待望の『逆説の日本史』の23巻が発刊された。週刊ポスト誌上で連載が始まってからだと、およそ25年が経つ。今もなお連載は続いている。今回のものには、「明治揺籃編」と名付けられており、まだあと10年は続くかと思われる。一方で、『逆説の世界史』もネット上で連載が続いており、出版も既に2巻目。著者の井沢元彦氏は元TBSの記者にして作家で、63歳。恥ずかしながら当方は読むのだけでも大変。よくぞまあ、と呆れる。この人とは会ったことはないが、テレビで時々目にする限りでは、喋りよりも書く方が鋭いと感じさせる。ただ、鋭すぎて既存の歴史学者を始め、数多の既成の”知識人の正説”をなで斬り。従って敵も多いように見受けられる。わたし的には知的刺激を十二分に頂き、極めて参考になるだけに御身大切に、と祈る思いではある▶以下、3つの章で私が感じ入ったさわりを紹介したい。第一章「近現代史を歪める人々」で、血祭りにあげられているのは元朝日新聞社主筆。韓国の朴槿恵前大統領の不正疑惑問題についての同主筆の言動を克明に紹介したうえで、「ジャーナリストにとって基本中の基本である『ウラを取る』という作業を行なわず、その上でジャーナリストにとってもっとも禁物である予断と偏見をもって事態を決めつけた、愚かで滑稽な人物」と結論つけている。朴槿恵氏が韓国史上初めて弾劾制度で罷免された今となっては、今は亡き主筆氏としてはぐうの音も出まい。死者に鞭打つことを避けようと、名前すら伏せる私など甘すぎるのに違いない。この章はいわゆるマスコミの常識に踊らせられている人々にとって、目から鱗が落ちるであろう。今までこのシリーズを読んでいない人は、この巻だけでも読むに値するとお勧めしたい▼第二章「琉球処分と初期日本外交」では、「琉球処分」ではなく、琉球の「奴隷解放」だとの「逆説」には首肯できる(但し、このくだりは『沖縄歴史物語』の伊波普猷氏の指摘に全面依存しているのだが)。三百年もの長きにわたって「奴隷制度に馴致されていた沖縄人」が遂に解放されたとの捉え方だ。政治的中枢を「中国」に毒されていた琉球(沖縄)が、日本によって目覚めさせられたという観点は重要だ。この辺り、井沢氏の持論である「朱子学の中毒」というキーワードを駆使しての解説が極めて分かりやすい。今まで沖縄の後進性について、私は「日本政府の差別」に起因すると捉えてきた。”朱子学のせい”という視点は殆どなかった。中国や朝鮮半島と同様に、「朱子学の陥穽」から逃れるのが遅かった沖縄と、比較的早くそれから逃れた日本という対比の仕方は、それなりに面白い▼第三章「廃仏毀釈と宗教の整備」も、私にとって実にためになる思索のポイントを得ることができた。これまで私は明治維新以後、科学技術分野での遅れを取り戻すために、ひたすら明治政府は科学振興に走り、精神・思想分野での対応が等閑(なおざり)であったとの見立てに終始してきた。しかし、井沢氏は明治政府は欧米列強に負けないために「神道+朱子学」という新宗教の樹立に向けて宗教整備をしていったと指摘する。その一つの柱が教育勅語であり、もう一つが神仏分離であり、廃仏毀釈だ、と。日本は、「キリスト教+欧米の哲学」を無批判に受け入れ、古来からの宗教や思想との融合を試みてこなかったとの観点は揺るがない。だが、その背後に日本としての宗教整備がそれなりにあったとの視点は私には希薄だった。勿論、その宗教整備の誤りがその後の日本文明の進展を誤らせ、「侵略戦争」へと駆り立てていったことは疑いがない。このあたりは大いに考えさせられるものがある。尤も、この章での井沢氏の「法華経」理解の浅薄さは気になる。日蓮仏法へのアプローチの仕方はことのほか弱い。今後どう修正されていくか興味を持って見守りつつ、私自身の持論を補強し確立してやがて世に問うていきたい。(2017・11・29 加筆修正)
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(232)西洋の神と東洋の仏の比較に及ぶー小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』を読む
友人との語らいの中で出てきた小坂井敏晶氏(パリ第八大学心理学部准教授)の著作に嵌っている。その友は『責任という虚構』なる書物を褒めたのだが、いかんせん、この本は難しそうでわたし的にはいまいち触手が動かない。というわけで、『社会心理学講義』から読むことになったのだが、そこらあたりの経緯は既に前々回の高橋和巳のことを書いたおりに触れた。その後、読んだのが『答えのない世界を生きる』である。これはまことに読み易かった。自伝風の趣きがあり、この人に興味を持った人間にとって、ウーン、なるほど、そういうことだったのかと彼の生い立ちや今に至る人物の背景が分って面白い。考えること、生きることを真正面から捉えて、あれこれと挑戦してみようとする人には圧倒的にお勧めだ▼早稲田大の東伏見グラウンドでホッケーに連日明け暮れていた青年が、やがてパリに飛び学問を志すにいたるお話は、戦後日本の若者たちの類型的パターンを越えて中々読み応えがある。私など小田実の『何でも見てやろう』から始まってありとあらゆる冒険譚をおいかけていくうちに、どこへも行かぬままに(冒険せずに)、齢(よわい)70を超えてしまった。そんな”この道50年”の爺さんにとっても、このひとの若き日の羽目外しは魅惑的である。但し、ここではそれには触れない。むしろ学問の道の進み方でユニークなところに惹かれる。文中、灘中の橋本武先生(中勘助『銀の匙』だけを使って授業したことで有名)のことに触れたうえで、パリの社会科学高等研究院での学び方も同じだったとしているくだりには首肯させられた。「私のアプローチを学際的だと評するひとは少なくない。しかし学問分野という意識が、そもそも私にはなかった。頭を悩ます問いがある。答がどこかに書いてないか。ヒントだけでも見つけたい。そこで先達の助けを借りる。そういう勉強の仕方である」▶こういう勉強の仕方で学んだ人が結局行きついた先は「答えのない世界」であった。「世界から答えが消え去った」とは一般的に西洋近代が重きをなす世界で口にされる。小坂井さんも「神は存在せず、善悪は自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった」として、「近代以前であれば、聖書などの経典に依拠すれば済んだ」が、いまは、「無根拠から人間は出発するしかない」ので「どうするのか」と、この書物を書いたわけを述べている。確かに、神が死んでからの近代ということになると、彼がいうように「答えのない世界」を手探りで歩くしかないのであろう。しかし、私の見解はいささか違う。それは「神も仏もあるものか」との云い方がなされるように、両者はしばしばひとまとめにされがちだ。だが、神は死んだかもしれないが、仏は存在している▼仏とは死んだ身を指すのではない。また神のように人間存在を越えた絶対者でもない。少なくとも日蓮仏法では、人として最高の境涯を持つに至った存在を仏と云い、全ての人間はその仏の命を本来内在化しているという。つまり、人間存在の外にある造物主としての神ではなく、仏とはわが内なる生命に本来備わっている人間存在の最高の極地の在り様を指す。そのパワーを引き出す方途が「南無妙法蓮華経」とお題目を本尊に向かって唱えることなのである。今や全世界において、悩みを抱えた人間がその行為をなすことによって解決の道を見出した実例、結果はあまた満ち溢れている。これは私に云わせると、旧来的なキリスト教に支配された西欧世界では、「神なき世界」=「答えのない世界」ではあるが、東洋仏教の最高峰・法華経を信奉する日蓮仏法では、「仏満ちる世界」=「答えを見いだせる世界」なのである。神と仏。西洋と東洋。21世紀中葉に向けて人類はいま、宗教観の一大転換を迫られつつある。(2017・11・21)
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(231)「死刑存続か廃止か」の議論を想起ー佐木隆三『復讐するは我にあり』を読む
世の中呆れるばかりの恐るべきニュースが後を絶たない。アパートの狭い自室に若い女性(男性一人を含む9人)を連れ込んで殺し、その遺体をバラバラにし、内臓はごみと一緒に捨て、頭を始め骨などは冷蔵庫や部屋の中に隠しておいたという事件がつい先日起こった。口にすることさえ憚られる嫌なニュースだ。過去に残虐非道な事件は数知れないが、この度のものは特筆されよう。別にそれに合わせたわけではないが、つい少し前に我が書棚に長く眠ったままにしてあった佐木隆三『復讐するは我にあり』を読んだ。この小説は実際にあったものを題材にしたノンフィクションで、映画化もされ話題になっただけにご存知の方は多いはず。かねてタイトルに惹かれて購入したもののそのままになっていた▼この小説は、残虐きわまりない殺人と狡猾かつユーモアさえ感じさせる詐欺犯罪とが入り乱れて出来上がっている。後者における悪知恵の発揮ぶりにはほとほと感じ入ってしまうほど。前半を読む中でなぜにこんな犯罪小説を読ませられるのかと幾たびか辟易したものだが、挟み込まれた知能犯ぶりの巧みさに次第に引き摺り込まれていった。警察を翻弄しきった逃避行が、最終的に幼女の直観に見抜かれるというエンディングもいい。著者はあとがきで40数年の作家生活を振り返り、この作品に最も愛着を感じている風を匂わせ、この小説の改訂新版にこぎつけ古希を迎え(78歳で逝去)て「もはや思い残すことはない」と語っているのが印象深い▼様々な読み方があろうが、この作品は、タイトルがある意味全てであろう。「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」(ロマ書)と表紙の扉にあるように、新約聖書の引用である。主人公・榎津巌がキリスト教の洗礼を受けているとの設定であることや、かつて交流のあった教誨師宅に逮捕寸前に足を運んでいることなど思わせぶりではある。キリスト教と遠い位置にある人間にとっては、”復讐する我”とは被害者の身内的なるものだと当然ながら想像してしまう。このあたり、「目には目を」なのか、「悪を犯した人間は自然の摂理の中で罰を被るもの」で納得できるのか、大いに判断は分かれるところだ▼これまた偶々なのだが、読売テレビ系の人気テレビ番組「そこまで言って委員会」で、死刑の是非をめぐる討論番組を観る(11・5)機会があった。いつもより以上の壮絶なバトルだったが、なかなか迫力があった。死刑存続を認めるか廃止するか、真っ二つに分かれての大議論は聞きごたえがあった。感情的には「死刑」は当然あっていいというのが自然だが、冤罪がゼロでない以上、命を奪う権利はいかなる場合もあってはならないという結論も無視できない。日本の現状にあっては、疑わしきは死刑にせずとの流れが横溢しており、現実には冤罪で命を奪われるというケースはほとんどないようだ。わたし的には死刑存続は止むをえないとの立場である。(2017・11・12)
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