Monthly Archives: 2月 2020

(340)新型コロナウイルスの蔓延と人の世ーアルベール・カミユ『ペスト』(宮崎嶺雄訳)を読む

新型コロナウイルスが中国・武漢市で発生して、この巨大都市からの人の出入りを禁止するといったことが話題になった時に、随分前に読んだ記憶がある本を思い起こした。アルベール・カミユの『ペスト』である。ネズミを介在させた伝染病ペストと新型コロナウイルスによる感染症との違いはあれ、迫られる対応など考えさせられる類似点は少なくない。都市の封鎖やクルーズ船内での隔離など、今現に起こっている緊急事態を前にざっと読み返した▼封鎖状態に陥り、閉じ込められた人間が密かに自分だけ脱出を試みようとしたり、キリスト教の神父が、この事態は人々の罪のせいで起こったのだから、まず悔い改めよとの説教したりする場面が印象に残る。主人公の医師が懸命に救助活動に従事する姿に、今回の武漢で必死の診療行為の中で亡くなったとされる中国人医師像が重なった。また、過酷な状況にもかかわらず、助け合う人々の振る舞いに、クルーズ船におけるイタリア人船長のもと一致団結した行動をとったとされる乗組員の姿も重なった▼この本でカミユは、人生における究極の不条理の側面を描き、避けられない人間の運命の中で助け合う人々の生き様を浮き彫りにした。かつて私の若き日に実存主義が時代を席巻した。フランツ・カフカの『変身』などと共に、カミユの『異邦人』や『シシュポスの神話』などを読んで、分かったようでいて、今一歩分からないような思いに駆られたものである。そんな中で、この『ペスト』には救いがあり一条の光があったと思われた。大型イベントや日常的会合が中止になったりして、出歩く機会が減る中で、家で読んで人生を考えるきっかけとなる絶好の本かもしれない▼国会で新型コロナウイルスへの政府の対応が後手後手に回っているとの批判がある。桜を見る会や東京高検検事長人事などを巡っての疑惑で窮地に追い込まれた安倍政権にとって、名誉挽回のチャンスとなるか、恥の上塗りになるかの瀬戸際である。中国で発生し、日本、韓国でも多くの人々に感染、欧州でもイタリアを中心に予断を許さない事態が続く。せめて、地球上に生息する人間が、国の違い、民族の違いを乗り越えて、生きるも死ぬも同じ運命共同体であることが共通の認識になり、争いごとがなくなる機縁になれば、と思うことしきりである。(2020-2-28)

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(339)「江戸」の終末を〝お笑い味〟たっぷりにー浅田次郎『大名倒産』上下を読む

いやあ面白かった。これぞ小説、その醍醐味を満喫しきった思いがする。浅田次郎の『大名倒産』上下2巻である。漫画的過ぎるとか、中弛みが気になる、一巻で終わりにして欲しかったとの注文はないわけじゃあない。だが、こんな豊潤な世界に長く浸かることが出来て、幸せ。ケチつけたり、贅沢いうと罰があたるというものだ。この作者のものはかつて『鉄道員』『天国までの100マイル』『壬生義士伝』など、読書録にも取り上げた。ここのところご無沙汰していたが、先日ある友人との会話の中でこの本のことが出た。そこで、彼から借りることに。引っ越し後、なるべく本は買わないとの習慣が身についてしまい、図書館通いが主流なのだが▼時は幕末。江戸期260年の長い長い時間ー明治維新から150年と比べるとよくわかるーに、すっかり弛緩しきった武士の世界を縦、横、斜め、表から裏まで縦横無尽に、〝お笑い味〟ふんだんに散りばめつつ惜しみなく描く。積もり積もった借金25万両。利息の支払いだけで年に3万両。ところが収入は1万両。これを踏み倒す算段として、「倒産」を選んだ先代と、膨大な負債を押し付けられたご当主の息子。財政改革のあの手この手に必死に取り組む。奇想天外な筋立てと絶妙の話運びでグイグイと読むものは引きずりこまれていく▼明治維新の引き金となったのは「黒船来航」だが、その背後に〝熟柿〟となった「武家社会」があった。いわゆる維新を扱った読みもので、幕府を倒す側の視点に立ったものは数多あるが、倒される側に連なるものは比較的少ない。その分新鮮さを感じる。だ洒落の連発、ユーモアの山盛りで、大いに笑える。愉快なことこの上なし。随所に織り込まれた人情話と人生の機微にも、そのつど心しびれる思いになる。為になることこの上なし。著者と同じ高みからの目線で登場する七福神と貧乏神の繰り出す手練手管に、翻弄される人間の哀れさ。それに打ち勝つ強さとは何なのか。少しばかり考えさせられもした▼読売新聞の読書欄(1-19付け)に、橋本五郎氏がこの本を取り上げていたことを思い出し、古新聞の中から取り出した。同紙特別編集委員のこの人は名うての読書家で、評論家。書評を書くにあたって『二回半読む』(同名の著書あり)というから凄い。彼のここでの書評は、「凡庸でも誠実であり続けることの大切さを教えてくれ」るとしたうえで、最後に「悪意が満ちあふれている今日日、これほどの『性善説』小説にお目にかかるとは大いなる驚きである」と結んでいる。「一回しか読まない」(同名の著書はない)私としては、ご隠居様の生き方に強い共感を覚えた。ある時は百姓与作、ある時は茶人一狐斎、またある時は職人左前甚五郎や板前長七といったように多面的なキャラを使い分ける。退職後に、野良仕事をしつつ茶道に勤しみ、陶芸に打ち込み、料理教室で腕を磨くといった人は珍しいが、いなくはないだろう。かく言う私も、恥ずかしながら違った性格を持つ7つほどの顧問職をこなし、ちょっぴり真似事をしている。橋本さんの言うように確かにここでの『性善説』は驚きだが、ご隠居の存在あってこそ光るというものだろう。凡庸、誠実さよりも、英邁、狡智さに長けた人間に魅力を当方は感じてしまう。この本の後半で悪戦苦闘してるはずの若殿・息子の登場は極端に少なく影も薄い。本当の主役はご隠居と思われる。と、書いてきて気が付いた。橋本さんは皮肉を込めた表現をしたに違いないと云うことに。 (2020-2-18)

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(338)物足りなさ残る新宿鮫XⅠー大沢在昌『暗約領域』を読む

その昔、私はハードボイルド小説の格好いい主人公に、また英邁極まりない孤独な指導者や主役を映画の中に見出すたびに、敬愛する上司を重ね合わせることがしばしばであった。やがて、その密やかな片思いが実は私だけでなく、一緒にその大先輩にお仕えしていた後輩W君も共有する感情だと言うことを知った。私たちは司馬遼太郎の『燃えよ剣』の土方歳三と上役の類似性について語り合い、米映画『フルメタルジャケット』を一緒に映画館で見て、 訓練を受ける海兵隊員に自分たちを、鬼将校にその先輩の姿を重ねたものである。大沢在昌の小説『新宿鮫』の鮫島にもその上司が似ていないはずはなかった。要するに二人ともひたすらにその先輩上司に憧れ、英雄視していたのである。この想いは恐らくほかの誰にもわかるまいし、わかってほしくもない▼新宿を舞台にはぐれ刑事・鮫島が活躍する小説に若き日の私たち(彼は30歳過ぎ。私は40歳過ぎだったから決して若くない)は魅了された。ほぼ30年前のこととて、私自身はその物語の筋だてなどもはや殆ど覚えていない。第1巻が発刊されたのが1990年。いらい第2巻・毒猿、第3巻・屍蘭あたりは、夢中になって読んだものだが。それ以降は私が政治家になってしまったこともあり、遠のいた。この度、第10巻が出てから8年ぶりにシリーズ第11作目が出たと言うので、手にした。勧めてくれたのは、誰あろう、かつて共に同じ夢を見たに違いないW君である。出ましたが、読みましたか、とのメールで直ちに本屋に足を運んだ▼「密告してきたのは浦田という密売人だった。根っからのクスリ好きで酒は体質に合わない」との書き出し。「覚せい剤中毒者にはそうした下戸が少なくない」と続く。やがて新宿区内の民泊施設を舞台に、張り込んでいた鮫島の前で殺人事件が起きる。覚せい剤、暴力団組員そして怪しげな北朝鮮人やら中国人。現代日本の闇の世界におなじみのテーマや登場人物たち。小説を通じて様々な情報を得たうえで、人との付き合いに活用をしたい向きには、いささか縁遠さは否定できない展開である。それでも平成29年に成立した「住宅宿泊事業法」で、民泊業者に対する届け出が義務付けられたとか、「年間180日以内の営業の制限があることから、旅館業法で定める『簡易宿所営業』で、許可を取得している民泊業者も多い」などといった記述には、インバウンドに関心を持つ身としては、興味なしとしない。そんな中で、この本では鮫島の上司に女性の課長が現れる一方、新人の相棒の登場という新味に対して、大いに〝食欲〟を唆られ、読み進めた▼だが、その展開は尻つぼみという他ない。女性の上司との間での、警察という機構を巡っての組織観の違いの披瀝も中途半端なものに終わるし、当初は思わせぶりな活躍に期待を掻き立てられた新人も、途中で出番が消えてしまう。尤も後者の方は意外な役回りに驚かせられるのだが。息もつかせぬ活劇場面もようやく終わりが近づいてから。そこに至るまではいささか退屈する場面の連続に思えた。濡れ場も殆どゼロに近い(それは今の私には好都合なのだが)ことなど、通常のこうした小説につきものの〝付加価値的呼び物〟もいたって影が薄いのである。と、こういう風に来ると、なぜ700頁にも及ぶ大部の小説を途中で投げ出さなかったのかとの疑問が湧く。怖いもの見たさとヒーロー待望感をして、最後まで惹きつけさせたものと思われる。尤も、肝心の我が感受性の衰えは如何ともしがたいのかもしれない。それに何よりも大きいのは、鮫島の〝かくも長き不在〟の間に、我らが敬愛した上司が先年、急逝されてしまい今は存在されないことだろう。W君がどう読んだか知りたいところだが、未だその便りはない。(2020-2-12)

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(337)中国で一挙に「SGI 」が増える可能性ー佐藤優『希望の源泉 池田思想ー『法華経の智慧』を読む』』❶を読んで

池田大作先生の『法華経の智慧』全6巻は、私の愛読書である。佐藤優さんが第三文明誌上で、対談形式でそれを読み解いたものをも、深く感じ入りながら読んできた。このほど改めて『希望の源泉 池田思想』という形で単行本になったもののうち第1巻を一気に読んでみた。京都と大阪で月に一回づつ受けているNHK 文化センターでの植木雅俊さんの講座の帰りの車中で、である。仏教思想家の植木さんは中村元先生のお弟子さんとして知られる。京都・四条の『法華経』講義でも、大阪・梅田の『仏教、本当の教え』講義でも、幾たびとなく中村先生の言葉が口をついて出てくる。一方、佐藤優さんはキリスト教プロテスタントの身でありながら、今や池田先生を師と仰ぎ、創価学会のこよなきウオッチャーであり、理解者である。『希望の源泉 池田思想』❶を軸に、計らずも異なった形の「師弟」を考えるきっかけとなった▼植木雅俊さんは講義の中で、ご自分が二足の草鞋を履いてきたことを強調される。会社勤めをしながら、40歳にして中村元先生の門を叩き、やがてサンスクリット語を習得して御茶ノ水女子大で博士号を取り、法華経や維摩経を全訳するまでになった、と。直接中村先生の薫陶を受ける中で、ものの見方も考え方も全て磨かれていったことが、彼の著作『仏教学者 中村元』を読むと手に取るようにわかる。一方、佐藤優さんは未だ池田先生にはお会いしたことはないという。「(自分は)キリスト教徒なので、『会ってこの目で確かめたから信じられる』などという発想は絶対にしません。『会わなくても信じられる』ということが重要なのです」と述べ、「池田会長と直接会ったことがなくても、会長を深く尊敬し、弟子として立派な生き方をしている無名の庶民はたくさんいます。その人たちは、池田会長 との物理的距離は遠くても、生命的距離は近いわけです」と意味深長な表現をしている。お二人を深く尊敬する私としては、この師弟関係の二形態(共に、仕事を通じてのもので、人生の師弟関係とは別であろうことは言うまでもない)をいずれもこよなく尊いものに思うばかりである▼植木さんの法華経講義はとてもわかりやすく、かつ深くて勉強になる。加えて、池田先生の『法華経の智慧』を読み解く、佐藤優さんの手法もとても参考になり力になる。前者は、原点をきちっと抑える上で貴重な学習となり、後者は世界宗教の視座から、応用的側面を分からせてくれる興味深いアドバイスである。随所にキリスト教とのアナロジー(類推)を駆使しながらの展開は、極めて新鮮味がある。ただ、「最初に救済が保証され、あとから信仰上の行為がついてきて、救済が実感されていく。そう考えると、日蓮仏法は、キリスト教の信仰のありように意外に近いのでは」とあるくだりには意外感を抱く。私の理解では、キリスト教と近いのは念仏思想だとの認識だったからである。尤も、その記述のすぐ後ろに、「キリスト教徒の私にどこまで仏教の本質が理解できているかはわかりませんが‥‥」とあり、ホッとする思いもした▼実は今中国で池田思想を研究する動きが顕著で、私の友人の中国人学者もその任に当たっている。この本でも、中国各地の大学に附設されている「池田思想研究所」について触れられ、佐藤さんが『法華経の智慧』を読み込んでいる研究者の中から「今後、どのような展開が生まれてくるのか非常に興味深い」と述べている。加えて、「近い将来、中国で、『信教の自由』が認められ、一挙にたくさんのSGIメンバーが中国に誕生する日が来ると考えています」と、重要な展望を述べているのだ 。これを踏まえて、植木さんの『日中印の比較文化』に関する講義の後で、私は質問を試みてみた。「かつて仏教を生み出したインドでは仏教は廃ってしまい、中国は共産化して仏教を表向き受け入れていない。そんな状況下で、日本発の創価学会SGI が、『池田思想研究所』という形で中国に進出していることをどう見ますか。佐藤優さんがその著作で予測しているように、やがては大きく広まっていくと思いますか」と。一般的には、中国は政治優先の国だから、今の動きは一過性のものに終わる可能性が高いと見る向きが少なくない。私もそれを懸念している。講義の終了間際だったので時間もなく、植木さんからは明確なお答えは得られなかったのだが、このテーマは極めて関心の高いものだけに、今後注目していきたい。(2020-2-9=一部再修正しています)

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