Monthly Archives: 9月 2023

【95】没落の兆し漂う超大国と日本━蓑原俊洋『大統領から読むアメリカ史』から考える/9-28

 

 いま、超大国アメリカはおかしくないかとの懸念がつきまとっている。それを言い出すなら、英国も、中国も、もちろんロシアもとっくに狂ってる、そして我が日本も、との声が聞こえてこよう。つまり地球全体、全人類にそこはかとない不安が漂っている。その問題意識の上に立ち、まずアメリカという国の歴史をつぶさに見てみたい、と思った。そんな折、『大統領から読むアメリカ史』を手にすることになった。建国の父ジョージ・ワシントン初代大統領から46代のジョー・バイデンに至るまでの46人を6つの章に分けて解説している。順序よく「建国期」からスタートせず、最後の「冷戦後」から読み始めた。なぜ「分断」が常態になったのかを探るために◆ドナルド・トランプ前大統領の登場がもたらした「危機」に至る「転換点」となったのは43代のジョージ・ブッシュ(息子ブッシュ)だと、著者は見る。学生時代は、殆ど勉学に背を向け、酒に溺れていたことはつとに有名だが、結婚を機にキリスト教メソジスト派の妻の献身的な働きで立ち直る。といった家族や周辺の努力もあり、大統領になったものの、本人はいたって凡庸な指導者だったことが描かれる。しかも2001年9月の同時多発テロの勃発以降、政権内のネオコン(新保守主義者)に主導権を握られ、急速に自由主義世界のリーダーとしての矜持を捨て去り、単独行動主義へと邁進することになった。著者は、「ブッシュの最大の過ちは、建国の父たちが希求した崇高な理想を蔑ろにしたこと」と断じ、「かつてのアメリカの輝きはブッシュの時代に一気にその明るさを減じた」と言い切る◆実はその背景に、深く横たわるのが、カナダのジャーナリスト・ナオミ・クラインいうところの「ショック・ドクトリン」の蔓延という問題があると思われる。これは、テロや大災害などの恐怖で国民が思考停止している最中に、政治指導者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪辣な手法のことを言うのだが、ブッシュの時代に一気にこれが広まったと見られる。「ハリケーン・カトリーナ」への対応の中で、この魔の手法が被災地を蹂躙したことなども、国際ジャーナリスト・堤未果の解説が詳しく暴いている。この辺りについては、既にこの欄の89回(「特筆すべき民衆からの反撃」)で書いた通りだ。このあと、44代のバラク・オバマがブッシュの残した禍根を払拭するべく、果敢に改革に挑戦する。ただ、オバマは変革の風を吹かせたのだが、多くの実績を残した半面、同性婚の容認などリベラルな価値観をいしずえとする変革の動きが、畏怖の念を抱く保守層の反動の機運を一気に高めることになった。さらにオバマはシリアによる化学兵器の使用や、ロシアのクリミアへの侵略・併合といった肝心の場面で、弱腰な姿勢に終始し、口先だけの指導者との印象を内外に与えてしまう。黒人のリーダーであるが故のリベラルなスタンスも逆に作用し、一部白人の経済的苦境をベースにした、貧富の差への被害者意識を助長したのである◆つまり、トランプが登場する前に、ブッシュがアメリカ国内に「悪魔的手法」が跋扈するのを放置し、次のオバマが、アンバランスな形で「人種差別の空気」や、共和、民主両党の過激な差異化をもたらしてしまった。そんなお膳立ての上に、45代のトランプが自由勝手な大統領として君臨し、米国内の「分断」を決定的なものにしたというのだ。現在のバイデン大統領に、その「分断」を根底的に是正する力は、トランプとの直接的対決の当事者だけに、望めそうにない。それよりもむしろ、プーチンのウクライナ侵攻から始まった世界の「分断」という、もう一つの攻めに喘いでいるのが米国の現実だといえよう。著者は、これからの世界が、応仁の乱以後の日本の戦国時代のようになるのか、ナポレオン戦争終結後の「ウイーン体制」のように、超大国が不在でも大国同士の連携が進むのか、という二つのシナリオを想定している。その上で、後者への道が日本の積極的関与で可能になると希望的観測を述べ、それこそ「意味をなす国家」日本の生き方だというのだが‥‥。(2023-9-28)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【94】画竜点睛を欠く「ウクライナ」記述の欠如──山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』を読む/9-18

 「周辺国から解く 独ソ英仏の知られざる暗闘」とのサブタイトルが付くこの本が発行されたのは昨年2月末。ロシアのウクライナ侵攻とほぼ同時期。筆者と出版社は戦争勃発に驚いたのか、折り込み済みだったのかは分からない。「ウクライナ」に無知だった読者としては、この本に取り上げられた、先の大戦の舞台になった周辺国20に、ウクライナが入っていないのは画竜点睛を欠くと見えてしまう。と、いきなり、この本に注文をつけた上で、大国による戦争遂行の経緯に偏りがちの一般的な歴史記述に対して、小国の視点を重視するこの本の独自性を称賛したい◆小国の立ち位置でまず注目されるのは、ポーランド。この国への侵略が引き金になり、またユダヤ人虐殺の元凶の地となったアウシュビッツが同国内にあることから、ただひたすら蹂躙されただけの国に見えてしまいがちだが、さにあらず。著者は、自由ポーランド軍が「国家そのものが地図上から抹殺されてしまったにもかかわらず、「(欧州の)各戦域でドイツ軍と戦い、1944年の夏からはノルマンディーやオランダ、ドイツ領内でも激闘を繰り広げて、米英連合軍の勝利に少なからず貢献した」ことを強調する。また、ポーランドが「どれほどの苦難に直面しても決してギブアップしな」かったし、「誇り高い国民性」や「不死鳥にも喩えられる強靭な精神力」を持つという風に、過剰なまでに美辞麗句を連ねてほめそやす◆また、フィンランドについては、歴史的には硬軟取り混ぜての外交、軍事戦略を駆使して隣国ソ連と長く対峙してきたことで知られる。だが、大戦時にあっては、対ドイツ戦がこれに加わり、独ソとの「板挟み」状態となった。その苦労の末、大戦終結後にフィンランドが得たものは、ソ連の軍事支配をあきらめさせたうえに、「非共産主義の資本主義国として独立を維持することを容認」させたことだった。大戦中にソ連がいかにフィンランドに手を焼いたかがわかろうというものである◆独ソの狭間での苦難といえば、フィンランドに並んで、バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)のそれが挙げられている。1934年にソ連に併合された三国は、5年後独ソ戦の開始と共に、ドイツの対ソ進撃の通路と化す。実は当初はドイツをソ連からの解放軍的存在として捉える向きもあったが、やがてそれは失望することになる。このように、20の小国が置かれた位置について事細かに著者は書き上げていく。400頁にも及ぶ紙数を割いて「(これまでの歴史書は)大国の動向ばかりが記述され、周辺国兵士の戦いは、脇に追いやられたり、無視されることがほとんど」だったことを批判しているのだ。という観点からも、冒頭に述べたように、「ウクライナ」が全く欠落していることは訝しい。バルト三国と同様に、当初はドイツを救世主とする向きがあった彼の国について、なぜ触れなかったのだろうか。この辺り、この本の出版元系列の雑誌が補足的に場を提供したことをネットを通して知ったが、時すでに遅しの感は否めない。(2023-9-18)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【93】日本近代化への遥かなる光線──司馬遼太郎『オランダ紀行』を読む/9-8

 夏の高校野球──107年ぶりの優勝を果たした慶應義塾高校の校歌(塾歌)が映像で日本中に流れた。実はこの歌はオランダに深い関わりを持つ。富田正文(作家・福沢諭吉研究者)によって昭和15年に作詞される際に、諭吉の塾創設への深い思いが込められた。福沢はオランダ語の習得を通じて西洋の思想に深く拘泥していったのだが、17世紀に世界の覇権国家として一時代を築いたオランダも、200年を経て衰退の道に陥っていた。明治維新(1868年/慶應4年)当時には、世界各地からオランダは後退。その国旗がひるがえる地は長崎・出島ぐらいしかなかった。諭吉は当時戦乱の巷にあった日本の国内情勢と覇権国家・オランダとを重ね合わせて、学問に励むことこそ一国の自主独立を成り立たせると、塾生に強調した。🎶見よ 風に鳴る 我が旗を で始まる歌詞は、慶應義塾の旗を指す一方、オランダへの福沢のあつい思いも込められたのだ。このことは歌詞を追っても殆ど分からないが、私は福沢諭吉研究センターの都倉武之准教授から聞いて知った◆司馬遼太郎はこの紀行を「事始め」と題して、オランダ製の咸臨丸に乗って諭吉や勝海舟らが1860年(万延元年)春に米西海岸に到着したことから書き出している。と共に、「(『自伝』に)オランダ人はどうしても日本人と縁が近いので‥‥。とあるのが印象的」だと、続けている。1600年(慶長5年)は「関ヶ原」の年である。と同時に、徳川の時代の幕開けを待っていたかのように、オランダ人が日本に通商を求めて初めてやってきた。のちに長崎・出島という4000坪足らずの扇状の埋め立て地に橋を架け、外界と遮断しつつ接続をも可能にした。「針で突いたような穴」にかすかに射し込む光が、幕末まで続き、諭吉がその光の恩恵を最も適確に浴びたことを、司馬はいとおしむかのように紹介している◆オランダは、「大航海時代」(15世紀半ばから17世紀途中まで)に、ポルトガル、スペインの二か国が世界の海を席巻した後に、世界史における植民地争奪戦の三番手として姿を見せる。そして、後に控えた英国の本格的登場に替わって、後衛に退く。キリスト教カトリックのポルトガル、スペイン両国は布教の下に鎧が見え隠れしていたことを、時の支配者・秀吉は見抜いた。それに比べて、オランダは新教プロテスタントによる自由な通商国家であった。布教よりも実利中心で交易熱心だったのである。司馬はこの国の実像を、様々の歴史的事例、文化的様相などを通じて、ジグゾーパズルのように描いてみせ、やさしく引き込む◆オランダが出島で細々と、日本とのよすがを繋いでいるほぼ2世紀のあいだ、同国は東インド(現インドネシア)の植民地支配に精を出し、台湾支配をもうかがった。アジア全域でタイを除く各国がヨーロッパ先進諸国の餌食になったことに着眼すれば、1633年からの日本の「鎖国」(オランダと清国だけを例外とした)の持った〝国力温存の効果〟に驚く。このことは「関ヶ原」前夜に至る「秀吉の時代」のキリシタン浸透への「弾圧」からくる「脅威」が大きかったに違いない。カトリックの二国がキリスト教の布教を矢面にかざしたことで、慎重極まる「覇王・家康」は、海外からの侵略の狙いを警戒した。結果として、江戸から明治に至る「日本防衛」を可能にした。おまけに、出島ルートで近代化への準備をも可能にしたことは、まさに僥倖だったといえよう。(2023-9-11 一部再修正)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類