ゼロでとうとう廃止になった、という。インターネットの本格的展開は、旧来の”知の持つヒエラルキー”を壊した。分からないことがあれば、直ちに手元のパソコンを開けば何でも解決する。勉強をすることで普遍的な知に近づけるというかつての幻想は消えてしまった▼『使える哲学』なる古田先生の新刊本は極めて明快。使えないくせに”お高い雰囲気”を持つ哲学という学問のイメージを完膚なきまでに壊してくれる。めっぽう面白い本である。この本の結論は「近代=普遍知の時代が終わった」ということ。「哲学というものは哲学者が人を説得しようとしている話を聞く(読む)というだけで」、「別に真理を教えているわけではない」。「もしそこに自分にとって役立つものがあれば利用すればよいだけ」という。以前に取り上げた『ヨーロッパ思想を読み解く』で展開された、西洋哲学の基本にある「向こう側」という世界の捉え方から始まって、ドイツ哲学やフランス思想の問題点を曝け出し、イギリス哲学の優位性を説く。相変わらずこの人は知的刺激を猛烈にもたらしてくれるのだ▼これを読んで、私がかつて学生時代にー1960年代のことだがー知った創価学会の提示する価値観を思い起こした。それは、われわれが求めるべきものは「”真善美”ではなくて”利善美”だ」というもの。真理を求めるのは学者に任せて、一般大衆は利用すべき価値を探せとの指摘だと理解して、はじめは大いに驚いたものだ。あの頃はまだ「近代」のただ中で、普遍知なるものを皆が有難がっていた。「ポスト・モダン」の今になって、信仰50年の自分が創価学会の先駆性に気づくというのも気恥ずかしい▼20年あまり前からの知己である古田さんには、朝鮮半島をめぐる深い洞察から東西哲学比較まで、様々に教えを乞う機会が多い。「40年間、朝鮮だけを研究してしまい」、「朝鮮だけで終わってしまった」のが「悔しいから、今ちょっと暴れている」と謙遜されるだけあって、彼の進境はいやまして著しい。本来の儒教を骨格とする東洋思想への知見に加えて、ヨーロッパ思想への斬新なアプローチは余人の追従を許さないものがある。日蓮仏法をかじっただけの私など到底太刀打ちできないことは百も承知だ。しかし、そこは向こう見ずな私のことゆえ、なんとか蛇に怖じず、とばかりに時々無謀にも挑みかかっている。東洋の叡智の持つ「直観」に磨きをかけて、近くまた議論を吹っ掛けたいと思っているのだが。(2016・1・28)

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【139】歴史を図形で捉えることの面白さー保坂正康『昭和史のかたち』

時代を図形で捉えるー実にユニークな発想の本を発見、一気に読んだ。保坂正康『昭和史のかたち』である。図式イメージはすべての理解を助け、早める。かつて私は創価学会という組織を三角形ではなく、円形で捉えることの大事さに気づいた。「組織の頂点や底辺」という言い回しは三角形やピラミッド型を連想させ、暗く重苦しいイメージが付きまとう。それに比べ、明るい躍動的な組織を説明するには、円や球こそが望ましい。民主的組織のリーダーは円の中心にあり、最前線のメンバーは円周上の人々だ、と。遠心力や求心力も組織にとって欠かすことができない力として説明できる、という風に。物事を図式化することは面白い▼保坂さんはこれを歴史理解に適用した。例えば、昭和史を大まかに捉えるにあたり、昭和元年から20年9月2日の無条件降伏の日までを前期。それから昭和27年4月28日までの米軍占領期間を昭和中期。そして独立を回復した日から昭和天皇が崩御した昭和64年1月7日までを昭和後期とする。これらを三角錐の三つの表面体として捉え、それぞれの時代の中心人物に、東条英機、吉田茂、田中角栄を当てはめる。そして三角錐の底の面にはアメリカ、空洞部分には天皇の存在があるとする。3人の首相経験者にはそれぞれ獄につながれた経験を持つ共通点があり、アメリカとの関係が日本の指導者にとって致命的な意味合いをもつことを明らかにしていく▼この本の最大の焦点は、三章の「昭和史と三角形の重心」だ。明治憲法下では、三角形の頂点に天皇、ほかの二辺にそれぞれ統治権と統帥権とで正三角形を形成していた。それが軍部勢力の台頭により、統治権よりも統帥権が上位に立ち始めるという形で重心が移動し、やがて頂点に位置する天皇をも超えてしまう。いわゆる「統帥権干犯」という事態を惹起するわけである。このあたり、実際に図式で説明をすると実に分かりやすい。こうした正三角形から歪な図形へと変わりゆく姿こそ、昭和前期の天皇から軍部への重心の移動を示して余りある▼保坂さんは、この本で「遠くなりゆく『昭和』を、局面ごとの図形モデルを用い」ながら、「豊富な資料・実例を織り込み、現代に適用可能な歴史の教訓を考え」ていく。ただ、おわりにのところに「戦後七十年の節目に、無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている」として、ステロタイプ的な批判の言葉を投げかけているのは、いかがなものか。「集団的自衛権の行使を可能にした」安保法制の制定は、「戦後民主主義体制」の一側面を修正強化しこそすれ、骨組みは壊されたりしようとしていない。むしろ、そこでいう「体制」の実態とはなんであるのかが問われるべきだと思う(2016・1・17)

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【138】いろはかるたから学ぶ繰り返しの大事さー鶴見俊輔『読んだ本はどこにいったか』

タイトルに惹かれた。『読んだ本はどこへいったか』という。昨年83歳で亡くなった鶴見俊輔さんの「今まで読んだ本の、自分の中でののこりかたの記録」である。私も今日までそれなりに本を読んできたつもりだが、このタイトルを最初は鶴見さんとは正反対の意味にとってしまった。つまり、本は読んだが何も残っていない、との意味に。妻から先年「本を読んでいても貴方は何も身についていない」と揶揄されたことがずしんとこたえているからに違いない。大いなる反省と新たなる旅立ちへの参考とするために興味深く読んだ▼鶴見さんはこの本を⓵自分の読み直しのメモ⓶京都新聞の山中英之記者へのはなし⓷記者の記録への手入れーの手順で作ったという。ご自分の体内に80歳までの人生で読んだ本がどう残っているかを書き残された。その読書生活の全容をこの本が要約しているものとらえることが出来る。「『老い』というフィルターで濾過され、なお残る本は何か」と自身に問いかけ、「私にとっては、これまで実現したことのない著作の形である」と言われる。随所に魅力溢れる様々な本のエキスが抽出されており、あれもこれも読みたくなる▼「哲学のもう一つの入り口」「生活語を求めて」「大衆小説の残したもの」の三章からなるが、「かるた」について書かれた第二章がお正月の今最も読むにふさわしい。「かるたは単なるゲームではなく、人生のいろいろな状況の中から、自分がとれることわざをとる不思議な文学です。遊びでありながら、実人生と相互乗り入れになっている」と持ち上げる。更に島崎藤村と岡本一平(絵)が作った『藤村いろは歌留多』について「(藤村の全著作の中で)最高のものだと感じるのは、七十八歳になった今の私の評価です」とまでいう▼思えば「かるた」に日本人は多くの思いを託し、様々な教訓を学んできた。私など「犬も歩けば棒にあたる」を読んで「人も歩けば票に出くわす」と想起して、選挙への意欲を高めたり、「猿も木から落ちる」から苦手なことよりも得意なことが失敗の因につながることを戒めたものだ。ここで言えるのは繰り返しの重要性だ。子どもの時から何度も何度も口にして覚えたことだから身についてきたのだろう。「好きこそものの上手なれ」である。読んだ端から忘れてしまう読み方から脱却するために、今年は気になったくだりや興味を持ったところを繰り返し読み直したり、更にその中身を人に語ることで身につけていこうと思っている。(2015・1・6)

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