「ポピュリズム」(大衆主義)を考えねば、と思ったきっかけは、尊敬する先輩が晩年にしきりに「ポピュリズムについて考えねば」と言っておられたからである。もちろん、外にトランプ前米大統領の華々しい動き、内に大阪維新の会の創始者・橋下徹氏の旋風といったポピュリズムの実例がある。民主主義(デモクラシー)の機能不全ともいうべき事態に代わって登場したとの認識が一般的だが、ともかくあれこれと事態は錯綜しているかのように見え、一筋縄ではいかない。手始めにそのものずばりのタイトルのこの本を選んで考えることにした◆定義をめぐって著者は、「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴えるカリスマ的な政治手法」と「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」との2つがあるという。さらに学者によっては、「政党や議会を迂回して、有権者に直接訴えかける政治手法」(大嶽秀夫)や、「「国民に訴えるレトリックを駆使して変革を追い求めるカリスマ的な政治スタイル」(吉田徹)などといったものもあると補足されている。要するに民主主義のもどかしさを補おうとするもの、いわば「異端児」と、おさえたい。キーワードは、人民大衆、反エリート、カリスマ的手法といったところである◆民主主義が登場する以前には、一般的には「封建的専制主義」なるものが幅を利かせ、人びとに「自由」はなかった。一般大衆を率いるカリスマ的存在が全てを牛耳っていた。それに代わるものとしての民主主義は、「直接」と「間接」の2種類あって、直接民主主義が理想ではあるものの、現実の展開は難しい。そこで、議員という名の代理人を選び、議会を構成させ、大衆に代わって政治を執り行うのが間接民主主義だと捉えられてきた。しかし、大衆の指向する方向に政治が動かないために、直接と間接の中間というか、亜流としての進め方としてのものがポピュリズム=大衆迎合主義であると、私は恣意的に理解する。と共に、非民主主義社会では、新たに「現代的専制主義」が台頭してきていると捉える◆水島氏はポピュリズムは、「ディナー・パーティに乱入してきた泥酔客」のような存在だという。「泥酔客を門の外へ締め出したとしても、今度はむりやり窓を割って入ってくるのであれば、パーティはそれこそ台無しになるだろう」と。今米国では、不倫相手への口止め料支払いを巡ってトランプ前大統領を起訴しようとする動きが風雲急を告げている。これをきっかけに、米国中があたかも南北戦争以来の大騒ぎになるかもしれない。「厄介な珍客をどう遇すべきか。まさに今、デモクラシーの真価が問われているのである」との結論が重く響く。日本では未だそこまで深刻化していない。だが、原形としての「新型ポピュリズム」は明石市に芽吹いているかのように私には見える。これについては稿を改めたい。(2023-3-26)
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【76】君たちはどう戦うのか──西山太吉『記者と国家』を読む/3-12
元毎日新聞記者の西山太吉が先日亡くなった。彼は1972年(昭和47年)に沖縄返還をめぐる密約取材で、国家公務員法違反容疑を受け逮捕された。最高裁で有罪が確定(1978年)してからも、「密約文書」開示請求訴訟を起こすなど、国家の「機密」を相手に戦い続けた。事件が発覚した当時、私は公明新聞記者になって3年目。日中国交回復問題に、沖縄返還交渉に、政党機関紙政治部記者として少なからぬ関心を持ち推移を追っていた。後に衆議院議員になって、外務委員会に参考人として招致された彼に直接問う機会もあった。西山は「国家と情報開示」というテーマに向き合う上で、貴重な存在だった。後に続く「記者」の視点から垣間見ることにしたい◆冒頭の読売新聞の渡邊恒雄(現主筆)との若き日のスクープ合戦は興味津々。親友だった2人の運命はやがて相反する。方や読売のドンとして君臨し、一方は後半生を裁判三昧で戦う。「権力対新聞」と題した第1章の結末は、「渡邊という新聞界の超大物の秘密保護法制への積極参加は、権力対新聞の本来の基本構造を、根底から塗り変えてしまった」とある。権力そのものに寄り添っていった渡邊と、その暗部に挑み続けた西山という風に両記者を単純に比較するのは不適切かもしれない。毎日新聞の後輩が西山のことを「生涯、傲岸不遜。勝手放題で競艇好き。正義の味方は似合わない」(3-6付け『風知草』)と突き放して書いていたのは興味深い◆この本で西山が最も力説するのは、戦後日本の国のかたちが、長州一族(岸信介、佐藤栄作、安倍晋三)によって「根底から変革された」という点である。「日米軍事共同体」の完成が露わになったからだと言いたいようだが、これは陰の部分が表に出てきただけ。米国の掌で踊ってきた戦後日本に基本的な変化はない。一貫して真の「自主独立」とはほど遠く、いまさら国のかたちが変わったとまで大げさに強調すべきほどのことではなかろう。戦前の「天皇支配」から、戦後の「米国支配」へと、根底からの変革は1945年から始まっている。77年経った今、米国への追従は益々強まっているのだ◆西山は「イラク戦争」と「沖縄米軍基地」に見られる日米関係の真相を衝く。前者において、日本は「CIAがでっちあげた偽情報にもとづく」米国の強い要請で、「参戦」した。その総括は未だなされていない。それを曖昧にしたまま、「ウクライナ戦争」でのロシアを非難する真っ当な資格は米国にも日本にもないと私は思う。後者で米国は、米軍再編における海兵隊のグアム移転に伴う費用負担を迫る。その実態たるや「もはや同盟の関係でなく、主従の関係である」と西山は嘆くのだが、何を今更との感は拭えない。ことほど左様に「敗戦」の後遺症は深く重いのである。仮に米国を見習うとするなら、「情報公開」だろうが、日本にその強い風は未だ吹いてこない。「暴走し、衝突し、灰神楽を立てながら進む暴れん坊だった」(前掲の「風知草」)西山は、遅れ来る「記者」たちに対し「すべて主権者たる国民に正確な事実を報告する義務がある」と神妙に言い遺して去って逝った。(敬称略 2023-3-12)
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