この人と会わなければ間違いなく私はこの本を読まなかったに違いない。勿論こんな読後録も書かなかったはずだ。この人、とは諸井学さん(先に紹介した『神南備山のほととぎす』の著者)のことであり、この本とはサミュエル・ベケットの『モロイ』(「アンチ・ロマン」に区分される小説だそうな)のことである。諸井さんと知り合ってほぼ2年。次第しだいに感化、影響を受けてきているのだろう。ついに『モロイ』を読む羽目になってしまった。読んでいて幾度も投げ出したくなった。およそオモロイとは言えない代物だからである。それでも最後まで読み終えることが出来たのは、ひとえに諸井さんが自分のペンネームは「モロイから学ぼうとした」というからである。邦訳は4種あり、そのいずれをも含め十数回にわたって読んだと言う。そこまで入れ込む理由を知りたい、と私が思ったのは人情というものだろう▲ベケットの作品は、戯曲『ゴドーを待ちながら』を読んだことがあり、既に読後録にも書いている。だからおぼろげながらもどういうタッチの読み物であるかは想像できた。聞きしに勝る、わけのわからん筋立てというか話運びである。それでいて妙に引き込まれる独特のリズムはないわけではない。一回読んだだけで読後録など書くのは無謀というものだろうが、再読したり、橋本五郎さんのように「二回半読む」勇気も暇も、今のわたしにはない。コロナ禍の有り余る時間の中でさえ、わたしに残された時間はそう多くないとの切迫感があり、早く離れたい(『モロイ』からも『諸井』からも)との思いに負けてしまった。ということで、中途半端な結論のもとに書き出したこと、ご容赦願いたい▲実は少し前に、諸井さんに『モロイ』って、どんな小説なの?って訊いたことがある。彼はひとたびは曖昧な言い方でお茶を濁したかに思えたが、のちに手紙で答えを書いてきてくれた。結論部分のみを披露すると、「『モロイ』を読むことは、『モロイ』を解釈することではなく、『モロイ』を体験することである」ということになる。ボールは投げられた。「解釈」するのでなく、「体験」することであるというのは、また判じ物である。解釈には理性が働き、体験には感性がものをいう。要するに、理屈で分かろうとするのでなく、感じるがまま受けとれということなのだろう。これがまた難しい。ボールの投げ返しに苦労することになった。尊敬する友人であるベケット研究の第一人者・岡室美奈子さん(早大教授)に訊いてもみた。彼女は、「解釈でなく、体験だ」との諸井説を「言い得て妙」と同感したうえで、「『私』という語り手に心を添わせる読み方」がいいとし、「理由が分からぬまま感動する体験が醍醐味です」と答えてきてくれた▲私は何らかの閃きが我が体内に生じない限り、この本の読後録は書けないと思った。そんな時に、たまたまモーパッサンの『エセー』における興味深い一節にでくわした。「自分が対象と関わる瞬間に、ありのままの姿をとらえるしかない。つまり、存在を描くのでなく、推移を描くのだ」とのくだりだ。これを解説したあるフランス文学者は、「画期的居直りだ」と述べていたが、私にはこの説明を聞いた瞬間、ベケットが『モロイ』で描いているのは「存在」でなく、「推移」ではないかと、閃いたのである。具体的な描き方部分を上げることはあえてここではしない▲最後に、気に懸かった箇所が二つあることを告白する。一つは、第一部におけるセックスに関わる表現部分。過去に読んだこの種のもののいずれよりも印象深い。ここにだけ強烈なリアルを感じた。もう一つは第二部における大便にまつわる表現のところだ。息子のしたうんこの具合を親父が覗き込み、その有様を仔細に描く。笑った。なんのことはない。人間の原初的行為が、昔馴染みの友人が突然訪ねてきた時のように私の感性をくすぐった。裏返せばそれ以外は殆ど意味不明。それが私の正直な『モロイ』体験なのである。諸井さんは、小説家として多くの創作のヒントを得たに違いない。岡室さんは「どうか(ベケットを)嫌いにならず、お付き合いいただければ」と結んでおられた。さてさて、どういうものか。(2020-5-31)
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(351)こんな90歳になってみたいー中西進『卒寿の自画像ー我が人生の賛歌』を読む
「『令和』の考案者は私と同じ名前なんですね」ーこの名言を発した人こそ、誰あろう、文化勲章受賞者・中西進先生である。肩書きを「万葉集学者」、としようとしたら、ご本人はそう呼ばれることはお好きではないとのこと(本文中にあり)なので、よした。しかし、万葉集の研究で今日までの大をなされた。「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」との万葉集の一節を典拠にした「令和」という年号を、この人が思いついて標題の著作を表す起因となったことも間違いない▲中西先生と私は同じ一般社団法人『瀬戸内海島めぐり協会』に所属する仲である。先生が代表、私が専務理事を務める。であるが故に、学者としての先生の凄さも、そのお人なりも知ったつもりでいた。しかし、この『自画像』を読んで、いかに私が先生のことを何も知らなかったかが、ようく分かった。面白い。こんな90歳の年寄りに自分もなってみたい、と心底から思う。75歳である私は90歳の中西先生に、ほとほと惚れ込んでしまう。生い立ちから、学問の道を経て、「令和」の由来に至るまで興味津々の話題で最後まで飽きさせない▲これまで様々な先達の、老いに至った道のりを聞き、それぞれに感じ入った。しかし、いかなる人々のものよりこの人の語りは凄い。凄すぎる。全くと言っていいほど歳を感じさせないのである。「体力、身力を養う」が、ご自身の究極の持論だとされ、それ故に卒寿を迎えるに至ったと言われるのだが、全編どこにも「後ろ向きの示唆」を感じさせない。永遠に生き続けられるかの如き錯覚に陥る▲この本、実は中西先生の自伝とするには物足りないと思われる。随所に写真が散りばめられ、極めて興味深いのだが、いささか軽いと思ってしまうからだ。ご自身が書かれた文章ではなく、鵜飼哲夫讀賣新聞編集委員の聞き書きであるから無理もないのだが、そう思わざるを得なかった。そうしたら、あとがきに「心してその諸点を整理し、普遍的な観点から見つめて、別に叙述していきたい」とあった。本格的なものはまた書かれるのだ。安心した。この本で中西先生は、含羞を込めて、ご自分の人生を振り返り、今の時点で思う存分に表現された。次には白寿を前に本格的な自伝を期待したい。(2020-5-23)
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(350)大阪維新はなぜ強いのかー朝日新聞大阪社会部編『ポスト橋下の時代』を読む
コロナ禍騒ぎで、妙に吉村洋文大阪府知事の人気が高い。このところの世論調査における政党支持率でも「維新」は右肩上がりである。少し前に友人(元公明党尼崎市議)から勧められて購入したまま放っていた上掲の本を、引っ張り出して一気に読んでみた。率直に言って「維新」の強さは個人プレーによるところが大きいとの見立てに間違いはないというのが結論である▲主役が橋下徹から、松井一郎、吉村洋文のツートップに替わっただけで、この3人以外に人はいないように見える。それ以外のプレイヤーで重きをなしているのは、概ね他党からの流入者ばかりで、この党生え抜きの人材(歴史浅く無理もないが)は貧弱というほかない。それでいて、確かに強い。兵庫県的には3回の参議院選挙で維新候補を敵に回したが、この党は殆ど党員支持者の姿は見えず、運動量は少ないのに、圧倒的な票をとる。要するに浮動票をかっさらうだけの期待感が有権者に強いのである。時代の空気を感じる感性力は侮れないが、主軸が崩れると消え去る可能性も高い▲その強さの秘密はどこにあるのか。この本では、大阪都構想をめぐる維新、公明、自民の三党のこの10年ほどの動きを克明に追っているが、結論めいたことには直接言及していない。浮かび上がってくるのは、先に挙げた3人のリーダー(維新の三傑)の都構想に対する執念だけである。それに比べて自公、及び他の政党の結束力のなさたるや目を覆うばかり。単独では強い公明党も、他党との付け焼き刃的結束では負けてしまう。〝維新の三傑〟に共通しているのは、はっきりした物言いに尽きよう。これは政党、政治家として学ぶべきところ大である。国政における野党で、憲法改正をはっきりうたっているのはこの党だけ。これも歯切れの良さに繋がっている▲私の見るところ、今の日本ではもう一つの保守勢力の台頭が求められている。〝何でも反対〟のイデオロギーに偏重しがちな党でなく。この本で、三傑のひとりが国民民主党が「維新」でなく、立憲民主党の方に合流しようとしたのを嘆くくだりがあるが、そこがポイントであろう。先に希望の党への異常な期待で盛り上がったが、あながち〝小池人気〟だけの一過性のものではなかったと見たい。中道主義の党・公明党の役割はまことに大きいが、ややもすると、物言いの不鮮明さが気になる。そこらで足元をすくわれないようにしたいものである。(2020-5-16)
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(349)軽妙洒脱なドイツ文学者の「老いと死」ー池内紀『すごいトシヨリBOOK』を読む
ドイツ文学者の池内紀さんが亡くなられる2年ほど前に出版された『すごいトシヨリBOOK』。このところ毎日新聞(出版元)の一面下の広告欄にしばしば登場している。タイトルも気になるので、読んでみた。理由は二つ。一つは同氏が私と同じ姫路出身であり、生前一度だけだがお会いしたことがあるから。二つは、最近年老いた知識人ー曽野綾子、石原慎太郎氏らーが老いを巡る考察を次々と出版しており、比較してみたくなったこと。コロナ禍のため図書館が休館になる前に借りて読んだ。後味は悪くはないが、いささか羊頭狗肉で、誇大広告のような感がする。買わなくて良かったと思っている。恐らく本人はあまり気が向かなかったものと思われる。というのも書き下ろしでなく、編集者の聞き書きだからだ。ご自身が熱を入れて書かれたものなら、こんな風ではないというくだりが散見される。もっと深みのある重い老人論を池内さんからは聞きたかった▲勿論、池内さんらしい軽妙洒脱さも随所に。代表的なものを紹介する。一つは、眠りについて。寝られない時は無理せずに起きる。その代わり、朝昼夕夜と4回ぐらいにわけで小出しに寝るといいというのだ。「眠りは短い死、死は長い眠り」とドイツ語でいうから、「短い死を経験しておくと、長い眠りのコツがわかっていい」と。さてさて池内さんはコツを習得されたかどうか。二つは、泌尿器について。池内さんは自らのイチモツをアントンと名付けたそうな。元気な時は「張り切り大王」「モリモリ先生」などなどだったが、今では「しょんぼりくん」「うなだれの君」などと言われたりする、と。このくだり、さもありなんと大いに笑えた。三つは、死について。歌人・窪田空穂が死の床で詠んだ「まつはただ 意志あるのみの 今日なれど 眼つぶれば まぶたの重し」を挙げて、「そんな物理的な体の重さを感じながら、人間は死ぬんじゃないか」といいつつ「僕は、風のようにいなくなるといいな」と結んでいる▲その池内紀さんが去年夏に出版された『ヒトラーの時代』を巡って、ネットの世界で話題になっていることに触れたい。実は今の今までその話題は知らず、本も未読だった。ところがひょんなことから、舛添要一さんがこれに絡んでいることを知ってその本にも興味を持った。何が話題になっているかというと、『ヒトラーの時代』に些細な記述の間違いなどがあり、それをドイツに関する日本の歴史家たちが猛然と批判しているとのこと。で、それを知った舛添さんが池内さんに加勢しているのだ。舛添さんに言わせると、ドイツ文学者が専門外のヒトラーについて語る資格はないという歴史家たちのいいぶりはおかしく、池内さんの指摘(普通のドイツ人がヒトラーを支持していた)は全く自分も同感だというのである▲それというのも舛添さんも池内本と踵を接するように『ヒトラーの正体』なる本を上梓しており、ほぼ同じ趣旨のことを書いたからだという。この二つの本は読んでいないので、そのうち、読んだ上で改めて取り上げるが、私は歴史家たちの批判も分かるような気がする。つまりは嫉妬である。池内紀さんはドイツ文学、舛添さんはフランス政治史が専門。専門外の人間によって、自分たちの領域が侵されるのが、歴史家のみなさんは、気に入らないのである。ご両人ともそれぞれ有名なだけに本を書けば売れるわけで、それも腹が立つ理由に違いなかろう。舛添さんの主張が正解だと思うものの、世の中正論だけではないよ、と言いたくもなる。で、先日NHKのBSテレビで、『独裁者ヒトラー 演説の魔力』なる番組を見た。見事な切り口、出来栄えに圧倒された。90歳を悠に越えたドイツの老人たちが、ヒトラーの演説に魅せられた若き日の自分たちのあの体験を、口々に語っていた。なぜあのように深く熱狂してしまったのか。不思議がると共に、懐かしがっていた。二人の本の中身がこの映像を上回っているかどうか。楽しみに読んでみたい。(2020-5-14 一部再修正)
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(348)一冊で日本文学丸かじりードナルド・キーン『日本文学を読む・日本の面影』を読む
2020年のGWはそれぞれの人生にとって忘れがたい異常なものであったに違いないと思われる。外に出るな、家にいろと、政府から懇願されるなんて、前代未聞、古今未曾有のことであった。ただ、休むということだけをとるなら、ゴールデンウイークならぬゴールデンマンスの状態が続いて、本を読むチャンスではあったろう。私はその機会に今まで苦手意識から棚上げしてきながらも、気になってきたプルースト『失われた時を求めて』(14巻)と、ベケットの『モロイ』に挑戦することにした。一方、それではご馳走の食べすぎで消化不良を起こしかねないので、食べやすいものもとばかりに、一冊で日本近代文学全てを読んだ気になるようなもの(表題作)を読み、随分得をした気になった。
実はキーンさんの『日本文学史』全18巻は既にざっと読み終えており、この『日本文学を読む・日本の面影』は、おさらいをするようなようなおもむきがあった。二部構成のうち前半の『日本文学を読む』では、二葉亭四迷から大江健三郎まで49人の作家を取り上げてそれぞれの代表作を論評しているのだが、最も印象深かったのは、夏目漱石についてあまり評価が高くないことである。これは『漱石全集』に悪戦苦闘してきた身からすると、全巻読破なんて無理することないよと言われたような気がして、ホッとするような心境になる。
●「漱石」は世界の古典にはなれない
「日本人にとっては漱石は掛け替えのない作家であり、近代日本文学を可能にした大恩人であるが」、「漱石の主な作品全部を読まなければ、彼の偉大さは分かりにくい」のであって、「日本文学の古典であるが、残念ながらいくら紹介書が出ても世界の古典になかなかなれないと思う」と結論付けている。その理由は、「多くの外国人読者が漱石文学を読む場合、小説に登場する人物と自分を同一視することは困難だし、物語としての面白さは谷崎や芥川等の小説には及ばない」からというわけである。だろうなあ、と思う。
ただ、こう書かかれているからと言って、谷崎や芥川を全面的に礼賛しているわけでもない。谷崎文学は「深みが足りないという批判は出来ると思う」し、芥川についても、「かなり広く芥川の小説を読んだが、その技巧──特に小説の落ち──に段々愛想をつかすようになった」と、厳しい。このように、キーンさんは取り上げた殆ど全ての作家に対して深い吟味の手立てを加えていて興味深いのである。
一方、そんな中で、後半の『日本の面影』では、『源氏物語』『徒然草』から能、俳句、日記まで広範囲に「日本文学」全般にわたって、その魅力や特質に迫っている。ここで私が最も感銘を受けたのは芭蕉についてである。キーンさんは、「芭蕉は、私にとって最高の詩人といえます」し、「読むたびに私の身にしみるような感動を覚えます」とまで言った上で、「出来るものならばぜひ会いたいというきもちがあります」とさえ。
尤も、芭蕉を褒め称えるのはいいのだが、和歌の世界にはあまり触れようとしていないのは、少し疑問を感じざるをえない。つい先ほど『新古今和歌集』の世界が、800年も前に、現代ヨーロッパ文学の先取りをしているとの指摘を、知ったばかりの私としては尚更である。丸谷才一さんの『後鳥羽上皇』からそれを学び、12篇の短編小説にまとめ上げた諸井学さんの『神南備山のほととぎす』を読んで、より一層その思いは募る。諸井学のペンネームの由来がモロイから学ぶということにあると聞けば、さらに。ともあれ、こうした日本文学の世界に深入りさせてくれるまさに最適と思われる本に出会って心底から満足をしている。
【他生の縁 新幹線車中で隣り合わせる】
一度は会って話したいと思っていた人に偶然新幹線車中で隣り合わせに座るというのは本当に嬉しい体験でした。ドナルド・キーンさんの存在はかねて知っていましたが、初めて読んだ本は、『明治天皇』上下でした。実はこの本は、先輩代議士の塩川正十郎さんから頂いたものでした。
中嶋嶺雄先生が幹事役をされていた「新学而会」では当初、大先輩の塩川さんと私が政治家として席を並べていました。あるとき、会の始まる前の懇談で塩川さんが、「先だって『明治天皇』を読んだけど、実に啓発されました。まだ読んでおられないなら、私が贈呈しますよ」と、居並ぶ参加者に呼びかけられたのです。私は喜んで手を上げて、所望したことはいうまでもありません。旬日を経ずして、大部の本2冊が送られてきました。
塩川さんは、国会で、慶應義塾出身の議員に声をかけて福沢諭吉の『学問のすすめ』の読書会を開催してくれるほどの読書家でした。東京駅から国会までの車での移動中にも本を離さず読んでおられた姿が目に焼きついているほどです。キーンさんとの巡り合いに、深い文学論をするでもなく、結びつけてくれた政治家「塩川正十郎」の話をしただけに終わりました。
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