Monthly Archives: 5月 2017

(211)腰痛にはカイロが一番?ーS・シン&E・エルンスト『代替医療のトリック』を読む

私は実は38年間にわたっての腰痛持ちだった。22歳から60歳の年まで。この間は年がら年中腰がじくじくと痛く、特に朝の寝起きはつらかった。原因は社会人になったばかりの時に、スティール製の大きな机を一人で持ち上げたとたんギクッと来た。いわゆるぎっくり腰だ。整形外科にかかったのだが、治る気配は全くなかった。ありとあらゆる治療を試みたが、満足できなかった。それが、還暦を迎えた頃から古希過ぎの今までの10数年間、完全に治った(勿論、腰に負担のかかるような無理をした時を除いて)との実感がある。どうしてか。一つは腹部を中心に痩せたこと(これは病気のせいだが)。二つはカイロプラクティック治療(以下、カイロ)が効いたこと。三つはストレッチ体操のお蔭だ。この何れが欠けても今の私の腰はないと自負している。ぎっくり腰から脱却出来たとの手応えならぬ腰ごたえを持ったのは厚生労働副大臣時代。省の建物の10階にある副大臣室までエレベーターを使わずに歩いて上がったものである▼カイロとの縁は、実はその時点まで、つまり厚生労働省の仕事をするまではなかった。それが縁が出来たのは、日本カイロプラクターズ協会から陳情を受けたことがきっかけ。日本において市民権がない団体をもっと引き上げてほしいという意味の要請だった。私は、自分の腰の実情を話し、これが治るようなら尽力したいといった。全く嘘のような話だが、この時にきた村上佳弘事務局長がそれから数回にわたって治療を施してくれた結果、前述したようなことになったのである。ということから、この10年あまりカイロ愛好家になり、あれこれと支援もしてきた。近く、私の電子書籍『早わかり10問10答シリーズ』の第三弾として『腰痛にはカイロが一番』(既刊は、『みんな知らない低線量放射線のパワー』と『クマと森から日本が見える』)を発刊する準備もしている。まさにそんな折も折、畏友・志村勝之(カリスマ臨床心理士)から本が送られてきた。サイモン・シン&エツァート・エルンスト(青木薫訳)『代替医療のトリック』である▼この本の著者は、科学ジャーナリストと代替医療分野の大学教授。鍼、ホメオパシー、カイロ、ハーブの4分野を主に取り上げ、そのトリック性を暴いている。最も私の関心が高い「カイロプラクティックの真実」なる章を中心にざっと目を通した。カイロ治療とは、脊椎を構成する椎骨のズレを手技でただすこと。米国発の治療法だ。日本でも治療院は数多いが、誤解も数多い。多くは、首をギクッと回されて却っておかしくなったといった類いのトラブルから起こっている。この本を読むまで米国の実態は知らなかったが、さすが本場。実にあれこれと実例が示されている。創始者ダニエル・デーヴィッド・パーマーやその後継者たちの特異な個性もあって、当初はあらゆ病気に効く「哲学、科学、芸術である」とされてきた歴史を持つ。通常の医療関係者からこの辺りは殆ど狂気の沙汰と見られてきたのである。著者らが「科学的根拠によれば、腰痛に直接かかわる問題を別にすれば、カイロプラクターの治療を受けるのは賢明ではない」としているのは、ある意味当然のことに違いない。わざわざ「注意してほしいこと」として、カイロへの6項目の警告を発している。最後の「腰痛でカイロプラクターにかかる前に、通常医療を試してみよう」とのくだりには思わず笑ってしまう。「そうだよ。通常医療でダメだからカイロに来たんだから」と▼ここでいう通常医療とは科学的医療と言い換えていいだろう。それに対して擬似科学的医療とでもいうべきものがカイロなどの代替医療だ。臨床心理士の志村氏は、医療にはこれらに加えて物語的医療がある、と3分類化している。こころに関する代替医療をして、彼はそう規定するのだが流石に言いえて妙である。この分野でも鬱(うつ)を始めとする心の悩みを持つ人々が後を絶たない。いわゆる神経内科医たちが十全たる役割を果たしていないだけに。ところで、朝日新聞の書評(2010・3・21付け)で、広井良典千葉大教授が、通常医療にも「有効性が厳密に確証されていない療法が多い」とする一方、「心身相関や慢性疾患等の発生メカニズムの複雑性を考えた場合、著者らのいうような検証方法は限界を有する」とまで述べており興味深い。「現代医療論」として読む場合、「本書の議論にはやや表層的な物足りなさが残る」としているのには、ちょっぴり溜飲が下がる思いがする。広井氏は最後に、本書の議論を契機にそもそも「病気」「科学」「治療」とは何かといった現代医療をめぐる根本的な問いの掘り下げを、と求めている。この終り方はいささか定番だと思うのは酷だろうか。
(2017・5・28)

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(210)「ホンマは好きなくせして」ー井上章一『京都嫌い』を読む

『京都嫌い』なる新書の存在を知ったのは、発売間もないころに、ラジオでの著者のインタビュー番組であったかと記憶する。井上章一(国際日本文化研究センター教授)さんが語っていたある部分で笑ってしまった。彼がいかに京都嫌いなのかの思いのたけを語った後に、その本を平積みにした京都の本屋さんで、「ホンマは好きなくせして」とのフレーズが添え書き風に、張り出されていたことを発見したと紹介していたのだ。この本屋の店主はなかなかの優れものである。ただし、何故か私は読む気があまりせず、放置していた。で、このほど京都で顧問先の京都支部の催しがあり、スピーチをせざるを得ないことになって、急ぎ読むことにしたしだいである。新快速で京都までの1時間半でほぼ読めた■簡単にいえば、ここで著者が嫌いだとする対象の京都というのは、洛中の人を指す。ものの本というより、ネットで調べたところ、洛中とは、北は北大路から南は九条通まで、東は高野川・鴨川(東大路)から、西は西大路通までの地域を云うとのこと。要するに平安京時代の京城内を指し、最も中心部を意味する地域のようだ。中国の洛陽に対比させている。著者は、嵯峨生まれで今は宇治に住む。そういった京都でも周辺地域は洛外といって差別の対象になってきたことの怨念の限りを実に面白いタッチで描きそやす。「洛外でくらす者がながめた洛中絵巻ということになろうか」と、まえがきでは綺麗に書いているが、なんのなんの、私にいわすれば、京都とは名ばかりのよそもんが、ホンマの京都人から蔑まれたいけずの限り、ということになろうか。これまで色々と京都を案内したり、その歴史や見どころを描いた本は数多あり、私も何冊か読んできたが、これはまた異色の本である。まあ、あまり京都を知らない人にはお勧めしない。いきなりこんな風な京都観を持たれては、どちらにとっても気の毒だからだ。むしろ京都通を自負している方にはお勧めしたい■先日、私が親しくする新聞記者が冬場に京都に取材にきて、町家風の旅館に泊まった。その寒さにあやうく風邪をひきそうだと狼狽(うろたえ)てメールをしてきた。町家に憧れるのもほどほどにしないと身が持たないかもしれない。麻生圭子さんの『京都で町家に出会った。古民家ひっこし顛末記』『京都暮らしの四季』などといった女子好みの本を読んできた私だが、これらは歯応えはあまりなかったと記憶する。それにしても私のように、姫路生まれの神戸育ちからすると、京都は羨ましい限りだ。世界文化遺産・姫路城を持つ姫路は観光地として進境著しいとはいうものの、京都とは比べるべくもないし、これから私が売り出しに取り組もうとする淡路島にいたっては逆立ちしても及ばない。これは、光源氏が島流しされた地として、須磨や明石を『源氏物語』で描いた紫式部のせいではないかと僻みたくもなる。尤も、「大阪では京都に近いことが、しばしばからかいの的となる」「京都をみくびる度合いは、大阪が一番強い」などといったくだりに出会うと心騒ぎ、我が体内の京都心酔の度合いの高さがしれようというものだ■軽く読み進めて行ったなかで、歯応えを感じたのは第四章「歴史のなかから、見えること」。とりわけ、「京都で維新を考える」のくだりは実にすっきりした。「フランス革命とちがい、明治維新は無血うんぬんという話に、私はなじめない」とあるのに、正直に言ってかつての私なら反発しただろうが、今では全く同感する。幕末の京都を幕府の側からまもっていたのが会津藩士であったことや、明治維新の延長線上に、あの大戦での敗戦があったと位置づけ、「維新のおたけびが、ああいう膨張をあとおしし」、「江戸時代にためこまれたエネルギーがいきおいよくあふれだした」との史観にも共感する。NHKが先年放映した大河ドラマ『八重の桜』で、会津小鉄会の存在が黙殺されたことに憤りを感じて、あえて書きとどめたいなどとしているところにも。最後に、著者は、決して京都・洛中については、ホンマにすっきゃないことを感じた。お好きなのは洛外を含む広い意味の京都であるということを、あえて付言しておく。(2017・5・21)

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(209)ヨーロッパの近未来を大胆に予測するーM・ウエルベック『服従』を読む

フランス大統領選挙の結果は、普通の日本人をしても安堵させるものであった。マクロンという39歳史上最年少の若者の当選によって、極右とされるマリーヌ・ルペン氏の登場を阻止しえたからである。トランプ米大統領の「アメリカファースト」で辟易しているところに、「フランス第一」を掲げる人物がヨーロッパのど真ん中に風穴を開けては、もはやEUは死に体になること必定ともみられた。今日の事態を作り出す先駆けはイギリスのEU離脱だった。そのニュースで大騒ぎをしている最中に、ミシェル・ウエルベック(訳・大塚桃)『服従』を読んだ。フランス大統領選を舞台に、既成政党の退潮を横目にしながら、極右・国民戦線のルペンと穏健イスラーム政党のモアメド・ベン・アッベスが決選投票に挑むという内容。「シャルリー・エブドのテロが起こった当日に発売された近未来思考実験小説」という触れ込みは極めて刺激的だった■ウエルベックという人物は、「現代社会における自由の幻想への痛烈な批判と欲望と現実の間で引き裂かれる人間の矛盾を真正面から描き続ける現代ヨーロッパを描き続ける現代ヨーロッパを代表する作家」というが、今まで恥ずかしながら知らなかった。それを読む気にさせたのは「フランスの政治的・思想的・霊的な劣化という現実を自虐的なまでに鮮やかに摘抉。細部が異常にリアルで、もうほんとうのこととしか思えない」(内田樹)とか「こんなことは起こらない……たぶん……いや、もしかしたら」(高橋源一郎)などという一連の著名な評者たちの読後感である。本を買わせよう、読ませようという出版社の戦略とはわかってはいてもこれだけ焚き付けられると、もはやじっとしていられなかった。しかし、読んでみて正直な印象は、私のような純粋・現代日本人(ヨーロッパ特にフランス事情に疎い、ドメスティックな爺さんという意味)にとっては、性的退廃部分の描写ばかりに目が及ぶ、かなりの冗談っぽい本であるといった具合のものである。この本のコア部分については、いまなお半信半疑である自分を感じざるをえない■この本の主人公は、文学を教える大学教授。政治とは距離をおくインテリの代表として描かれる。今から5年程先のフランスでイスラム政権が成立するとの設定のもと、ムスリム(イスラム教徒)しか教鞭がとれなくなり、主人公は解雇される。しかし、その後、彼はムスリムに改宗し大学教授に復帰する道を選ぶという筋立て、だ。つまりは「服従」の道を選んだわけである。移民問題が欧州を席巻し、今回の大統領選挙でも「EU離脱の是非」を問うことが表向きの焦点であった。しかし、真実のところは「移民は出ていけ」との国民戦線の主張をめぐる賛否だった。辛うじてルペンの強硬な意見は退けられたが、この小説では次なる設定としての国民戦線とムスリムとの直接対決が描かれ、ムスリムの勝利を予言する。そんなことが起こるはずがないというのは大方の予想だろうが、実際には分からないというのが日本の識者たちをも含む多くの現代人の危機感だろう■「服従」というタイトルに込められた意味を、この本の解説で作家の佐藤優氏が語るくだりが興味深い。彼は、ソ連崩壊後に、それまで忠実な共産党員だったインテリたちが一瞬にして反共主義者になったとしたのちに、「この人たちは、目の前にある『世界』をその全体において、『あるがままに』受け入れたのである」と。これはまた、先の大戦後にそれまで反米に凝り固まっていた多くの日本人が一瞬にして米国を受け入れたことと酷似している。最後に佐藤氏は「『服従』を読むと、人間の自己同一性を保つにあたって、知識や教養がいかに脆いものであるかがわかる。それに対して、イスラームが想定する超越神は強いのである」と結んでいる。この小説の示す将来予測及び人間認識は、私のような日蓮仏教の世界広布を目指すものにとってもまことに意味深長である。それは人間の知識や教養のいざという時の脆さとともに、宗教的意志の体内定着度の強弱をも慮らざるをえないところにある。数多ある仏教各派の中で、たった一つ現代において世界宗教を目指すSGIのこれからをも考えるうえで、それなりに参考になる本ではあった。(2017・5・14)

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(208)田中角栄らは晩年をどう過ごしたか ー関川夏央『人間晩年図巻 1990-94年』を読む

郷土・兵庫の生んだ医師にして作家の山田風太郎さんは私の好きな作家のひとりだが、その作品のうちで最も惹かれるのは『人間臨終図巻』の上下2冊。これは自分の誕生日が来るたびに、その年齢で死んだひとのところを読むことにしている。今年72歳になるので、11月26日には、そこを読むはず。尤も、山田さんが亡くなってからは続編を書く人もいない。ところが作家の関川夏央さんが『人間晩年図巻1990-94年』なる本を書き、ある意味で先輩の衣鉢を継ぐ仕事をした。一年前に出版され、読みかけたままにしていたものをこのほどようやく読了した。1990年から94年までの間に亡くなった36人ほどが取り上げられているが、私より年上は9人だけ。後は全て年下になる。死に至る病の種類から、死にざままでそれこそ千差万別だが、大いに参考にしようとそれなりに懸命になって読んだしだい■1990年代前半はどういう時代であったか。ベルリンの壁が崩壊し米ソ対決の時代から、米国一強の時代へと変化したかに見えるものの、湾岸戦争が勃発したことに対して国連の対応ぶりが注目された。私的には、苦節足かけ5年を経て衆議院議員に初当選したのが1993年7月。時の総理は宮澤喜一氏から細川護煕氏へと交替。今に至るまで続く連立政権の幕開けとなった頃である。経済的にはバブル絶頂から崩壊の流れが定まってきた頃とも重なり、「失われた20年」と後に呼ばれる時代の始まりでもある。団塊の世代がまさに世の中の中心として活躍していた時代でもあり、その頃に亡くなったひとはある意味で社会的、経済的に幸せな時代の絶頂期に亡くなったといえなくもない■田中角栄元首相が亡くなったのは93年12月16日。75歳だった。「父の恨みを娘が継ぐ」とのサブタイトルのついた9頁分は、父親とは私が新聞記者時代に取材し、娘さんとは同僚議員として付き合った関係だけに読み応えがあった。公明党の先輩政治家と自民党の派閥の領袖との関係は、一般的に「田中と竹入」、「竹下と矢野」、「小沢と市川」といった組み合わせでパートナーのように見られてきた。それぞれの全盛期にカウンターパートとして活躍してきたから当然ながら関係も深かったに違いない。田中角栄氏については、このところ石原慎太郎氏や石井一氏らがそれぞれ自伝めいたものを書き話題を呼んでいるが、戦後史の中でこのひとほど毀誉褒貶の甚だしい政治家も珍しい。番記者として付き合った連中が、当の相手が鬼籍に入った今なお誇りにしている数少ない政治家だろう。大学時代の同期で、読売の番記者だった神田俊甫君などその代表株だ。関川さんが描く晩年の角さんはひたすら酒びたりのひとの印象が強い。ロッキード事件で「はめられた」うえでの首相辞任が56歳のとき。それから20年間は恨みと悔しさの歳月だった■娘の田中真紀子元外相には「(父親の持つ)度量の広さと現実感覚をともに置き去った娘が、父親の一種強引な雄弁術と『恨み』を受け継ぐだけでは、政治家としてははなはだ不十分だった」と手厳しい。親父のことを書けば十分なはずのに、娘さんをこういうような扱いをするのはかわいそうな感じがせぬでもない。彼女が衆議院外務委員長時代に、公明党理事として短い間だっただけどやり取りをしたことがある。往年の輝きはすでになく、親父さん譲りのだみ声もどきが響いたとの記憶がある。数ある角さん語録のうち、関川さんが記す「愚者は語る。賢者は聞く」「記者は懐に入れても蛇は蛇」などいかにも彼らしい。私は「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭(旧名)さんについて書いてほしかった。彼女は歌手・小林旭の”たにまち”であり、何を歌っても”旭そっくり”(旨いのではなく、声が似てるだけ)と言われる私を、彼に会わせてくれたひとだからである。ちなみに、歩きながら旭さん本人に「私の名前が変わります」「ごめんね」「もう一度一から出直します」「お世話になったあの人へ」の4曲の替え歌のさわりを聞いてもらった。蛇足ながら「平民宰相・田中角栄」に免じてお許しを。(2017・5・7)

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