現代の安保論争にあって欠けている視点は大きく二つあるとの著者の指摘には同感だ。一つは、伝統的な見方、もう一つは新しい見方に起因する。前者は「力の真空」がもたらす危険を見逃しがちだという点。軍事力が均衡している状態の方が安定し、そのバランスが崩れたときに一気に戦争への機運が高まるというのは、いにしえからの常識だが、なかなか一般的には理解されない。一方、かつての「国家対国家」の紛争の対立の枠組みが今や消えかけ、国際テロ組織が簡単に国境を超えてしまう点だ。たとえば、アフガンは今やタリバンとISにいいように翻弄され、国家は今やズタズタにされてしまっている▼こうした時に、集団安全保障的思考をなおざりにし、一国平和主義的なものの見方に凝り固まっていると、世界の中で孤立するとの指摘は極めてまっとうだ。特に国連平和維持活動にあって、駆けつけ警護を旧来的な日本独自の集団的自衛権の考え方によって避けてきたことは問題だった。だからこそ、その辺りを見直した今回の安保法制を多くの国々が好感を持って迎えたことも見逃せない。「反戦平和」なる旗印が特殊日本的な響きを持ってることを、当の日本人があまり分かっていないのである▼また、国連で日本が米国に対して決して従属的な態度はとっていないとの指摘は意外だった。国連総会で日本がアメリカと同調した態度をとったのは67.2㌫で、同盟国では最も低いというのだ。これを見る限り、アメリカの要請に日本が断り切れず、戦争に巻き込まれてしまうとの論法は「必ずしも公平とはいえない」という著者の主張は新鮮である。自国政府の態度に自虐的過ぎるぐらい不審を持つというのは考えものであろう▼最終的に今回の安保法制論議で問題視されるのは、政府の説明不足に加えて「安保法制懇の報告書、内閣法制局の憲法解釈の法理論、自民党、公明党の間の与党協議、そして防衛省、自衛隊からの具体的な要望と、様々な要素を融合させて、妥協的に合意したことに、(分かりづらさの)大きな理由がある」というが、さもありなんとの思いが私にも強い。とりわけ、自公両党の協議内容は大ぴらに公開してほしかった。党首討論なり、担当者間の公開討議でもやって、両者の主張の食い違いを鮮明にした方が、より分かり易くなったのではないか。この辺りは今からでも遅くないから、検証がなされる必要があるものと思われる。ともあれ、安保論争は持続的に続けられていくことが大事で、この本はそうした営みの糸口になるに違いない。(この項終わり 2016・9・18)
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(171)「戦争法対平和法」という不毛の対立ー細谷雄一『安保論争』を読む➃
この本で著者が言いたかったことは最終章の「日本の平和主義はどうあるべきかー安保法制を考える」にある。まずここでは集団的自衛権をめぐる戦後政治を俯瞰するなかで、1981年の「集団的自衛行使の全面禁止」に至る経緯を述べているくだりが注目される。この年の結論に至るまでは、集団的自衛権の部分的容認=部分的禁止といった玉虫色の解釈だったのを、1972年から10年程の歳月をかけて、内閣法制局が全面禁止論へと変えていく様子はなかなか面白く読み応えがある。結果的に内閣法制局の硬直的で官僚主義的な行き方に風穴を開けようとしたのが、あの民主党政権であったというのは、今となっては興味深い。尤も、その民主党が野党になってくるりとその主張を180度変えてしまったことは、何ともはや情けないといえよう▼次に、「平和国家」日本をめぐる安全保障論のところでは、今回の安保法制論議が本質的な議論をせぬまま、不毛のイデオロギー闘争になって行ってしまった経緯を詳しく述べており、共感する。本来ならば、「平和を維持して実現するために必要な手段として、どのような安全保障政策と安全保障法制が必要かをめぐっての論争が行われるはずであった」が、「安保関連法を批判する多くの人々は、あたかも自分たちが平和を象徴し、そして政府が悪意を持って好戦的に戦争を求めていると、意図的に誤ったメッセージを送り続けた」という指摘が特に印象深い。とりわけ「戦争法」なる言葉を濫用した勢力の罪は深いし、それにまんまと乗っかった一部メディアの見識も問われよう▼細谷氏は「法的安定性を尊重しながら、時代状況に応じて柔軟に憲法解釈を変更することが、なぜ立憲主義に否定や破壊になってしまうのだろうか」と問いかけ、自ら「理性的な憲法解釈というよりも、軍事力それ自体を悪と見なして、それを廃棄させようとする運動であり、特定の政治的イデオロギーではないのか」と答える。これに私は全く異論はない。ただあえて付け加えるとすれば、法案成立までの過程で強行採決した(厳密には野党の「採決強行阻止」)政府側の姿勢の在り様と混同されたきらいがあるのは残念だとは言える▼そして著者は「なぜいま安保関連法が必要なのか」という素朴だが、重要な問題提起をするのだ。野党の「戦争法」対政府与党側の「平和法」という根源的で不毛の対立がなぜ起こったのか。ここは、「戦略の逆説」という概念を、前提として理解しなければ、結局は安保法制の必要性を理解できないと、議論を展開していくのだが、引き続き詳細に追っていきたい。(2106・9・15)
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(170)混沌か安定か、岐路に立つ世界ー細谷雄一『安保論争』を読む➂
細谷氏は第三章「我々はどのような世界を生きているか」において、大西洋から太平洋へと舞台は移り、ヨーロッパ中心の国際政治は、アジア太平洋にその焦点が変わったことを取り上げる。その際に、主たるプレイヤーとして新たに登場したのが中国であり、米国の「軍事的な介入主義の伝統が終わりを迎えつつある」との認識を表明している。そこで、日本は、新しい歴史の舞台に立つ国家として、安全保障と国際経済の両面で、中心的役割を担う構想を持て、と鼓舞しているのだ▼現今の国際政治の大きなテーマの一つは、中国の東シナ海と南シナ海での傍若無人な振る舞いへの対処である。先のG 20では、国際司法裁判所による判定に神経をとがらす中国の習近平主席の動向が注目された。この問題で、細谷氏は米国の海軍戦略理論家マハンとオランダの法学者グロティウスの二人を持ち出して「マハンの海」と「グロティウスの海」の対比として描く。前者が弱肉強食の海洋風景を意味し、後者は国際公共財としての海洋事情を表す。中国に対して、今南シナ海や東シナ海でとりつつある態度を改めさせ、法の支配に基づいた秩序を作っていくことこそ、日本の役割だと言うわけだ▼さらに、ロシアと日本の関係という、極めて時事性に富む内容にも踏み込んでいる。安倍、プーチン両首脳の領土、経済の両面からの接近ぶりに、両国関係の画期的好転への期待感が広がる。それにも細谷氏は「希望的憶測から対露政策を進めてはならない」と安易な希望を持つ愚を嗜めている。強固な日米関係と安定的な日中関係があって初めて、日本はロシアに対して戦略的優位にたてるのであり、今のような普天間基地や尖閣諸島問題で、日米同盟に隙間風が吹き、荒れ模様の日中関係では、ロシアの対日譲歩は考えにくいというのである。残念ながらこの極めて常識的な見解に異論を唱える向きはいなかろう▼世界はこれから混沌に向かうのか、それとも安定的な秩序ある方向に向かうのか。これへの結論は、日本外交に理性と規律が国際社会で確立されるよう、ルール作りへの手助けが求められているという。理性ではなく感情を、ルールではなく無法を持って、立ち塞がっているかのように見える中国が相手だ。なかなかに難しい課題だという他ない。(2016・9・11)
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(169)「一国平和」という「孤立主義」の闇ー細谷雄一『安保論争』を読む➁
細谷氏は「どのような場合に平和が失われ、戦争が起こるのか」を歴史の具体的事例を通じて学ぼうと、第二章「歴史から安全保障を学ぶ」を書いている。ここでの彼の結論を一言でいうと、「急激なパワーバランスの変化、つまり力の均衡が崩れたときに戦争は起こり易く、他国と協調するなかで集団的に平和と安全は維持できる」というものである。具体的事例として、17~18世紀におけるフランスの軍事的抬頭とそれに対抗した英国の姿勢や、19世紀後半のドイツをめぐる第一次大戦、第二次大戦への動きなどを挙げる。そして現在のアジアでは、中国の軍事的突出と、日米の急速な影響力の低下が平和を破壊する要因だとする▼さらに細谷氏は、心情的に平和を願う「心情倫理」のみで現実の平和が到来すると信じる現代日本人を、「政治のイロハもわきまえない未熟児」(マックス・ウェーバー)だと、言わんばかりに厳しく指摘する。その背景には国際政治学の先達・故高坂正堯氏の言う「孤立主義的な体質」があるとする。これこそ戦前の日本を戦争に導き、戦後の独善的な「一国平和主義」を生み出した原因だというのである。尤も「孤立主義」という言葉を字面だけ見ると、反発する向きはあろう。日米同盟至上主義に凝り固まった姿勢のどこが孤立主義なのか、と。戦後日本の左右対立の構図は、お互いを「対米追従だ」いや、「一国平和主義だ」と罵り合ってきた。「孤立主義には甘美な誘惑がある。他者を無視して、自己の正義を語り、優越意識を楽しむ」ものだとの細谷氏の指摘を見ると、私自身の体内にも、その血が流れており、やがていつの日か米国からの真の独立を待望する思いが強いことを認めざるを得ない▼細谷氏は20世紀の国際社会は、一国単位ではなく、他国と協調するなかで集団的に平和と安全が維持できると考えるようになったという。そう考える一つのきっかけとなったのは、国際連盟脱退から戦争へと突き進むに至った日本の行動であったのは事実だ。ところがその教訓を日本自身が学ぼうとしていないことに警告を発している。昔ながらの「孤立」ともいえる「一国平和主義」にとらわれるべきではないというのだ。このあたり、戦後史の中で遅れて登場した公明党としては、旧左翼陣営に対して、思う存分主張してきた経緯が鮮やかに蘇って来る。ある意味、「一国平和主義」に凝り固まった社会党を打倒する先駆けとなったのは公明党だとの自負さえある。それだけに戦後70年を超えた今頃になっても「一国平和主義」的志向が根を断たれていない状況を見ると、心穏やかではないのである▼この章の結論部分で、細谷氏は「集団的自衛権を軍国主義や戦争と結びつける思考は、20世紀の国際政治の経験を無視し、国際社会の潮流を理解しない議論」だと断じる。そして「心情倫理」だけではなく、「責任倫理」をも視野に入れ、「平和と安全を得るために必要な要素を冷静に議論する」ことを強調する。このことは、今回の「安保法制」の前提となっている集団的自衛権の導入について、安倍自民党と山口公明党が片や認め、片や認めていないという「同床異夢」に基づいた「奇妙な玉虫色」であることと無縁ではない。集団的自衛権という言葉がいつの間にか「魔性」とでもいうべき特色を持つに至っていることに気付かざるを得ないのだが、ここには、公明党の中においても、細谷氏のいう「心情倫理」にこだわる姿勢が色濃く残っているといえよう。(2016・9・9)
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(168)50年前から進展していない「平和」希求者たちー細谷雄一『安保論争』を読む➀
一昨年来の安保法制をめぐる動きを追うにつけて、いわゆる”左翼知識人”の知的及び行動的退廃とでもいうべきものを嘆かわしく感じる。とりわけSEALEDsなど若い世代の動きを持ち上げ、そこに縋ってるかのように見えることに。それは、かつての60年代から70年代にかけての「安保闘争」へのノスタルジーを重ね合わせているのかもしれない。かつて自分たちが歩んだ道を、また歩もうとする後輩たちの誤りを糺さずに、むしろおもねってるようにしか見えないことは、私には大いなる悲喜劇だと思われる。そういう風に考えていた私が細谷雄一『安保論争』を読んで、まことに共感するところが大きい▼いま「安保法制」をわざわざ「戦争法」と呼んで反対する人々が、イスラム国への批判やウクライナの現状について、殆ど声をあげているようには見えないことを、細谷氏は不思議であると指摘する。ベトナム戦争への反対を叫ぶ中で、青春期を過ごしてきた私のような世代からすればなおさらだ。ベトナム戦争を経て、南北ベトナムは一本化し、荒廃そのものの地から逞しく蘇った。一方深く傷ついたアメリカは今もなお戦争から足を洗えないでいる。この結果だけを見ても、今展開されている事態に日本の「平和勢力」が声を上げ続けないのはおかしいといえよう。地球的規模で「平和と戦争」を見つめないと、結局は日本人だけ平和であればいいとのエゴであると見られてしまう▼安保をめぐる議論は、かつてと大きく違っているはずだ。それは、自社対決の55年体制下の時代は、自衛隊を違憲の存在とし、日米同盟を危険なものとして否定してきたが、今ではそれらを受け入れることが国民的コンセンサスとして定着しているからだ。ところが、「戦争法反対」という人たちは、時代の変化に目を向けず、議論を50年程前に戻そうとしているかに見える。これでは、かつての安保世代が失敗した経験を、後輩たちに押し付けようとしているだけではないのかと思う。そこには50年の時代の変化が全くこの人たちには見えていないというしかない▼「安保関連法の必要を説く者が、安全保障環境の未来を想定しているのに対して、安保関連法を批判する者が安全保障環境の過去を想定している場合が多かった」-こう細谷氏が指摘することを一体彼らはどう考えるのか。戦争空間が世界大から宇宙大へと広がり、サイバー空間で争われることなったことの意味を意図的に外していいのだろうか。こう指摘すると、一体今の世において戦争が起こると本気でお前は考えているのかとの反論が聞こえてきそうだ。戦争に対処しようとするからこそ、却って巻き込まれるのであって、当初からそんなものを考えない方がいいのだ、と。こうした”古き良き考え”というか、「空想的平和主義」とでもいうべき「非武装中立的思考」が今もなお彼らの頭に宿っていることを真剣に憂わざるを得ない。細谷氏の言説を追いながら、「ベトナムからシリアへ」と背景の舞台が変わった日本の「安保」を数回にわたり考えてみたい。(2016・9・5)
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