Monthly Archives: 9月 2017

(228)人類の歴史を俯瞰する達成感ーU・N・ハラリ『サピエンス全史』(柴田裕之訳)を読む

今年のビジネス書大賞を受賞し、読者が選ぶビジネス書グランプリ1位に輝く本を読み終え、不思議な達成感に浸っている。何しろ全世界で500万部も売れているというのだから。ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエル人歴史学者の書いた『サピエンス全史上下』(柴田裕之訳)である。顔写真からは、飛び切り鋭利で神経質そうに見える。あまりお近づきになりたくない雰囲気の人だ。これを薦めてくれたのは笑医塾塾長の高柳和江女史。とにかく面白いと絶賛されたのが8月上旬。彼女が神戸に来た時のこと。で、すんなりと読んだわけではない。なかなか嵌らず苦しんだ。しかしなんとか読み進められたのは、彼女のお勧め本には外れがないことが大きい。また、認知革命から農業革命、そして科学革命という風に、有史以前から今日にいたる135億年ほどの膨大な期間を大きく三つに分け、「文明の構造と人類の幸福」という命題をざっくりと大胆に料理してくれるていること。それに惹かれて何とか読み終えることができた。すると、そこには、何はともあれ人類の歴史を解った思いにさせてくれる達成感と、意外にも仏教徒の誇りを刺激してくれるものが待っていたのである▼いわゆるビッグバンによって、物質とエネルギーが現れ、物理的現象や科学的現象の始まりから、地球という惑星が形成されるまで約90億年。生物学的現象が始まって有機体(生物)が出現したのは38億年前。ヒトとチンパンジーの最期の共通の祖先が誕生したのが600万年前。ようやくアフリカでホモ(ヒト)族が進化して最初の石器が出来たのが250万年前。さらにヨーロッパ、中東でネアンデルタール人が、東アフリカでホモ・サピエンスが進化したのがそれぞれ50万年、20万年前と言われても、ただただそうかいな、ほんまかいな、気の遠くなるほど前のことやなあというのが精いっぱいの感想。ようやく認知革命が起こったのが7万年前と言われて、ようやく正気になると言ったところか。実はここから本書の著述は始まる。それまでは僅か1ページにまとめられた年表からの類推なのである▶ある意味でこの本の構造は簡単だ。要するに人類が地上に棲むすべての生き物を殺戮してしまい、残るのは人類と家畜だけになるという「予言」なのだ。そして、科学革命の行きつく先は、科学者たちが脳をコンピューターにつなぐことで、心をその中に生み出そうとしている、それをこのままいくと誰も止められないのではないのかという「警告」である。この予言と警告はこれまでもいたるところで繰り返されてはきた。しかし、この本ほど系統だてて書いたものはあまりないので、効き目がなかった。しかし、この本はビジネス書の体裁をとってるがゆえに、初めて人類の「傲慢」とでもいうべき罪深き特質を叩きのめしてくれるかもしれない▼最後の「文明は人間を幸福にしたのか」と「超ホモ・サピエンスの時代へ」の2章がとくに関心を持って読めた。わたし的にはこの2章、特に前者を幾たびか読むことで十分にこの本の値打ちが分った。結論はこれまた簡単だ。人類の歴史理解にとって最大の欠落は、「社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播」といった歴史上の数々の問題が「各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたかについては、何一つ言及していない」ということに尽きる。しかも、著者は、人間の幸せは「汝自身を知れ」との言葉がカギを握っており、これは裏返せば、普通の人々が真の幸福については無知であることを意味するとしている。そして「特に興味深いのが仏教の立場だ」として、己が心を自身で操れる方途としての仏教に強い期待を措いている。ここは我が意を得たり、というのが日蓮仏教の徒である私などの受け止め方だ。「心の師となるとも心を師とせざれ」という日蓮大聖人の簡潔な一文を座右の銘とするものにとって極めて分かりやすい結論であった。こう結論付けるといかにも我田引水的に受け止められるかもしれない。勿論、それを現実のものにできるのは、単に頭で理解するだけではなく、お題目を唱えるとの行為が裏付けとなっていることを知らねばならないのだが。(2017・9・29)

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(227)「賢者は自らを律し、愚者は恣にする」──丹羽宇一郎『死ぬほど読書』を読む

 丹羽宇一郎『死ぬほど読書』──この本を読むかどうか、いささか悩んだ。今さら読書について読むのかよ、いい加減にしときな、との声が我が脳中に去来したからだ。だが結局読む羽目に。一つはタイトルに、今一つは彼が元中国大使だったことに惹かれた。丹羽さんは民主党政権時代に中国の大使になられ、あの「尖閣問題」騒ぎの際に日中間の渦中にあったことは周知のとおり。あまり目立った業績は挙げられなかったとの印象が強いが、帰任後『中国の大問題』『戦争の大問題』など時事的テーマで矢継ぎ早に出版され、今度は読書論。これも『読書の大問題』とでもして、異なった角度で書いてほしかったと思わないでもない。

 この人は昭和14年生まれ。企業人として中々の辣腕家との評が高い。しかも相当の読書家との誉れも高い。民間人として鳴り物入りの大使起用だった。偶々衆議院外務委員会に私が所属していた頃で、赴任される直前に同委理事会メンバーと一緒に懇談した。別れ際に何でもご注文あらばメールください、返事しますとのことだったので、その後の問題発生の最中に送った。しかし、不幸にも、為しのつぶて。お忙しかったのだろうが、返事が欲しかった。

さてこの本を読んでの感想は、特に若い人にはお勧めしたい。読書に関する本を数多読んできた身にとって、期待したのは二つ。一つは死ぬほど読書したという具体的体験論。もう一つはそれをどう身につけられたのかという具体的方法論。残念ながら、どちらも平凡の域を出なかった。尤も、そういうことは、多くの論者によってもう出尽くしている。今も私の記憶に残るのは井上ひさしさんの色鉛筆の使い方や、橋本五郎さんの「二回半読む」というやり方。佐藤優さんの集中的読書の後、一定の時間が経ってからの読み直しなどなど。ただし、丹羽さんが文中、さりげなく触れられたり、あるいは勧める本は歯応えがありそうなものばかり。アレクシス・カレル『人間──この未知なるもの』、横井清『中世民衆の生活文化』、オウィディウス『アルス・アマトリア』、西岡常一『木のいのち木のこころ』、エリック・ホッファー『現代という時代の気質』、『大航海時代叢書』全42巻中の25巻など。私の書棚には勿論ないし、これからの読書計画にも入ってこないに違いない。

読書録に書くにあたって、改めて読み返すと、やはりこのひと、ただ者ではないことが分かる。特に、世に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というが、「私は怪しい」と思うとされ、「賢者は自らを律し、愚者は恣(ほしいまま)にする」と言い換えたいとしているくだりは興味深い。「歴史は繰り返す」ことからすると、いかに賢者であっても歴史から学ぶことは難しい、と。平々凡々な私など「どちらも正しい」と思ってしまう。最後に、著者の意向で、この本の印税は「伊藤忠兵衛関連の資料保全のため『滋賀大学経済学部附属史料館』と、中国から日本への私費留学生への奨学金として『公益社団法人日本中国友好協会』に、全額寄付されます」とあった。凄い。これは。さすが名だたる経済人。これまで丹羽さんを斜視に見がちであった私の目からうろこが落ちた。

さて来週からフランス、ドイツ、ベルギーと訪問することは既に前回書いた。実はパリで木寺昌人大使と会うことにしている。一緒に佐藤地ユネスコ大使とも。この二人は私が現職の頃に大変にお世話になり、親しくさせて頂いた。木寺さんは西宮元中国大使が急逝されたあとのリリーフ。フランス大使には横滑りだったので帰任祝いもなく、送別会どころでもなかった。「分断」が懸念される世界にあって、「中華思想」の双璧ともされる中国とフランス両国に通暁するこのひとに、あれこれと訊いてみたい。また、佐藤地さんは、先般「明治日本の産業革命遺産」への記載決定にあたって話題を提供したひとだけに、後日談を聞いてみたい。

【他生のご縁

丹羽宇一郎さんとの出会いはここに書いたように、衆議院外務委員会理事会懇談会の時だけ。メールをいただければ、と言われたからしたのに、返事は来なかったと恨みがましい自分が哀れに思えてきます。恐らく激務でそれどころじゃなかったのでしょう。ないものねだりは私の常ですが、執念深さも加わりそうです。尤も、何を書いたか忘れてしまっているのには我ながら笑えます。

 一方、中国大使ののち、フランス大使に転じた木寺昌人さんは、実にこまめに対応してくれたことを称賛にあたいします。パリに赴いた私の友人たちの大小様々な要望を聞いてくれました。それもこれも、過去の繋がりがなせるわざ以外何ものでもありません。人との交流にあたり自省するところ大です。「人の振り見て我が振り直せ」とは、遠い昔に親から聞いた教えです。

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(226)世界最強の女帝の謎や韓国人の品性を暴く本を読む

今月末にフランス、ドイツへ行く予定を立てている。古くからの友人からのお招きもあり、思い切っていくことにした。その準備のために両国に関係する本を読もうと思い立った。まずはドイツ人の生活に関する本を幾冊も出している評論家の沖幸子さん(フラオグルッペ社長)に訊いた。お勧め本はないか、と。直ちに佐藤伸行『世界最強の女帝メルケルの謎』を挙げてくれた。佐藤氏は追手門学院大教授で、元は時事通信の欧州担当記者だった。90年代にハンブルグやベルリンで取材したとあって滅法ドイツ事情には詳しい。この本の出版は昨年のこと。今までメルケルについては殆ど知らなかった私も一気にひきこまれた。実に面白く読めてドイツを分かった気にさせてくれる。そして何より新聞記者らしく切れ味のいい文章が魅力的だ▼彼女の生い立ちから今に至る人物像が描かれる1~4章までが特にいい。とりわけ「魔女メルケルの父親殺し」がいかにも謎めいている。先日亡くなったコール元首相をはじめとする引き立て役の男たちが次つぎと失脚し、その政治的遺産が転がり込み、本人は肥え太っていく。ドイツにおける不吉なジンクスだというのだが、さてご本人の思いは、どんなもんだろうか。旧東ドイツで育った物理学者出身。父は「赤い牧師」。ださいスカートと髪形を上司から注意されたこととか、笑い上戸にまつわるエピソードやら、二度の結婚など下世話な話題が満載されている。後半は中国、アメリカ、ロシアなどとの外交展開が触れられ、エマニュエル・トッドの「ドイツ帝国が世界を滅ぼす」との過激なフレーズの「謎解き」にもなっている▼次はフランス関係のものに進みたいところだが、残念ながら読み切れておらず、次回まわしに。ところで先日、高校の同期会(十六夜会という、長田高校16回生の集い)で、ある友人からお前の顔は悪いけど韓国の新大統領(文在寅)に似てると言われた。以前に同僚代議士から北朝鮮の金正日総書記(当時)に似てると言われたことがあるから、別に悪くはない。北から南へと多少進歩したかと喜ぶわけにもいかないが、まあいずれにしてもコリア系か(その昔、北大路欣也に似てると言われたのに)と密かに笑った。そんな矢先に、畏友・古田博司筑波大教授から『韓国・韓国人の品性』という本が届いた。3年半前に出版された『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』に新たに、まえがき、第一章を加え、改題・改訂した新版だという。この人は、慶大文学部を出た後、韓国に留学、奥さんが在日韓国人。アジアオープンフォーラムの場で知り合い、懇意になった。朝鮮半島問題に通じた学者というよりも思想家の趣きを近年強めている。さらに大きな存在になられるに違いない。だが、その前にコリア系のテロリストから殺害されるのではないかと本気で心配している▶ともかく過激だ、帯には、韓国人は平気でウソをつく。北も南も見栄っ張り。「卑劣」の意味が理解できない。「法治」もない。あるのは憎悪の反日ナショナリズムだけだ。「助けず、教えず、関わらず」の非韓3原則で対処せよ、北も南もいずれ滅びて半島から逃げ出すなどと、恐ろしいほどの悪口罵詈が露出している。北朝鮮からのミサイル発射騒ぎで、お色直し的緊急出版を迫られたのだろう。まえがきには「日本人は嫌いなものから目をそらす癖がある。いま北朝鮮からミサイルが飛んできても、きっと落ちないだろうと目をそらしている。嫌いなものをみたくないので、どうしても無傷を想定してしまう」とし、日米戦争のすえ、100倍返しで300万人も殺された日本人も「もう歴史から学んでもよい頃だろう」と警告。一方、あとがきでは「筆者の立ち位置は相変わらずブレていない。西洋近代化は善で、ゆえに資本主義も民主主義も善である。それがうまくいかない国々に問題がある」と持論を展開する。私としては、善ではあっても最善とは思えず、資本主義、民主主義のほころびが気になって仕方ない。日本近代化のありように不満と疑問を持つ人間など、彼から見ると、朝鮮半島や中国を知らない”愚かな贅沢もん”というほかないのかもしれない。(2017・9・8)

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(225)日本文明の底流に潜む忘れもの━━斎藤健『転落の歴史に何を見るか』を読む

 官僚がその職務を何らかの理由で離れて後に、あれこれと出版することは珍しくない。勿論、その職務についている間に書く人も外務官僚などには多い。しかし、官僚の現役時代に書いていて、後に政治家に転出したという人はあまりいないように思われる。斎藤健経済産業大臣、当選5回──元通産官僚である。この人が書いた『転落の歴史に何を見るか』は並の政治家や評論家らが書いた数多の書物の中で傑出しており、鋭く面白い。21世紀の劈頭に世に出たこの本の存在を知ってはいたが、残念ながら読まずに来た。信頼する同世代の厚生官僚の勧めでその気になった。

 明治維新から今日まで約150年の歴史の捉え方のうち、時代区分をどう区切るかについては諸説あるが、一番ポピュラーなのは「40年間づつの興隆から転落に至る二度の繰り返し」との見方であろう。つまり、維新から40年後の日露戦争の勝利、そして40年後の第二次大戦の敗戦。さらにまた40年後の高度経済成長を経てのバブル絶頂から、2025年の少子高齢社会のピーク(どん底)に至るまでの苦難の流れまで。これは評論家の半藤一利氏の持論によるところが大きいが、斎藤氏はこのうち、日露戦争までの時代からその後の第二次大戦の敗戦までに焦点を絞って分析している。

 副題にあげた「奉天会戦からノモンハン事件へ」という34年間を、対比しつつ事細かに料理しているのだ。同じ日本の陸軍がなにゆえにかくも対照的に栄光から暗黒へと転落していったかを。大胆に短くまとめると、明治の元勲たちはジェネラリストが多かったが、やがて世代が変わり、その後のリーダーにはスペシャリストはいても、ジェネラリストが育たなかったからだ、と結論づけている。国家をはじめあらゆる組織にあって、ジェネラリスト養成のための教育こそが求められるというわけだ。

●求め続けたい「西欧思想の日本化」

 明治という時代を築いてきた先達たちが、欧米列強による植民地化を防ぐべく、必死の努力をしてきたことを認めるのにやぶさかではない。しかし、仮に徳川幕府が「維新」で倒れないまま命脈を保っていたらどうだったか、という歴史のifにもいささか魅力を感じる。勿論、具体的に過去を追うと、たちどころに行き詰ってしまうぐらいの、やわな仮説ではある。だが、徳川の幕臣たちが維新政府の「官賊」に比べていかに優秀だったかなどという歴史的証拠だてやら、長州藩士の会津藩への冷酷無情な仕打ちを思うにつけ、あらぬ妄説とは断じきれぬものを抱く。

 ゆえに、明治の元勲たちを全肯定出来ないのである。そこには、吉田松陰のもとに松下村塾の中から育っていった”テロリスト”まがいの志士たちと、20年の歳月を経て国家経営の中心となっていった伊藤博文や山縣有朋らとの落差を素直に認められないものがあるのだ。つまりは、明治を作っていったものの中に、成功の因も失敗の因も同時に育まれていったはず、という見立てから私は逃れられない。すなわち、明治の元勲たちをジェネラリストとして認めたうえで、その後の誤りの因を、スタートの時点で同時に内在させていたのだとの見方を持つ。

 で、私としては、むしろ明治維新の孕む問題は、文明的観点から大きく言って二つあると考える。一つはギリシャ・ローマ以来の近代ヨーロッパ哲学プラスキリスト教文明という、西欧思想を無批判に受け入れてしまったこと。二つは、表向きには今述べたように外来思想を受容しながら、その実、古代日本いらいの”伝統的宗教哲学”としての国家神道を”天皇の復活”と共に、実質的に蘇らせたことである。前者は、日本文明が一貫して持ち続けてきた外来の思想哲学を日本風にアレンジするという作業を怠ってしまったことを意味する。

 そして、それだけでにとどまらず千数百年の時を経ての熟成した日本思想の伝統をかなぐり捨てて、文字通り単純な”先祖帰り”をしてしまったのである。斎藤健さんの視点は極めてリアルなものに根差しているのに比して、これはあまりにも茫漠としたつかみどころのない空論かもしれない。「西欧思想の日本化」とは果たしてどういうものを指すのか。「西洋の没落」が名実ともに具現化してきた今こそ、懸命に追い求めなければならない魅惑あるテーマだと私には思われる。

【他生の縁 著作を通じ相互に繋がる】

私がその才能を認め、高く評価してきた斎藤健さんが『77年の興亡』を読んで感想を手紙で送ってきてくれました。公明党以外の現職政治家では初めてのこと。しっかり読んでくれたことに感謝の念を抱きました。

 その手紙には「ウクライナ侵略から見る台湾有事」と題した彼のメルマガから転載された論考が同封されていました。深い分析と共に。考え抜かれた視点が光る内容に感動しました。

 政治家とカネの問題で揺れ動いた時期に経産相として登用されました。これから更なる活躍を望みたい政治家のひとりです。

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