Monthly Archives: 2月 2021

面白いのは推理小説だけじゃないー森本穫『松本清張 歴史小説のたのしみ』を読む

いまどきどうして松本清張の歴史小説なの?実はこの本、つい先日著者の森本穫(おさむ)さんから「旧著ですが」と、送って頂いた。直ぐに開いて、そのまんま一気に読み進め、翌日に読み終えた。清張の推理小説なら過去にそういうことはままあったが、歴史小説を評論にせよ読むのは初めて。書いたこの人は元短大教授にして文芸評論家。16編を11に分けて解説したものである。原素材をうまく使って、食べやすくしてくれた料理のように、絶妙な味だった。本体を直接味わってみたいとの期待を惹起させてくれる▲森本さんは、姫路ゆかりの人(生まれは福井県)だが、長く面識を得る機会に恵まれなかった。モロイに心酔し、和歌文学に造詣の深い小説家の諸井学さんに、明石に転居する少し前に紹介された。この人を小説創作上の師と仰ぐ諸井さんから、川端康成や阿部知二研究で名高い人と聞いていたので、清張の本を前にして驚いた。懐石料理屋で、いきなり一口カツが沢山出てきたような思いがした。恥ずかしながらこの人が松本清張研究会員でもあることは知らなかった▲清張は朝日新聞西部本社の広告部で図案や版下文字を書いていたことは有名だ。彼が記者に憧れたことは、その世界を齧ってきた私にはよく分かる。しかも私は政党機関紙記者の劣等感に苛まれてきたから他人事ではない。中学もろくに出られず、貧しい家庭の子沢山の中で育った清張が、いかに社会の底辺から這い上がる苦悩に支配され続けてきたかということも。彼の創作の原点にある視点を、歴史上の様々な人物の生涯に照射した試み。それがこの本で触れられた一連の歴史小説集である▲清張の処女作『西郷札』が、徳冨蘆花『灰燼』や樋口一葉『十三夜』の影響を深く受けていること、『疵』『白梅の香』が森鴎外の『佐橋甚五郎』や『興津弥五右衛門の遺書』を応用したことなどなど、森本さんは次々と明かしていく。ある意味で清張は〝模倣の天才〟でもあった。図案職人から大作家への彼の〝成長過程〟を知って、読者は穏やかならざる気持ちに誘われる。天才と凡庸の差のあまりにも大なることを思い知るのだ。それにしても森本さんの清張料理における手際良さは、目を見張り舌を巻く。文中しばしば図書館における「相互貸借制度」の恩恵にいかに浴したかに言及されていて興味深い。〝名料理人の俎扱い〟を曝け出してくれているかのようにさえ思われる。さてもさても姫路時代になぜこの人ともっとお付き合いできなかったのか、と悔やまれてならない。(2021-2-27)

★思索録「疫病禍に苦しむ人類のこの800年ー寺島氏の『日蓮論』から考える」に更新しました(2021-3-5)

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なぜもっと注目されないのかー山口那津男vs田原総一朗『公明党に問うこの国のゆくえ』を読む

「日本の政治の舵を取る 公明党のすべてがわかる!」「当代随一のジャーナリストが政権政党代表に舌鋒鋭く迫る」とのキャッチコピーに惹かれて読んでみた。コロナ禍への対応も入っており、公明党に関する最新の情報が満載されている。読み終えて、こんな凄い闘いをしている党なのに、世にあまり注目されていないのは不可解だと思わざるを得ない。私のような公明党関係者でも新たな気付きが一杯あり、刺激に溢れている。ただ、一重たちいたって深く読むと、少し物足りなさも残る▲まず、山口代表が衆議院選で、自民党公認候補との調整がならず、二度にわたって闘って敗れたことについて。「こんな経験をした者は公明党の歴史の中で私しかいません」と。溢れる悔しさを覆い隠した珍しい発言である。「衆議院選挙で2回落選して、もはや政治生命は絶たれた、と自分でも思いました」ーこの前後の記述には切なくやるせない思いにさせるものがあり、公明党の選挙を経験した者として、まさに正座して読まねばならぬと思った▲全国の地方議員の闘いに触れたところ(第一章)も、改めて公明党の底力の所以を思い知った。また、郵政解散で「新しい時代の風」が起こり、「とにかく風に乗れ」と訴えた場面(第二章)では、知られざる同代表の一面を見て興味深かった。新型コロナウイルス感染症対策で、閣議決定を覆し、10万円給付決定にまで持ち込んだ舞台裏(第三章)は、まさに迫力満点。社会保障政策に関する第五章は、私にとって新しい気付きばかり。「無償化3本柱」の中身、フィンランドに学ぶ子育て支援スタイル、就職氷河期の課題解消策などなど、すべて目から鱗が落ちる思いで、読み進めた。公明新聞紙上でこの対談を細かく分けて掲載をするとか、ユーチューブで発信すべきでないのかと思うことしきりだ▲次に私の最大の関心事を巡っての思いを二つ挙げたい。一つは、安倍自民党の金権政治の象徴として、問題になっている「桜を見る会」について。田原氏が「かつての自民党なら、実力者の誰かが、安倍さん、やめた方がいいよと忠告したはず。ところが、今は誰も言わない」と述べている。それに対して山口代表は「公明党は3、4人しか割り当てられていませんけれどね(笑)。」と発言。ここは「残念ながら背後の事情など知る由もなかった」とか、率直に弁明して欲しかった。田原氏が「そういうときは、やっぱり、公明党が強くいうべきなの」と差し込んでいるのに、同代表は黒川検事長の定年延長問題に関してはきちんと説明すべきだ、とだけ。「桜を見る会」については、公明党も参加せざるを得なかっただろうが、問題点はそれなりに追及すべきだ。一般的には壇上の首相の隣に山口代表が並び、杯をあげているシーンが映像で出てくるたびに、〝自公一体〟が印象付けられ、うんざりしてしまう▲公明党に今一番求められているのは、この国をどういう国にしていくのかというビジョンの提示ではないか。社会保障分野を始め、他党の追従を許さぬほどの政策提案を展開、実績も十分だが、国のあり方の大きな方向性で党独自の視点が見えない。要するに自民党と歩調を合わせる党であるとしか見えてこないのだ。この本の「はじめに」で、田原氏は、「最後に公明党は日本をどのような国にしようとしているのか。山口代表のビジョンをお聞きしたい」と述べている。私もそれに期待した。しかし、ズバリそう聞く場面は出てこない。当然、その答えもない。残念という他ないのである。蛇足だが、本書で活躍に言及されている公明党国会議員は男女2人づつ4人いるが、全て参議院議員。衆議院議員はどうしているのかと余計な心配をしてしまう。(2021-2-20)

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人の精神への処方箋と、文明への見立てとー中井久夫『分裂病と人類』を読む

前回紹介した与那覇潤さんの論考(『繰り返されたルネサンス期の狂乱』)の中で、私がもう一つ注目したのは中井久夫さんの『分裂病と人類』について触れられていたことである。この人は神戸に住む精神科医で、文筆家としても名高い。かつて私は『日時計の影』(2008年)『樹を見つめて』(2006年)を感動のうちに読み、読書録にも取り上げたことがあるが、この本は更に20年ほども前の1988年に出版されている。学術書風の硬いもので読みやすいとはいえないが、意を決して挑戦してみた▲最後の最後に「終わりにー〝神なき時代〟か」に接して、愕然とするほかなかった。「〝司祭〟を越えて殆ど〝万能者〟〝全知者〟として患者に臨まんとする医師の内なる誘惑が(実は医療の技術的未成熟による面が大きいのであろうけれども)、今日ほどたやすく診察室で実現しうるときはおそらくない」と述べた上で、「精神科医が、神の消滅しつつある時代に司祭あるいは神にとって代わろうとするのか。この誘惑の禁欲において医師としての同一性を保持しつつ患者に対しつづけうるのか。これは西欧精神医学の問題であるとともに、その枠を越えた現代の問題、特に日本(とあるいはアメリカ)の問題であろう」と結んでいる。いささか持って回った表現で解りづらい。要するに著者は〝神の代理人〟としての精神科医の危うさを吐露されているように、わたしには読める。それから40年が経った今も、この病をめぐる状況は殆ど変わりないように思われる▲一方、この本では、ルネサンス期の「魔女狩り」の史実を追っていて知的刺激を強く受ける。実は与那覇さんは、前述した論考で、「魔女狩り」と、現在における「反知性」の謀略論の台頭との類似性に着眼している。しかもその上に、「『西洋近代』を生み出す際の陣痛だったともいえるルネサンスのダークサイドは、目下の世界情勢とよく似て」おり、「いわば『中国主導の脱近代』への過渡期における『第二のルネサンス』が今起きているのだと見ることも可能」とまで読み取っている。加えて中井さんが「ルネサンス時代は異能を持たぬあたりまえの人が生きにくい時代であった」というルネサンス歴史家・塩野七生さんが繰り返す言葉に注目していることも見逃せない。この本は患者としての与那覇さんを見事に甦らせ、ついでに読者をも魅了させるのだ▲以上のように、この本は精神科医としての中井さんの二面性ー精神を患っている患者に対する医師の姿勢と、文明の病的側面を診る文明史家の態度ーが窺えるものとして、実に〝面白く〟読めた。なかでも第二章「執着気質の歴史的背景」での「文学的脇道」がいい。江戸期から明治期にかけての士農工商各階層ごとの倫理を語って、すこぶる惹きつけられるのだ。二宮尊徳、大石良雄、森鴎外、芥川龍之介らが俎上に昇っているが、とくに鴎外についての記述には関心を持った。「鴎外山脈」とも称される膨大な作品から、その一生を集約するものとして、詩「沙羅の木」を挙げている。「日露戦争における戦死の予感」としての「(鴎外)自らへの悼みの詩」は忘れ難い。「褐色(かもいろ)の根府川(ねぶかは)石に 白き花はたと落ちたり ありしとも青葉がくれに みえざりし さらの木の花」ー残された我が人生で、掴み損ねて置き去りにしているものを味わい尽くしたいとの、切なる思いが募ってきた。(2021-2-12)

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知性は死にそうー與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』を読む

與那覇潤さんの『中国化する日本』は、妙に気になる視点のユニークな本だった。その後、彼が躁鬱病になったとの話が届いた時はショックだった。若いのに惜しいなあ、との思いが強かったのである。それだけに、大学は辞めたものの、物書きとして復活したとのニュースは嬉しかった。もう、カムバックから4-5年経つが、先日雑誌『Voice』2月号で久しぶりに論考を発見し、熟読した。『繰り返されたルネサンス期の狂乱』である。「(コロナ)危機への対応を先進国の政治家や知識人が誤った結果、知性への信頼を完全に崩壊させた」との指摘から始まり、このことを「世界史の中にどう位置づけるか」との問題提起は、極めて重要であり知的興味がそそられる▲「知性の崩壊」は、今や誰の目にも明らかになってきている。とりわけトランプ米大統領の振る舞い及び周辺の動きは「米国の分断・分裂」を明確にしただけでなく、日本にも「謀略論」の復活をもたらそうとしている。そんな状況のなか、『日本人はなぜ存在するか』を読んだ。「日本人とはいったい何か」とのテーマを巡って、国籍、民族、歴史に根拠はあるのかどうかを、社会学、哲学、人類学など様々の学問のアプローチを駆使して探っている。それはそれで興味深いのだが、より惹きつけられたのは、最終章の「解説にかえて平成の終わりから教養の始まりへ」だ。とくに、大学がこれから「独学との競争」に晒されるとのくだりは面白い▲AIの進展と共に、大学で教授から学ばずとも、スマホでグーグルにアクセスすれば、解は一発で求められる。かつての「知への山脈」はいとも簡単に崩れ去り、我々の眼前にそれは皿の上の手料理のように横たわっている。何の苦労もせずに先人の築いた「知の宝庫」が誰にでも手に入れられるのだ。時あたかも、コロナ禍でフェイスツーフェイスの教室での聴く講義から、オンラインでの見る講義が余儀なくされている。いやまして「独学の時代」の到来だとも言えるのである。大学教授はオンラインの狭間で独自の価値を編み出せるかどうかが問われ、学生の方は、単なる独学以上のものを、教授からどう得ていくかが求められてくる。この本は、大学の教授として脂の乗り切った矢先に躁鬱病を患った人の手になるものだけに、より「知性の存亡」が問われることがリアルに見えて来て興味深い▲この本は様々な意味で、今の時代の切り口のようなものを提起してくれている。それは「国家の擬人化」といった一見硬いとっつきにくい政治論的テーマから、「『シン・ゴジラ』『君の名は。』などといった一見柔らかい文化論的テーマまで、広範囲に料理してくれていて参考になる。著者はご自身の病気の体験談を含めて、平成という時代と真正面から取り組んだ『知性は死なない』というタイトルの本を少し後に出している。この本の続編の趣きがある。その意味では、わかりづらく食指が動かない危険のあるタイトルよりも『知性は死にそう』とか『死に瀕した知性』と言う風なものの方がいいかもしれないと思ってしまう。(2021-2-5  一部再修正)

 

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