『日の名残り』ーノーベル賞作家カズオ・イシグロの本を読むのは2冊目。ただしこれは電子書籍で読んだ。理由はたまたま書店になかったからで、特段の意味はない。また、同名の映画も観た。英国の執事のことを描いたノーベル賞受賞作家の映画だということで飛びついた。執事という存在にかねて興味を持っていたこともあるが、アンソニー・ホプキンズとエマ・トンプソンの名演技が光る、と知ったことが大きい。先に読んだクローン人間を扱った『わたしを離さないで』も、映画化されていた。受賞されるまでほとんど知らなかった作家をこのところ立て続けに読み、映画も観ることになったわけだが、やはり異色の味わいを持つ気になる作家だとの印象は消しがたい。これからも恐らく少しづつ読むことになるだろうとの予感がする■この小説はスティーブンスという英国の名だたる執事が主人公。彼が35年間仕えた主人は、英国の貴族の中でも最も有名なダーリントン卿。その居住地の中にあるダーリントンホールには英国の首相や外相、フランス大使やドイツ・ナチスの高官ら数多い著名な人物が出入りしていた屋敷であった。その屋敷で多くの人々が欧州をめぐる政治的議論を交わし、時に歴史の転換期における舞台になったこともしばしばだった。そうした歴史的場面に遭遇することもあった執事は、当然ながらその主人に深い敬慕の念を持つに至った。しかし、肝心の主人が不名誉な噂を立てられ、やがてそれを払拭できぬまま失意のうちに死んでしまう。そして代わりにアメリカの大富豪・ファラディ氏にその屋敷は買い取られ、スティーブンスは執事として雇用される。やがて主人からの勧めもあってドライブ旅行に出かけるのだが、物語はその間にダーリントン卿との思い出を顧みることになる。主人と執事とのえもいわれぬ深い関係、そして執事とはいかにあるべきかの様々なエピソードを交えての洞察などが淡々と語られる■日本には執事的なものは今は見られない。秘書がその存在に代わるものだろう。この両者、似て非なるものだが、主人に仕えるという一点では共通している。私も代議士秘書稼業をわずかに1年半だが経験し、そして20年もの長きに渡って秘書を持つ身になった。そうした体験からしみじみと人に仕えること、主人の心映えを感じてうまく合わせることの難しさを骨身にしみて分った。というか、わかった気になった。しかし、この小説や映画に描かれた執事の所作振る舞いを見て、自分など完全に落伍者であることを改めて知ったしだいだ。秘書でありながら主人の鞄を列車の網棚に忘れたり、主人との待ち合わせ時間に遅れたりなどといった我ながら初歩的かつ大胆なミスは枚挙にいとまがない。さらに、大事な会談に陪席を許されたものの、黙って控えていることに耐えられずに余計な口出しをするなど数多の失敗をしたものである■一方、私には20年間仕えてくれた秘書が複数いたが、彼らまことに卓越した能力の持ち主だった。そのうち国会での秘書は、私が何を考えなにをしようとしているかを全て先んじて押さえ、知らぬ間に用意してくれた。お世話になった数々の所業は数知れない。私と同じ誕生日の議員が複数いることを知った数日後、全国会議員を点検したうえで、リストをさりげなく差し出してくれた。また、かねて私はタブレットとガラケーを併用しているが、以前にスマホに買い替えようとした。その時に、彼はスマホは止めてガラケーとの併用、つまり従来通りがいいとアドバイスしてくれた。些細なことのようだがその判断は全く正しかったと心底から思っている。その秘書のことを良く知るに至った、私が仕えた先輩代議士は後にしみじみと「俺は秘書に恵まれなかったが、君は恵まれているなあ」と述懐されたものである。穴が入りたいとはこのことだったが、私の場合、主人との間に幾つ穴があっても足りなかったろう。ともあれ、このイシグロの小説はわたしにとって今は亡き主人の、壮絶なまでの素晴らしさや失敗ばかりの酷い自分のことをあれこれと思い出せてくれる罪深い本ではあった。(2018・1・28)
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(240)欧米列強の罪深さに慄然とするー池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』を読む
日本にとって、今年は明治維新から150年だが、100年前というと、明治も終わり大正時代に入った頃で、日本的には日清・日露戦争を終えた頃だ。世界史的にも大きな混乱のさなかであった。第一次世界大戦がはじまったのが1914年。ほぼ戦後処理が終わったのが1918年。その頃に英国とフランスが中東地域の分割を試みたサイクス=ピコ協定が結ばれたのである。外交交渉の任に当たった英国とフランスの外相の名をとってこう呼ばれるが、今もなお続く中東の混迷の元凶はこの協定にあるという。中東研究の第一人者とされる池内恵さんの『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』を本屋で発見し早速に読んだ。この人は姫路が生んだ著名なドイツ文学者の池内紀さんの息子さんである■中東地域について関心はあっても、地理的遠さや混迷の度合いの深さから敬遠ぎみの人は少なくないものと思われる。そういう人にこの本はお勧めしたい。尤も、だからといって最初から順に読もうとすると、そこは学者の書いたもの。特有の硬さは否めない。そういう方には最終章の「アラビアのロレンスと現代」から入られるとよい。できれば、未だこの映画『アラビアのロレンス』をご覧になっていない方は、この章を読んでからDVDを観て、そして1章から順に読まれるといいかも。アクション満載の面白活劇映画かと見る向きも多かろうが、この映画は「アラビア半島での戦闘だけでなく、『アラブの反乱』勢力がダマスカスを制圧し、オスマン帝国から解放された後の1919年5月に開催されたシリア国民会議の描写を通じて、アラブ世界の社会の分裂や、政治制度の未分化がもたらす混乱を描いている」のだ。更に池内さんが言うように「中東国際政治やアラブ世界の政治社会の構造を浮き彫りにする、脚本の作り込みの深さ」が最も重要で、「ハリウッド映画は馬鹿にならない」のである■この表現には明らかに著者自身が馬鹿にしていた過去があるかに思われる。私の大学時代の恩師・永井陽之助先生はしばしば映画や小説を使って国際政治の舞台裏や交渉術の妙を解説して聞かせてくれた。それゆえ塩野七生さんが「(両親が)映画鑑賞を読書と同列において私を育ててくれた」(『人びとのかたち』)といわれるように、「映画こそ国際政治の教科書」との思い込みは強い。永井先生は名著『現代と戦略』において「アラビアのロレンス」に触れる中で、日露戦争においてなぜ「シベリアのロレンスがあらわれなかったのか」と問いかけた後、『あゝ永沼挺進隊』なる本を読み「自分の不明を恥じた」と記している。この永沼挺進隊こそ立派な「満蒙のロレンス」だったというのだ。過去の歴史におけるいかなる戦いにあっても大なり小なり影で暗躍する人物がいることを改めて知った■この本を読み終えて過去の経緯が鮮明に分かり、今の中東地域の混迷に預かって責任があるのが第一義的に英国であり、フランスであることが分かる。そしてロシアにも大きな責任が。第一次大戦時には未だそれほどの力を持ち得ていなかったアメリカもその後の流れの中で応分の責めを負わねばならぬことも。要するに欧米列強の罪深さが分る。ではこれからどうなるのか、いやどうするのかと問いかけると、いたって暗い気分になってしまう。百年前の西欧列強は「帝国の利益追求を剥き出しにして軍事・外交的な介入を繰り返しつつ、少数民族の保護といった高邁な理念を掲げた介入を並行して繰り出した」。現在のEUは「トルコに難民への処置の『下請け』を依頼しつつ、人権理念を掲げてトルコの加盟交渉を果てしなく引き伸ばす」ことに腐心しており、両者には「本質的に根深い連続性」があるという。「トルコと西欧諸国が根底で抱える相互不信が、西欧の矛盾した政策によって表面化」することで、中東のこれまでの秩序を支えていた礎石が失われることを危惧する池内さんは、「そのような事態が来ないことを願うばかり」である、と結んでいる。この結論の覚束なさに慄然とするが、それだけ池内さんは正直なのに違いない。(2018・1・23)
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(239)旅する夢が駆けめぐるー中西進『「旅ことば」の旅』を読む
(239)昨年末のこと。東京駅から姫路に帰ろうと、ホームの売店を覗くと『「旅ことば」の旅』という中西進先生の本があった。この人は万葉集学者で文化勲章受章者。私が専務理事を務める一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の代表でもある。議員引退後にいくつかの団体の顧問をお引き受けしているが、その中でも最も力を入れて取り組んでいる仕事のいわば上司に当たる。といっても日常的に接触する機会はなく、発足後は先生が名誉館長をされている京都市の右京区中央図書館での「映画塾」(月一回、先生と一緒に映画を観た後に、解説を聞く)に時々顔を出して、報告をするぐらい。このところご無沙汰していることもあり、早速に購入し徒然に読んでみた■旅に関する88の言葉から日本人にとっての「たび」の意味が見えて来る、と帯にある。先生は昨年88歳になられたこともあって、月刊『ひととき』(ウエッジ刊)に連載された71本に加えて、新たに17本を書き下ろされたという。この人の凄さは私などが到底論じられない奥行きの深さにある。優しい佇まいの中から、古代から今に至る日本文学の粋が溢れ出て来る。この本の巻頭「たび」によると、古い日本語「たむ」が語源で、廻ることがその原義だとされる。「お神輿や山車で神さまが移動なさ」る旅は、「じつは神さまの神偉の領分を示す儀式だった」から、「神輿と神輿がぶつかろうものなら、大変な境界争いになる」というわけだ。姫路・灘のけんか祭りも岸和田のだんじり祭りもそんな由来になろう■年末年始を迎えると、私は「去年今年(こぞことし)貫く棒のごときもの」という高浜虚子の句を思い起こす。この本の巻末「去年今年」はこれをめぐって深い話が続く。「年」という旅人の謎めいた身振りを、いにしえからの俳人たちはさまざまに詠んだ。虚子の場合は「時は旅」という流れを拒否する棒のごとき不逞の輩のような風体を感じたと思われるという。一方、江戸俳諧の加賀千代女は「若水や流るるうちに去年ことし」と詠み、時を流水のように見立てた。更に近代になって大石悦子の「海溝を目無きものゆく去年今年」との句は、年の瀬を悠然と動きやまないものの姿として捉えている、と。中西先生は「わたしども自身が深海魚のような旅人だと思われ」て身震いしたと結ばれている■この本の楽しみ方は色々あるが、著者の旅先と読者の行ったところと一致したものを探すことも楽しい。私の場合は、去年初めて経験したドイツ・ライン川下りが重なった。中西先生は、日本の川下りがしばしば舟にしがみつきながら悲鳴を上げるケースが多いと述べられた後、ライン川下りでも「一度だけ船中が騒然となって、傾くばかりになった時があった」とされている。ローレライの岩を見るために、船客が一斉に右舷に寄って行ったっためというわけだ。去年9月に私もライン川中流の町・ビンゲンに住む友人夫妻の案内で永年の夢であった川下りをした。その際に、確かにかの場所にさしかかると、ざわめきが高まった。ただ、傾くばかりにはならなかったし、結局お目当てのものは何も見えずがっかりしたものだ。先生も「ごつごつした岩ばかりで、不心得者には何も見えない」とされているが、川下りで損をした思いが数か月経って少しだけ癒された気分になった。(2018・1・15)
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(238)今再びの80年の呪縛ー加藤典洋『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』を読む
(238)新しい年が明けて、今年は平成30年。同時に明治150年となった。私が大学4年の時(昭和43年)が明治100年だったので、感慨ひとしおだ。この一年の自身のテーマとして「明治維新」とは何であったか、「近代日本」はいかにして形成されたかを追うと共に、これからの日本はどうなるのか、いや、どうするのかを考えていきたい。年末に毎日新聞の書評で知って以来、加藤典洋『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』に嵌った。これまで私が温めてきた考えを補足修正してくれる格好の本と思われる。ただし、全体で4つのパートに分かれているものの、表題に直結するものは第一章「二十一世紀日本の歴史感覚」と第四章「明治150年の先へ」だけ。挟まれた残りの二つの章におさめられたものは直接は関係ない。本作りのために必要だったのだろうが、こういう編集の仕方をされるとがっかりする。尤も、それゆえに息抜きが出来て読み易くなっているのかもしれない■この本の狙いは、江戸末期から明治維新の際と、アジア太平洋戦争の敗戦に至る前夜の昭和維新の折りに、共に起こった皇国思想(尊王攘夷思想)の由来を確認することである。そして、それらが80年の歳月を隔てていることから、やがてあと7年くらいで二度目の80年が経つとして、同思想が三度目の鎌首をもたげようとしていることに注意を喚起しているのだ。加藤氏の力点は、明治維新後も、昭和の戦後も、二度とも「皇国思想の根を断ち、その克服をめざすことが、少数の試みを除いて、ほとんど誰によっても行われなかった」ことにある。この本では、丸山真男、山本七平らの試みを宣揚する一方で、加藤氏自身の新しい着眼点に大いなる自信を披瀝している。そして「現在私たちの目にしている狭溢な排外思想とすらいえないヘイトクライム、また『うつろな』保守的国家主義思想の跳梁」が、見えないのかとの警告も■明治維新後に、あれだけ騒がれた「攘夷」が嘘のように後退し、反省もないままにいつの日か顧みられずに、「文明開化」の流れに押し流されたこと。そして昭和の戦争後に、負けたアメリカへの掌かえす「対米追従」の順応ぶり。この二つは共通している。この辺りを加藤氏は克明に追いかけ、読むものを惹きつける。前者では福沢諭吉と勝海舟のせめぎ合い。後者では丸山真男、山本七平らの論考の価値を改めて知って知的刺激を満足させられる。かつて同世代の歴史家松本健一氏が「三度の開国」を世に問い、平成の新憲法の必要性を訴えたが、ある意味で真反対の主張とも言えよう■私はこれまで幾度となく明治維新いらい40年ごとに日本社会が変革期を迎え、上昇と下降を繰り返してきたことを取り上げてきた。このままいけば、やがて日本は三度目のどん底を経験するはずとの予測に同調し、であるがゆえに、真っ当な国家目標(経済、軍事に偏重しない文化国家)を掲げるべしと訴えもしてきた。そこには、過去二回における皇国思想の位置づけが足らなかったとの思いが少なからずしてくる。前を見るばかりで、過去の失敗への地に足つけた反省がなく、歴史の顰に倣う姿勢が足らなかった、と。2025年あたりが「二度目の80年後」の到来になるが、その時を漫然と迎えるのではなく、対抗する思想的準備を急がねば、と思うことしきりである。加藤氏はそういう意味での共戦の友、同志足りうるかどうか。同時代を生きてきた、この道の先達ではあるが、正直一抹の心もとなさを感じている。それは何に由来するのかも探りながら、これからの私の思索を重ねていきたい。(2018・1・6 →1・23日に一部修正)
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