Monthly Archives: 4月 2024

【126】「神の存在」がもたらす「不条理」━━カミユ『異邦人』を読む/4-27

 『異邦人』(1943年刊)という小説は、フランスの植民地アルジェリア(1830年占領〜1962年独立)の首都アルジェに住む若い男がある日、衝動的に殺人を犯してしまうことから始まる。その情景を中心に描かれた第一部と、殺人の罪を裁く裁判の経過を辿った第二部とから成り立つ。そこには読むものをして驚かせるような、何らかの劇的要素があるわけではない。ただひたすら暑い日に、何となく銃の引き金を引いてしまったとの〝不毛の説明〟があるだけだ。著者のアルベール・カミユはフランス領時代のアルジェリアの出身。彼はこの書に続き第二次世界大戦後に書いた『ペスト』など一連の小説が評価されて、1956年にノーベル文学賞を受賞している◆『異邦人』は、20世紀最大の文学作品の一つとして位置付けられているが、その理由の鍵を握るのは「不条理」との言葉だ。すじみちが通らない、理屈通りにいかないことを指す語句がこの小説を表すのに打ってつけとされ、以後の時代のひとつの潮流を説明する場合にしばしば用いられていく。「不条理」がキーワードとなっていく背景には、ヨーロッパ世界における「神の存在の否定」が色濃く反映する。言い替えれば、人間は本来的に何ものにも縛られることのない「自由な存在」だということになる。裏返せば、何をしても許されるということに繋がるのかもしれない。何世紀にもわたって信仰に真面目な人間の軛(くびき)になってきた〝神の呪縛〟からの開放を意味するものと捉えられよう。かつて若き日の私も、サルトルの『嘔吐』に魅入られ、カミユの『シシュポスの神話』に惹きつけられ、「実存主義の哲学」に〝根拠の薄い〟憧れを抱いたものだ◆カミユは『異邦人』を『きょう、母さんが死んだ。きのうだったかもしれないが、わからない」との有名な書き出しで始めた。それに対して、独立後のアルジェリアで生まれ育った作家・カメル・ダーウドの『ムルソー再捜査』(2013年刊)は、「きょう、マーはまだ生きている。彼女はもう何も言わない」で始まる。明らかに前者を意識し、逆転させた書き出しである。『異邦人』の中身を受けて改めて吟味する試みだ。ほぼ70年遅れて、被害者の側からの反撃がムルソーに、つまり著者・カミユに突きつけられた。ダーウドは、ムルソーに殺された名もなきアラブ人の弟・ハールーンの立場から、反植民地主義の狼煙を上げる。しかし実は、この積年の恨みを晴らすかのように立ち上がったハールーンはまた、過去にフランス人を殺していた。しかも、アルジェリア独立戦争下ではなく、平和な日常生活のさなかに。大義なき、正当化不能の行為だった。その立ち位置はまるでムルソーと一緒だったのである◆キリスト者とイスラームと──カミユが描いた人物の対極にあった男は、信仰の対象は違えど、崇拝すべき神の束縛からは自由であるとの一点で、共通していた。この興味深い小説の登場について、現代世界文学の研究者たちは、『異邦人』への回帰現象と捉える。「他者への無関心や社会に対する反抗と、この世に対する深い愛着をあわせもつ主人公(ムルソー)の姿に改めて思い至る」(野崎歓放送大教授)といい、「強靭な否定性と根源的な肯定性の融合」に、カミユが作り上げた人物像の不思議な魅力があると捉える。さらにこの文学作品上の連鎖が、次なる新たな文学を生み出し行く契機になるというのだ。その繋がりの妙もさることながら、私は仏教との関連を考えてみたい。前掲の宗教と違って「釈迦から日蓮へ」と続く大乗仏教の本質は、神への捉え方が全く異なる。このため、神の束縛は元々ないし、「不条理」に悩む環境も想定しづらい。このあたり、居住まいを正し、稿を改めて考えていきたい。(2024-4-28)

 

 

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【125】あくなき「言説空間」の展開しかないのか━━自衛隊を活かす会編『戦争はどうすれば終わるか?』を読む④/4-20

 看板に偽りあり──この本の第4章(最終章)は、「戦争を終わらせた後の世界に向けて」がタイトルであるが、これにはいささか驚いた。『戦争はどうすれば終わるか?』という本のタイトルを信じて読み進めてきたのに、ゴール前に、いきなり「終わらせた後」が来るっていうのは、はぐらかされたみたいに思われる。尤も、「自衛隊を活かす会」事務局は、当初はウクライナ戦争をどう終わらせるかに、問題意識はあったものの、「議論を始めてみると、終わらせる対象の戦争というものをどう捉えるかを抜きにしては、個別の戦争の終わらせ方も論じられないことが見えてきた」と正直に「断り」を入れている。加えて「ガザの人道危機」も遅れて起こった。要するに、当初の狙い通りにはことは運ばず、看板はそのままにして、つまり答えは棚上げにして、いつ終わるともしれない「戦争後の世界」を4人に寄稿して貰ったというかたちに変更しているのだ。読者としては不満だが、著者たちの苦悩を推察して、「ま、いっか」という他ない◆ところが、現実には4人の寄稿は精一杯終わらせ方へのアプローチをも率直に「難しい」と逃げずに言及している。事務局としてはあらかじめ防御壁を張っておいたということなのだろう。伊勢﨑さんは「戦争は避けられない人間の性だと認めざるを得ないのが現実」と述べた上で、「世界を巻き込むふたつの大きな戦争が進行する現在、〝正義〟を言い募る言説空間が荒れ狂う中で、今ほど停戦を求める言説空間が必要な時はない」と律儀に訴える。加藤さんは、停戦、解決に向けて「現実空間において、どちらか一方あるいは双方が、戦闘の意志と能力のいずれか一方、あるいは両方を失うこと、そして言説空間においては現在の対立を止揚する新たな言説、すなわち新たなシステムを構成する統制的理念とそれに基づくシステムの構築が必要」という。難しい言い回しでわかりにくいが、「停戦、解決が非常に困難になっている」ことと大差はない◆さらに林さんは、「中国がプーチンの戦争の停戦、あるいは終戦に向けてどのように動くか30年戦争(1618-1648年)の示唆を強く意識する」として、習近平が仲介の適役であるという「牽強付会」をひとり大胆に試みている。柳澤さんはウクライナ戦争について「(ウクライナは)異国に支配され、抑圧される状態を平和とは言えない。さりとて、果てしない殺戮を止めたい気持ちもある。だから停戦は難しく、平和はなお難しい」「ただ平和を叫ぶだけでは、多分、平和の力にはならない」と、当然すぎることを述べる。一方パレスチナの事態についても「『テロとの戦い』や、『国の自衛権』といった既存の概念で理解しようとしても理解できない」し、「武力で殲滅しても、パレスチナの人々が追い込まれた状況が変わらなければ問題が解決しないことは分かりきっている」と、結局は、「こうして、あらためて自分の知恵の足りなさを思い知らされている日々です」と、正直に白旗を掲げている◆以上、4人の筆者たちの長広舌を部分的に勝手に切りとって、ご本人たちには不本意なことを敢えて承知の上で、戦争の終わらせ方についての言及部分を並べてみた。敢えて整理すると、現実空間に関わる具体的見立ては、唯一、林さんの習近平の仲介役への期待だけ。一方、伊勢﨑、加藤のお2人は、現実空間をひっくり返すぐらいの強烈な新たな言説空間を構築せよと言っている風に読み取れる。戦争終焉への国際的世論の高まりへの期待である。さて、〝この本からの学び〟をまとめてみて思うことは、日本での2つの戦争への関心はいたって弱く、停戦、休戦への世論のうねりは極めて弱いように思われる。最後の最後に、柳澤さんが「自衛隊と戦争との関係」に触れて、「自衛隊が進んで戦争を求めることはないし、あってはならない。それは政治が決めるべきこと」であり、その政治の選択は国民に跳ね返ってくるのだから、「一国民として戦争とは何かを考える」と結んでいる。この本の企画者としての本心である。東アジアに戦争事態が起こった際にどうなるのか。どうすべきか。戦争を決める政治の世界に今も関わる身として、与党・公明党に「非戦の安全保障」に十分なる備えと覚悟があることを強く期待する一方、一人ひとりの国民が自らの考えをしっかりめぐらせようと訴えたい。(2024-4-20  この項終わる)

 

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【124】「ガザの地獄絵図」という現実━━柳澤協二、伊勢﨑賢治、加藤朗、林吉永『戦争はどうすれば終わるか?』を読む③/4-15

 さて、もう一つの戦争──ガザにおけるイスラエルとハマスの戦いについては、昨秋10月7日のハマス側からの急襲によって火蓋が切られた。4人の緊急寄稿がこの本の第3章に並ぶ。まず、それぞれの主張を要約する。まず柳澤氏から。国連総会(10-27)でヨルダンが提案した休戦決議に121カ国が賛成。反対したのは米国など14ヵ国のみ。G7各国は日英など6カ国が棄権(仏は賛成)し、戦争を止めるのに反対はしていない。BRICS首脳会議(11-22)では、双方を非難しつつ、「停戦と市民保護のための国連部隊の派遣を本気で考えなければならない」と提案めいた指摘をしている。加藤氏は、イスラエルの苛烈極める報復について「言語空間では、親パレスチナ、反イスラエルの言説が膨れ上がって」おり、「中東を超えて反イスラエル感情は世界中を覆っている」と率直に語っている◆林氏は、「ハマスの攻撃がイスラエル側の『怨念・憎悪」に火をつけ『ハマスに対する殲滅戦争』を決断させている」とし、これを止める手立ての困難さを訴えた上で、「先の大戦後、70余年も『非戦・避戦』を貫いた日本」こそ、その「時代精神を造る国際社会の旗手」たれと、重要な呼びかけをしている。さらに伊勢﨑氏は、イスラエルが「『事前予告』を盾に攻撃を正当化している」ことについて、「国際人道法が戒めるのは、事前予告の有無ではなく、あくまで攻撃の【結果】である」として、「ガザの人口の約半分の110万人の強制移動そのものが国際人道法違反、つまり戦争犯罪」だと、厳しく断罪。結論として「イスラエル軍のガザ侵攻の結果がこれからどうなろうと、ハマスは、すでに勝利しているのかもしれない」とズバリ。このように、戦争が勃発した直後のことではあるが、4人とも一致してイスラエルへの非難を強調している◆その後の状況の変化を踏まえても、両者を取り巻く基本的な構図は変わっていない。つまり、「言説空間」における「地獄絵図」のガザを救えとの支援を求める声は強いが、「現実空間」でのイスラエルの強引な力づくでの殲滅作戦は進行している。その背後には米国の不決断という曖昧な側面のあることが見逃せない。イスラエルを口で非難しても、力の行使を翻意させるだけの実効力を伴わないようでは、「平和」は絵に描いた餅に終わるのは当然である。この問題をめぐる日本の受け止め方は、この4人と相通ずるものが多い様に見受けられるものの、イスラエルの側に立つ向きも少なくない。外交に通暁した著名なある作家は数ヶ月前のことだが、先に仕掛けたハマスの責任を非難していた。こうした角度については、伊勢﨑さんが「イスラム学、安全保障論の研究者の一部に、〝ハマス殲滅〟を掲げるイスラエルのガザ攻撃を支持する声が聞こえる」として、「『人間の安全保障を犠牲に国家の安全保障を優先させる御用学』に成り下がっている」と手厳しい評価を下しているのが印象深い◆イスラエルとパレスチナは、共に世界史の上で、領土をめぐって特異な位置を占めてきている。〝ナチスのユダヤ人虐殺〟に見るように、イスラエルは想像を絶する〝地獄の苦難〟の挙句、シオニズム運動の果てとして新天地を得た。一方、パレスチナには〝英国の三枚舌〟に騙され、本来の自分達の住処をのちに来た他民族の故に、追い出されてきた〝辛苦の経緯〟がある。しかし、この地での争いに、ユダヤ人もいけないがパレスチナ人も、といった、〝どっちもどっちの喧嘩両成敗的見方〟は否定されるべきだろう。早尾貴紀東経大教授の「ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である」(『世界』5月号)との論考における、欧米の人種主義と植民地主義の歴史全体の中に根本的原因があり、日本も無罪たり得ないとの言及には目が醒める思いがする。多くの日本人の平凡な世界観を打ち壊すに十分過ぎるといえよう。ここは、国連を中心に、今に生きる人類の知恵の証しを打ち立てる以外にないと思う。そこには過去の歴史から見て、欧米よりは未だずっとフリーハンドの身にある日本に出来ることがあるはずだと確信する。(2024-4-15一部修正)

 

 

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【123】現実空間と言説空間の大いなる落差━━柳澤協二、伊勢﨑賢治、加藤朗、林吉永『戦争はどうすれば終わるか?』を読む②/4-7

 現実空間と言説空間の相互作用──社会における現実の動きに対して、それを解釈する言葉が影響を及ぼし合うことを意味する。ごく卑近な例でいうと、現実が人の噂で左右されて、噂が噂を呼んでやがて現実にまで変化をもたらし、それがまた現実を変えてしまうことだといえようか。この本では、加藤朗氏がウクライナ戦争をめぐってのこの両空間にまつわる問題提起をし、それを受けて4人が戦争解決へのカギを握るものとして議論していく。世界の関係各国を始め、日本でもほとんどの人が現実には行ったことも見たこともないウクライナの現場を、当事国の政治家の発信やら国際政治学者、軍事専門家らの解説、評論をメディアを通じて聞いて、あれこれ論じている。それが開戦以来の現実の事態を変え、停戦を難しくしているというのだ◆加藤氏の「戦争は情報の相互作用である」との発言は実に刺激的なもので、この本の白眉だと思われる。この人は開戦直後の2022年4月1日に「矢も盾もたまらずに、という感じで」ウクライナに向かった。国際政治学者として戦争の現場で「戦時」のありのままを見て、なぜこんなことが起きるのかを考えたかったのだと思われる。しかし、「実際に戦時下にあるウクライナに行ってみても情報がないので戦争がどうなっているかは分かりません」。その上で学者として、考え抜いた所産が、「言説空間の二分化」であり、それが現実の戦争に影響を与えているというものだ。当初は停戦交渉への機運があったのに、「ブチャの虐殺」の情報が拡散して一気に変わった。その後の両国間の応酬や取り巻く国々の動きから、今では、この戦争は「欧米などの民主主義国家集団と露中など専制主義国家集団の対決という言説」を生み出した、というのだ◆これを受けて、柳澤氏は、「今までの地政学的な対立──東西の対立とか、あるいは大陸国家と海洋国家の対立とか、さらには専制主義と自由主義の対立とか」といった観点からの解釈にはまり込むことを否定する。むしろ、国際秩序が大きく変わる節目にあるとの位置づけに留め置いて、そこから先の方向を予め決めてはいけないというのである。さらに具体的に、政府が2022年12月に閣議決定した「『国家安全保障戦略』にあるように、ウクライナ戦争を専制主義に対する戦いであると定義してしまってはいけない」と、手厳しい判断を下している。加えて「そんなことをしたら、この先、戦争の世紀が待っているという結末にしかならない」と。積極的に停戦交渉を進めようとするなら、戦争当事国の枠組みを勝手に決めるなどと言った余計な判断は棚上げにすべきだというわけである◆このテーマでの伊勢﨑氏の発言はまた興味深い。プーチンは開戦前の2021年秋にウクライナの「非ナチ化」──つまり東部ウクライナのロシア系住民が受けている圧政から解放する──を言い出しており、これが日本を含む西側社会の言説空間を支配した、という。これをロシアがするということは、体制転換、レジームチェンジすることであり、広範囲な軍事占領を長期にわたってするしかないことを意味する。果たしてそんなことがロシア一国でできるのか?問題を提起した同氏は、ロシア人専門家の言を引いて、プーチンの真意は、ウクライナの「内陸化」だろうというのだ。黒海に面した地域部分を制圧して、ウクライナが外洋に出られないようにする狙いが本当のところではないのか、と。こうした議論を聞くに付け、戦争の成り行きが極めて困難を極めていることが分かろうというものだ◆この討論を読んでいて、元航空自衛隊の最高幹部であり、戦史研究家の林氏が、日本人はウクライナの戦争を茶の間で食事しながらテレビで見ているが、その戦争観のベースはどこにあるのか気になると、根本的な疑問を投げかけている。第二次世界大戦後78年が経って、いわゆる先進国家群の中で、唯一戦争の当事国になったことがない日本。大震災が起こるたびに、自衛隊の活躍を有り難く思っていても、戦争は海の遥か向こうの遠い国で起こるものと思い込んでいる人々が殆どであろう。かく言う私も、戦争を語り、平和を論じる言説空間ではそれなりの役割を果たしていると自負してはいるものの、現実空間については、殆ど無知であると告白せざるを得ない。そんな身でありながら、ウクライナ戦争を語る時に、単純な二分化の解釈に加担してきた。これについての弁明は稿を改めたい。(2024-4-7  つづく)

 

 

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