Monthly Archives: 10月 2022

【57】大統領の「議会襲撃」扇動──阿川尚之『憲法改正とは何か』を読む/10-29

 選挙結果に疑念を持った大統領が自分を支持する有権者を扇動、暴徒化させ、議会乱入を許した──昨年1月のアメリカでの出来事である。我々は報道を通じて、トランプ氏のしでかしたことをそう認識した。現に彼の責任をめぐって、下院特別委員会が調査を進めるべく、当の本人やその側近を召喚しようとし続けてきている。だが、それに応じようとしないままもう2年近くが経った。このほど、連邦地裁が元首席戦略官のスティーブ・バノン氏に対して、禁錮4ヶ月の実刑を言い渡したと伝えられた。一方、トランプ氏及びその支持者たちは、バイデン民主党に激しい敵意を剥き出しに反撃を繰り返す。こうしたニュースを聞くにつけ、米国分断化への更なる懸念は募る一方である。まるで南北戦争の再来ではないか、と。そんな思いから米国の憲法についての歴史に思いを馳せるに至った。そこで阿川尚之さんの本を読むことにした。だが、この本はトランプ大統領誕生後の2016年5月に発刊されたもので、当時日本では安保法制で大騒ぎの末に決着をみた頃だ。むしろ「日本人の硬直した憲法観を解きほぐす快著」との触れ込み通り、我が日本国憲法に考えが及ぶ。日米の憲法比較についての興味深い内容であった◆「大統領が憲法に挑むとき」(第9章)では、「私の知るかぎり、憲法に公然と反して、あるいは憲法を無視して、政策を実行すると明言した大統領は1人もいない」とあるのは当然のことであろう。ただ、南北戦争の時のリンカーン大統領が講じた一連の措置は、憲法上の措置を踏まずに行われた。民兵の召集や戦費をまかなう債務保証の発行、南部諸港の封鎖などを、憲法上の手続きを踏まずにやったのである。後にこうした行為の一部は大統領の合憲性をめぐって争われた。阿川さんは、米国憲法では、連邦議会の権限については「相当細かく規定」しているが、大統領のそれについては、「比較的おおまかに定めている」ことに注意を促す。戦争をめぐっては、「議会は憲法が与えた自らの憲法権限を盾に、しばしば大統領の戦争のやり方を掣肘する」ため、「制限を嫌う大統領とのあいだでは、争いが絶えない」──これはよく分かる。ただ、選挙結果をめぐっての大統領の議会襲撃扇動は、憲法の想定範囲だったに違いない◆「アメリカ憲法改正の歴史から何を学ぶか」(第10章)は、正式な手続きによるものと、それによらない実質的な改憲の是非についての考え方の例示が参考になる。①憲法の制定と改正は一体②憲法の改正は国民の権利③簡単過ぎる改正は危ない④憲法は解釈しないと始まらない⑤解釈によって憲法は変わる⑥護る憲法、破る憲法⑦国のかたちは国民が決める──このくだりではとくに④⑤と⑥について、日本との違いを痛感する。年がら年中戦争をしまくっているように見える国と、戦争を放棄している国とを比較すること自体に無理があるのだが、国のかたちを考える上で興味深い。米国の場合は大統領の権限が強い。対外的な戦争に踏み出す際に、「戦争権限の限界について論争が繰り返される」が、その都度「国民は『仕方がない』と受け止めてきたように思われる」。大統領は事後的に議会の承認を求め、選挙を通じて、国民はその評価を表明する。およそ、そんなことが許されない日本の場合は、安保法制のように憲法の解釈そのものから大騒ぎになる◆最後に、日本の憲法について感想を述べているところが興味深い。❶改正が一度もない日本の憲法❷保守的な護憲派、進歩的な改憲派?❸憲法の全面改正は望ましいか❹改正手続き条項改正の是非❺日本国憲法は硬すぎるか❻解釈改憲はすでになされている❼司法審査と憲法論争の活発化❽国際情勢の変化と憲法の解釈❾たかが憲法、されど憲法──ここで披歴された感想はこの本の白眉で、いずれも私には極めて穏当に思える。とりわけ、❻で、安保法制は合憲か違憲かで論争が続くが、「ひとえに国民のあいだで今後この法律が定着するかどうかにかかっている」との結論には我が意を得たり、である。最終的に「一種の知的ゲームとして、無謬性を排し、多少のユーモアも交えて、正式の改憲や実質的な改憲も含めあらゆる可能性を検討することこそ望まれる」と締めくくっている。この線で我が国会もいくしかない。(2022-10-29)

★他生のご縁 妹御・阿川佐和子さんとの面談せがむ

 阿川さんにお会いしたのは「慶大出身の国会議員の集い」の場が初めて。私の現役の頃は毎年恒例で、楽しみな会合のひとつでした。この時とばかりに色んな方々と交歓のひとときを持ちました。阿川さんはかの有名な作家・故阿川弘之氏を父に、『聞く力』の著者で、マルチタレントの阿川佐和子さんを妹に持つ方です。

 初対面の時に、「佐和子さんに会わせてください」などとミーハーそのものの発言をしてしまいました。「いいですよ、言っておきます」と温かくも嬉しい返事。それからしばらくして、偶然にも新幹線車中で彼女とばったりと出会いました。束の間でしたがお話できたのです。素晴らしい笑顔に満足したひとときでした。

 

 

 

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【56】5-① 豪快無比のジャーナリスト魂──大森実『我が闘争 我が闘病』

◆私の人生を方向付けた〝運命の講演〟

 大森実──間違いなく私の人生を方向づけた人のひとりである。17歳の年に初めて会った。母校長田高校(旧制神戸三中)の大先輩として高校の講堂の一角でその講演を聴いて、新聞記者になりたいと心底から思った。海外特派員に憧れた。尊敬して止まない超大物記者はその頃、ワシントン支局長を終えて、東京本社外信部長として帰国して間もなかった。この人の一大転機になったライシャワー大使事件(1964年)や、それを書いた『石に書く』の出版は未だ少し先のことである。

 今回、私が読む気になったのは、大森さんの自伝的作品『我が闘争 我が闘病』。2003年刊だからほぼ20年前。81歳。凄まじいまでのジャーナリスト魂の炸裂ぶりと、それに勝るとも劣らぬいのちへの執念を目の当たりにして只々驚くと共に、改めてその豪快無比の生きざまに感じ入った。この本は、奥方の恢子さんも筆をとり共著の体裁をとっている。ご本人が三途の川を彷徨った人事不省の時期を補ったものだが、これがまたとんでもない出来栄え。このひとありてこその「大森実」だと思い知らされた。

 「東京からハノイまで、思えば近くて遠い距離だった」──この書き出しで、大森実外信部長の西側ハノイ一番乗りの記事は始まる。1965年9月25日。私が大学一年の時。ベトナム戦争只中の青春だった。先輩の闘いが誇らしかった。「二週間の滞在で、連日連夜、紙面を飾り、僕のスクープはUPI、AP通信などを通じて、世界の新聞、テレビに転電された」──こう、ご本人は述懐している。

 ジョンソン大統領ら米首脳が怒り猛った。そして当時のライシャワー駐日大使による「オーモリは共産主義独裁国家の代弁者である。オーモリが書いた米軍機による北ベトナムのハンセン病病院爆撃記事は、捏造されたウソである」との爆弾発言が飛び出す。それに毎日新聞は社長以下米国に、「塩を振りかけられたナメクジのように」降伏してしまう。大森さんは怒りを持って同社を辞めた。この報道の正しかったことは後に天下に明らかになる。後輩は、心の底から感激した。この本は、それ以後の彼の苦闘を描いている。

◆仕事上の苦闘と災厄との戦い

 毎日新聞に辞表を叩きつけた大森さんは「東京オブザーバー」なるクオリティペーパーを立ち上げ、獅子奮迅の闘いを展開する一方、「太平洋大学」という洋上大学を企画、滑り出した。だが、身内の背信行為で敢えなく挫折、沈没の憂き目に。2億円もの膨大な借財を背負う羽目になる。それをもものともせず、夜を日に継いで原稿を書きまくり、やがて数年後に返済してしまうというから凄い。

 この本では、そうした彼の仕事上の苦闘と、それとは別に、人生終盤に襲ってきた自宅の全焼始め様々の災厄との闘いを描き切っている。幾たびものいまわの際をその都度乗り切ってしまういのち冥加な大森さんには底知れぬ運の強さを思い知らされる。同時に、とことん看病しきる奥さんには、感動を通り越えて呆れ返るほどだ。仮に私たち夫婦なら、恐らく早い段階で揃って諦めの境地になり、匙を投げたに違いないと思われる。

 この本を大森さんが書き終えたのが2002年暮れ。2010年に88歳で亡くなってるので、8年もこのあと健在だったことに驚く。若い頃のメニエル症候群、直腸癌手術に加え、老後の悪性肺炎、心臓切開手術、網膜症などなど。満身創痍のまま人生を終わりにはしないと、文末にこう書く。「もっともっとリハビリに精進し、週一ゴルフを週二ゴルフに増やして、バックヤードのプールでの泳ぎの回数を増やすことで、身体に力をつけていく!人間の命には限りがあるが、不死鳥のようにサバイバルしたい!そうすることによって、死ぬまでジャーナリストの本領を貫いていきたい」と述べて、「死ぬまで書くぞ」と、締めくくっている。

 意気込みだけは負けぬつもりだが、当方は早々と『回顧録』を書き上げ、一巻の終わりを決め込んでいる。大森さんは、そんなものは自らは書いていない。高校生の時に、壇上の姿を仰ぎ見てからほぼ60年。健在のうちに再会したかったなあ、との思いが募る。

【他生のご縁 電話で直撃コメントを依頼】

 大森実さんに私は直接電話をしたことがあります。公明新聞政治部記者時代のこと。ニクソン米国大統領の電撃訪中(1972年2月)をめぐって、200字ばかりのコメントを求めたのです。依頼の前に、長田高校の後輩としてかつて講演を聴いたことを告げました。電話の向こうから、おうそうか、との明るい声が聞こえてきました。後で、電話をいただければと言いかけたら、今からいうぞ、と直ちに反応が返ってきました。言い終わって、どうだ字数は?ピッタリだろ?と。驚きました。まったく神技だと私には思えました。

 ちょうどその頃、『週刊現代』に「大森実直撃インタビュー」なる連載コーナーがあり、池田大作先生が登場。その後、『革命と生と死』(1973年講談社刊)の中にまとめられています。この頃大森さんは、フリーのジャーナリストとして八面六臂の活躍中。翌74年には米国カリフォルニアに移住されたのです。

 

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【55】1-③ 今もみんなの心の中にいる「小市民」━━ 池内紀『ヒトラーの時代』

 

◆独裁者にドイツ国民はなぜ熱狂したのか

 2022年2月末のロシアのウクライナ侵攻に始まった戦争は今なお激しい攻防が続く。この間、プーチン・ロシア大統領をナチス・ドイツの独裁者ヒトラーになぞらえる向きもあり、西側国家群では憎悪する声が強い。この比較の当否は別にして、両者の非人間性は似ていなくもない。改めてヒトラー及びその政権のしでかしたことを追ってみたくなり、ドイツ文学者・池内紀氏の『ヒトラーの時代』を読んだ。

 この人は私と出身地(姫路市)を同じくすることもあり、これまでその著作をあれこれ読んできた。この本も期待に違わず、何故にドイツ国民がこのような独裁者の出現を許したのかがよく分かり、読み応えがある。池内氏はあとがきで、「ドイツ文学者」を名のるかぎり、ヒトラーの時代を考え、自分なりの答えを出すことは、「自分が選んだ生き方の必然のなりゆき」だと思ってきたと書いている。著者の気合いを知って読む方も張り合いを感じた。歴史エッセイとして読みやすく、写真がふんだんに使われており、時代の空気が汲み取れる力作だ。

 副題に「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」とある。池内さんの答えを読み解くと、二つある。第一次世界大戦後の記録的な超インフレとその後のデフレの中で猛烈な失業者増というドイツの悲惨極まる時代背景が一つ。もう一つは、40にも及ぶ政党が離合集散を繰り返し、やっと成立した内閣も半年も持たず、何も決められなかった政治背景がある。そこに現れたヒトラーが、国民大衆の望みを叶えてくれる「天才だった」からということになろうか。

 後世に生きる我々からすると、およそ信じられないことかもしれないが、ヒトラーの時代の最初の頃は、経済が安定して、暮らしが豊かになった「平穏の時代」だったのである。ヒトラー評伝の著者ジョン・トーランドが「もしこの独裁者が政権4年目ごろに死んでいたら、ドイツ史上、もっとも偉大な人物の一人として後世に残ったであろう」と称賛していることには驚かざるをえない。もちろん、この本ではナチスの残虐無比の悪行の数々も挙げている、だが、「ナチス体制は多少窮屈ではあるが、口出しさえしなければ、平穏に暮らせる。ユダヤ苛めは目に余るが、我関せずを決め込めば済むこと」だったのだから。

◆興味深い「写真」を追う

 私が興味深く追ったのは挿入された幾葉かの「写真」である。「消された過去」から「顔の行方」まで22もの角度から、独裁者ヒトラー及びナチスの〝かたち〟がデッサンされているなかで、最初と最後のものがヒトラーの顔の秘密を追っている。「ふつうであってかつふつうでないヒトラーの顔を後世の私たちは知らない」と、意味慎重な書き方がなされている。じっと見ると、確かにそれぞれ微妙に違う。顔と同様に「ナチズムについては、いまに至るまで解明がつかない」との「むすびに代えて」の表現が言い得て妙である。

 そのほか、随所に「こまかくながめると気がつくことがある」との記述通り、人々のギョッとした顔の表情や、金属製マイク群とシュロの小枝に囲まれたヒトラーの演台に、目が自ずと向いてしまう。更に、みんながハイルヒトラーと、手をかざしている時に、右上に一人憮然とした顔で腕組みしている人物がいるといった風に指摘される。謎めいた書き振りは、読者をして懸命に追わせる迫力に満ちているのだ。

 池内さんは、この時代にナチスに反抗した人々を追うことも忘れない。「別かれ道」と題して、ドイツ人女優のマレーネ・ディートリヒ(嘆きの天使)がナチスの執拗な誘いを拒否しブロードウェイで人気者であり続けたことや、ドイツで活躍した写真家の名取洋之介が密かに後世へのメッセージを撮り続けたこと(死後40年後に公開)などを紹介しており、胸打たずにおかない。

 最後の「小市民について」で、ナチスの側に立った反ユダヤ主義的根性が誰の心の中にも存在していることを挙げている。あなたの中にも、この私の中にもいるとしたうえで、「これは永遠の小市民であり、とりわけ自分を偽るのがうまいのだ。過去を話すとき、巧みに事実をすり替える」と。ウクライナ戦争に思いを馳せると、背後に横たわるドイツ(NATO)とロシア(ソ連)の、世紀を跨いだ抗争に胸が痛む。我が体内の「小市民」は、この歴史的事実を間違って捉えていないだろうか。

【他生のご縁 息子さん(池内恵)の本を話題に】

 池内紀さんと最初にして最後に会ったのは、私の現役最後の頃です。姫路市内の講演会場に来られた際に、舞台裏の控室にひとり押しかけました。池内さんもポツンとおひとりでした。私が姫路・城西地域の生まれであることや、かつて感激のうちに観た池内さんと銅板画家の山本容子さんとのイタリアの街道をめぐるテレビ放映のことを語りました。が、「ほう」と仰るだけ。

 共通の知人のことなど何を持ち出しても反応なく、とりつく島なし。仕方なく、イスラム研究者で息子さんの池内恵さんの本について語りました。すると、「彼は頑張ってますか、ねぇ」と反応がありました。短い出会いでしたが、今なおこの記憶は鮮明に残っています。

 

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【54】7-② ものごとの本質を追う真摯な姿勢━━田原総一朗『創価学会』

◆テレビ出演で「挑発」にハマってしまった私

 ひとまわりほど歳上のジャーナリストの田原総一朗氏のことを、私はかつて畏敬の念を持って見ていた。新聞記者願望の強かった私ゆえ、その道の大先輩として憧れていたといってよい。特に取材対象を追い詰めるその手法の鮮やかさには惚れぼれする思いだった。ただし、こちらが政治家になって、勝手が違った。2回ほどテレビで彼の番組に出て、この人お得意の「挑発」を受け、まんまと嵌ってしまった。屈辱感を味わった。それ以来どうも好きになれない。他にも理由はあるのだが、ここでは触れない。

 そんな私だから、テレビの司会番組は観ても、彼の著作はあまり読まずにきた。ただ、『創価学会』については読まないわけにいかない。むかしよく見た懐かしい映画をDVDで見直すかのように読んだ。この道60年の辣腕の人がもたらす手際の良さには唸るばかり。ただし、この人らしいツッコミが足りないところも指摘せざるを得ない。

 田原氏がこの本で解き明かそうとした重要な関心事は2つ。一つは「来世は本当にあるのか」との思想・哲学的関心。もう一つは「創価学会が『深刻な危機』を幾度も経験してきていながらその都度乗り越えられたのはなぜか」との組織論的関心。前者は池田先生との対談で極めて興味深い答えを聞き出したことを明かす。後者は、池田先生と会員一人ひとりとの絆の確かさにあるとの実態を彼は発見した。これに付随する展開を追いながら、ものごとの本質を追う真摯な著者の姿勢に強い感銘を受けた。ほぼ60年程創価学会員として生き、公明党に深く関わってきた人間として、多くの新たな気づきをも得ることが出来た。子どもや孫、友人たちに読ませたいと心底思った。

 ◆〝得意のツッコミ〟の足らなさ随所に

 一方、自民党を批判してきた公明党が今や連立政権を組むに至っていることを、リアリズムに徹したリベラリストの田原さんはどう見ているか。時系列的に追ってみよう。初めて連立政権を組んだ1999年10月の自自公内閣発足時。「(自民党を腐敗政党と批判してきたのに)明らかに豹変であり、私には納得し難い」。世間を分断する賛否両論が飛び交った2015年9月の安保法制成立時。「(自民党のブレーキ役を演じている)公明党がこの姿勢で頑張るかぎり、私は公明党を支持する」──16年後の見立ての変化の謎解き──原田稔会長とのやりとりが興味深い。

 立正安国という信念を持ちながら、どうして日本の政党で一番腐敗している自民党と連立するのかと、田原氏が訊く。それに会長は「連立することで、庶民目線を政治に反映させ、また、政治を浄化させることを目指したのでは」と答える。田原氏は「全然浄化できてないじゃない、どうしてそんな自民党とくっついているんですか」とたたみ込む。会長が「おっしゃられることはよくわかります(笑)」と述べた後、政治の安定の必要性から見て、果たして連立から公明党が外れるのがいいのかどうか、「慎重に(公明党には)考えながら進めてもらいたい」と答える。そこで田原氏は矛を納めている。

 かつて山口代表との対談本で、安倍元首相のいわゆる「モリ、カケ、さくら」問題を取り上げたくだりがあった。あの当時、「さくら」について、安倍さんと山口代表との新宿御苑での壇上でのツーショットが話題になっていた。それだけに田原氏のツッコミには緊張感を持って読んだ。しかし、ほとんど彼らしさがない中身だった。いつもの彼とは違って甘い田原氏が浮かび上がってこざるを得ない。恐らく根っこは人がいいに違いない。この本の締めくくりは「世界広宣流布に挑戦し続ける創価学会がどこに向かうのか。池田が育ててきた弟子たちの動向に、これからも注目していきたい」と結ばれている。

【他生のご縁 テレビで「冬柴さん」と呼ばれて】

 田原総一郎さんのテレビ番組に、出た時のこと。あれこれやりとりした最中に、私に返答を促す際に、「ふゆしばさん」と明確に問いかけられました。瞬時、私は、「赤松ですよ」と大きく言い返しました。彼は、バツが悪そうに「ああ、失礼」と言ったように聞こえました。その後、直ぐコマーシャルタイムになったので、その合間に「田原さん、酷いですねぇ。わざと言ったでしょ?」と伝えました。尊敬する先輩に間違われることに、目クジラ立てずともいいのでは、ということもあるかもしれません。しかし、名札も付けているし、似てもいない私に大きな声で違う人の名を呼ぶのは、失礼千万です。

 また、私が初めて出版した本を田原さんに届けたことがあります。ぜひ一読してほしいと思ったからですが、なしのつぶて。いちいち反応はしておれないということでしょうか。

2023年12月5日の正午過ぎ。上京中だった私は後輩の公明新聞のT 記者とランチを食べるべく、第一議員会館の地下食堂に行きました。入ってすぐのところに田原さんが座っておられました。私は直ちに、上に述べたような過去の思いをぶつけました。遠い過去のこと、恐らくわからなかったのでしょう。それには答えず、「アメリカとの関係が大事だよ、公明党頑張って」とだけ。嗚呼。

 

 

 

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【53】5-④ 映画に歌に昭和を駆け抜けたマイトガイ──小林旭『さすらい』

◆息を飲みっぱなしの連続活劇

 長嶋か王か?若乃花か栃錦か?〝戦後第一世代〟は、プロ野球、大相撲の人気を二分するスターに熱中した。そして映画や歌の世界では、裕ちゃんかアキラか?の選択が今になお続く。石原裕次郎と小林旭。残念ながら裕次郎は52歳で逝ってしまったが、アキラは芸能生活60年を超えて未だ健在。ここで、芸能人を取り扱うのは初めてだが、何を隠そう、私は学生時代に日活調布の撮影所にエキストラのバイトで通ったし、後述するように彼の歌ともご縁がある。そして『渡り鳥シリーズ』の脚本を書いたとされる、後の原健三郎衆院議長は郷土・兵庫の大先輩である。様々な思いをめぐらせながら、「小説風自伝」を一気に読んだ。

 若かりし頃のアキラのタフぶりは、ともかく凄い。「大部屋時代」のバットで襲われるシーン。思いっきり振られたバットが彼の腹の腹筋力で真っ二つに折れた(という)。いくらなんでもこれは怪しい。しかしそれもあるかも、と思わせるような話が次々登場する。

 「渡り鳥誕生」のアキラが殴られて2階から落ちるシーン。吹き替えをやってくれた鳶職人が大腿部骨折をしてしまう。病院に見舞いに行くも、「痛ぇよ、痛ぇよ」と唸り声が聞こえてきた。いらい、自分で痛みを感じる方がまだマシ、と一切吹き替えなしですませたという。保険会社も恐れて逃げたとの逸話も本当だろう。「命知らずのマイトガイ」では、八路軍に殴り込みをかけるシーンで、爆発係の手違いのため相方の左足が大腿部ごと吹き飛んだ。アキラ自身も生死を彷徨って、首の骨を折る寸前の大事故を起こした。息を飲みっぱなしの連続活劇は、怖さをもともないつつ実に面白い。

◆迫力溢れる「日本映画論」

 やがて「昭和42年」に大きな転機がきて日活をやめる。その際に展開される「日本映画論」が実に迫力に満ちていて、この本の白眉である。一言でいえば、作る側も観る方もアメリカ映画に魂を奪われ、骨抜きにされてしまったということに尽きる。アキラは「アメリカにしてやられた」責任は、「先を読めず目先のことに奔走し、セコい作りをし始めていた日本映画界にある」と断罪する。「映画が斜陽だからといっても、まだまだその流れを食い止め、我慢して来る時を待つという手はいくらでもあったのに、ロマンポルノだとか目先の利益ばっかり追いかけた結果、今なお続く映画不毛の国になってしまった」と、手厳しい。

 この本の出版は20年ほど前だが、この流れは止まってはいない。昭和30年代まで日本映画界は、黒澤明、小津安二郎、溝口健二ら枚挙にいとまがないほどの巨匠たちが輩出した。アキラの演じたアクション映画の世界も然りだ。今では欧米どころか、韓国にもすっかりお株を奪われた感がして悔しい限りだ。

 映画界を去ったアキラは事業に手を出し、大火傷をする。いや、その前に、美空ひばりとの結婚(昭和37年)という一大イベントがあって、「公表同棲から理解離婚」の章が一部始終を物語る。世紀の大歌手とのカップルには私も心底驚いたものだが、裏話は興味津々だ。慣れぬ事業の失敗で巨額の負債を背負うものの、へこたれぬ姿は胸を打つ。さぞかし辛かったに違いない。そして、ひょんなことから本格的に歌手への道が開く。

 きっかけは、一世風靡の曲『昔の名前で出ています』だった。私はカラオケは苦手だが、ある時、仲のいい後輩からアドバイスを受け、この曲を練習した。せっせと歌ううちに段々それなりに様になってきた。そのうち、何を歌っても、声が、節回しがアキラにそっくりとまで言われるようになってしまう。その噂が当のご本人周辺に届いてしまった。選挙の初挑戦で落選し、苦節4年の後に当選するまでの間に、アキラの4曲を部分的に替え歌にした。それがなんと、彼の前で私が歌うことになったのである。その顛末はまたの機会に譲りたい。(敬称略)

【他生のご縁 一緒に歩きながら替え歌を唄う】

 私が替え歌にした小林旭の4曲とは?「私の名前が変わります」「ごめんね」「もう一度一から出直します」「お世話になったあの方へ」です。最初のは、選挙に出るにあたり、私の仕事が変わるということに引っ掛けました。次のは、みんなに応援いただきながら落選してしまってごめんなさいとの意味に変えました。三つ目は、文字通り、落ちた時の心境です。最後のは、応援していただいた皆さんへの感謝の言葉です。時に応じて、カラオケで歌っていました。

 アキラさんの曲を私が歌うのを聴いた仲間が、噂していたのが、ある著名な方の耳に入りました。その人は、知る人ぞ知る小林旭の友人で、毎年年末恒例の「小林旭ショー」に幾人もの知人を招いていました。そんなときに、私に白羽の矢が立ちました。会場を移動する際に、挨拶もそこそこに「アキラさん、私の替え歌聞いてください」と言いつつ、触りの部分を歩きながら歌ったのです。「うーむ。俺の歌をそんな風に歌ってくれるの、あんただけだねぇ」と、感心されたのはいうまでもありません。天下のアキラと並んで歩きながら、彼の持ち歌を替え歌にせよ、聞かせるとは。我ながら呆れると同時に、誇りに思っています。

 

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