原爆投下後77年。これまで核兵器をめぐる〝本格的な議論〟は日本ではなされてこなかった。つまり核廃絶と核抑止の双方を冷静に一つのテーブルの上で論じることはなかったということである。世界で唯一の被爆国として、核廃絶は当然のことであって、核抑止などという考え方そのものが間違いだとの立場が隠然とした力を持ってきた。いわば、建前が本音を押し隠す風景が常態だったのである。しかし、この本での軍事・外交の専門家4人の座談会は、核兵器をタブー視せず本音ベースで語り合った、一般人にとっては珍しい本である。時あたかも、ウクライナ侵略におけるロシアによる核使用が現実味を増す中での出版。緊張感が漂う只中、核兵器をめぐる広範囲な角度からの問題提起がなされており、実に読み応えあり興味深い内容である◆私は核廃絶の立場から、核抑止の議論にどう対抗するかの観点に拘ってきた。この座談会では率直に言って、1対3。核廃絶に基盤を置く論者は太田昌克氏(共同通信編集委員)だけ。あとはいずれもそれは「理想」であり、国際政治の現場では意味をなさないとのスタンスに立つ。あたかも3人の老獪な大人にきまじめな青年が虐め、諭されている赴きなきにしもあらず。現状は百もわかった上で、「理想」にこだわり、「現実」をどう変えていくかの議論を組み立てていくことに関心を持ちたい。この本は様々な受け止め方があろうが、私は太田氏の主張に与する立場から、従来からの核のタブーを乗り越える議論をどう組み立てるかに関心を寄せた。この本の本来の趣旨と反対側から考えよう、と。読み終えて改めてスタートに立ったとの思いが強い◆最大の読みどころは、以下のくだり。核抑止派の兼原氏の「お互いに怖いから撃たない」ための議論が大事で、「戦いを始めないために、万全の準備をする」のであり、「構えていないから戦争が始まってしまう」という論理に対して、核廃絶派の太田氏が「そういう局面に持っていかないような他の努力、外交戦略があってしかるべきではないか。なぜそこまで究極のシナリオを考えて、そこへ突き進んでしまうのか」とのやりとりである。それに対して、兼原氏が「それは逆だと思います。最悪の究極シナリオを考えて、その地獄が見えるから、小競り合いの段階からやめようというのが核抑止の議論」だと押し返し、太田氏が「そこはそうかもしれませんが‥‥」とつぶやいて、終わっている。この情景は、恐らくこの場面での登場人物の「歳の差」と「多勢に無勢」がなせるわざだろう。背景に浮かぶのは、昔ながらの「恐怖の均衡」論と、「平和の外交」論という、現実派と理想派の対立である◆「恐怖の均衡」があったればこそ、キューバ危機を頂点とする「米ソ核対決」は本当の地獄を見ずに済んだのかもしれない。だが、その後の世界はまた違った風景を生み出すに至っている。今回のプーチンの核恫喝は「強者の狂乱」かもしれないし、北朝鮮による「弱者の恐喝」は、いつ何時、新たな地獄を起こすやもしれない。つまり、兼原氏のいうような地獄の局面を見る見ないに関わらず、各地域の首謀者の想定外の行為は起こりうる。それをどう防ぐのか。「恐怖の均衡」は〝ワルの火遊び〟に加わることだとの危惧は拭いかねないのだ。尤も、従来通りの「もっと平和外交を」の声も、〝善人の空騒ぎ〟に終わるかもしれない。結局は、この本での唯一の合意点とされる「国民の目に見える形で現実的な議論を戦わせることの必要性」に落ち着く。ああ、それにもう一つ。兼原氏が繰り返す「政治家の資質の向上」も見落とされてはならないのだろう。(2022-3-28)