一冊の本を読む気になるには、色んな動機があるが、タイトルも大いに関係してくる。標題に挙げたものは、堅苦しい感じがして、いささか〝読欲〟が湧いてこなかった。むしろ、第一部の見出しにある「瀬戸際に立つ日本の皇室」とか、第二部の「日本は女系天皇を公認すべし」の方がいいのではないか。著者の一人である大前繁雄さんから贈呈していだいておきながら、長く放置していた言い訳かもしれないが。総選挙が終わって読んだ。重要なテーマが見事に料理されており、為になる素晴らしい本だ。食わず嫌いだったことを恥じる。大前さんとは、かねて兵庫県下の政治家同士とし、また公益財団法人「奥山保全トラスト」での同僚理事として「共戦」してきた仲だが、改めてリスペクトの思いを強めることになった◆韓国、ネパール、ブータンの旅行記から説き起こして、皇室のかけがえのなさを述べて、上皇陛下のビデオメッセージの持つ意味を解読してみせる。大前さん担当の導入部は実に手際がいい。結論としての、「女性宮家創設と旧宮家の子孫の一部皇籍復帰」を主旨とした、皇室典範改正を緊急に行うべきだとの主張もストンと落ちる。文明批評家の中島英迪氏による第二部は、天皇にまつわる難題を12に分けて、問答形式で解き明かす。天皇制度にいかなる価値があるのかとの基本から入って、女系天皇に理論的な根拠あり、と示す。そのうえで、男系・父系こそが日本の伝統に叶うものとする議論を完膚なきまで論破している。論理展開の小気味良さに痺れる思いだ◆男系主義を主張する人たちの理屈とは何か。「歴代の全ての天皇についてその父方をたどれば、初代の神武天皇に行きつくことになる」が、もし女性天皇が一般男子と結婚して子を儲けたとしても、その子の父である一般男子を遡っても、神武天皇にたどりつかない可能性が大きく、その子供が即位すると女系天皇になってしまい、正当性がなくなるという。これを中島氏は、出自が皇族である人々も、この二千年の間で膨大な数に上り、父方をたどって行けば、ほとんど全ての日本人の祖先は神武天皇に行き着くことになって、現在、神武天皇の子孫でない方がむしろ稀だとする。そのため「女性天皇がどの一般男性と結婚しても、彼は男系男子ということ」で、男系主義者たちの理屈は破綻し、正当性を失うというのだ◆私はかねて、天皇はなぜ男系男子でなければならないのか、と疑問を抱いてきた。衆議院憲法調査会で発言をする機会があった時も、「女性天皇でいい」と述べた。尤も、それはどちらかと言えば、男女平等に反するとの単純な理由であり、女性と女系、また男系との区別を明確に認識した上のものではなかった。この本を読み、そのあたりの理解を深めることが出来た。加えて、上皇陛下と安倍晋三氏らとの確執めいたものの問題の所在も改めて分かった。第二次大戦後、私たちは「象徴天皇」と共に歩んできた。だが、「天皇」を深く考えることはタブー視する傾向がなきにしもあらずだった。戦前までの「天皇神格化」の負の側面のみを強調する歴史認識のもとで、失ってきたものは少なくない。これも、この本で感じさせられた気がする。(2021-11-26)
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[7]『慶喜の弁明』も霧の中ー鹿島茂『渋沢栄一』下 論語編を読む/11-15
渋沢栄一(上)を取り上げてから随分時間が経った。(下)はもうよそうかと思ったものの、思い直して挑戦することにした。NHK大河ドラマでの放映も3分の2ほど進み、佳境に入ってきている。鹿島さんの本は、算盤編、論語編と、上下に分かれているものの、さしたる区別はなく、人生の前半と後半に分けてあるだけ。波乱万丈だった若き日を描いたのが(上)で、中年以降の事業拡大に向けての壮絶なまでの渋沢の動きを追ったのが(下)である。渋沢の人生を描いたこの上下2冊を通じ、旧来的な歴史上の興味で、最も関心を呼ぶのは、徳川慶喜の江戸末期の動きである。しかも渋沢は、『徳川慶喜公伝』の編纂に携わった。鹿島さんは、渋沢が晩年心血注いだ最大の事業だとまでいう◆大政奉還から鳥羽伏見の戦い、そして維新に至る慶喜の身の振り方が、結局は卑怯者で臆病な人物であったと見てしまいがちなのが一般的である。好意的な立場からのものであっても、結局はよくわからないというのが、せいぜいの落としどころのようだ。渋沢は、その不可解な人物に仕えた。なぜ敵前逃亡的な行動をとったのかとの、率直な疑問まで本人にぶつけたという。一切を語らず沈黙を守っていた慶喜が重い口を開いたのは、明治も20年を過ぎてからのことである。鹿島さんは、「国家百年の計を考えて自ら身を引いた慶喜の複雑な心理を理解するに及んで、渋沢の心に、主君の偉大さに対する強い尊敬の念とともに、強い義憤が湧いてきた」(第63回)と書き、伝記執筆で主君の無念をはらそうと、決意する◆しかし、それでもさらに約20年後の明治40年になって、慶喜自身の証言を聞き出すための「昔夢会」なる、史談の会まで、結論は待たねばならなかった。では、そこで主君の無念を明快に晴らすだけの事実が明らかにできたかというと、実はそうではない。むしろ、一層霧の中に包まれることになってしまったのである。それは、我が身を飾ろうとしない慶喜自身の性癖と、歴史家に徹して評価に公平を期そうとする渋沢の姿勢が重なって災いしたと思われる。その背景には明治35年に慶喜に公爵位が授けられ、完全な名誉回復が実現したこともある。当初の義憤を伝記で晴らす、つまり「弁明」する必要がなくなったと言えなくもない事態が生まれたのだ。結局、「慶喜の事実は藪の中」にあることの責めの一端は、渋沢栄一にもあると言わざるをえない◆一方、論語篇のよってきたる所以を探る意味で、第62回の「『論語』と『算盤』」も精読した。著者は、「渋沢は、自己本位の利潤追求はかえって、自己の利益を妨げるという資本主義のパラドックスを十分に理解した上で、『論語』に基礎を置く『算盤』を主張している」のであり、「近代日本における野放しの資本主義の跋扈は、江戸時代から引きずってきた『論語』オンリーの考え方の反動である」という。渋沢が「論語」と「算盤」の融合を目指したのは、「『論語』を我が物にしながら、『算盤』の論理の内側に止まった『父』を止揚しようとする『息子』の原体験から生まれたものに他ならない」と結論づける。明治維新から、先の「大戦敗北」を真ん中において、2つの77年を経たいま、改めて「論語」の重要性に気づかざるをえない。第一の77年の興亡は、澁沢によって「論語と算盤」の融合がそれなりに試みられたが、第二の77年にあっては、「戦後民主主義」の跋扈によって、「論語」は忘れ去られた感が強い。第三の興亡史がこれから始まろうとする今、改めて「渋沢栄一」が脚光を浴びることは、なかなか意義深いといえよう。(2021-11-17 一部修正)
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[6]世界を分断する「環境」と「原発」ー杉山大志編著『SDGsの不都合な真実』を読む/11-10
ほぼ1ヶ月まともに本を読まずに過ごしたが、ようやく総選挙も終わり、この読書録も再開したい。取り上げるのは、日本最大の自然保護団体である「日本熊森協会」の森山まり子前会長から、読んで頂きたいと送られてきた本だ。「『脱炭素』が世界を救うの大嘘」がサブタイトル。環境派(「脱炭素」優先)vs経済成長派(「原発」優先)の是非を問う動きが世界を分断させつつあるが、この本は、前者の「非」を徹して叩き、後者の「是」を〝そこはかとなく〟主張する本である。私は、「真実は中間にあり」との信念を持つ。この問題も結局は、両者の中間に落ち着かせるしかないと思っている◆13人の論客たちの揃い踏み。私の興味を引いた論考は4つ。まずは、編著者の杉山氏(キャノングローバル戦略研究所研究主幹)の「世界的『脱炭素』で中国が一人勝ちの構図 『環境』優先で軽視される人権問題」から。長い見出しが全てを物語っており、このテーマが、一皮向けば、中国に率いられる後発諸国と欧米など先進諸国の争いだということを明確にする。現代世界の異端児・中国を敵視扱いしたい気持ちは分かるが、それを平和裡に乗り越えねば、地球に明日はない。杉山論文始め「再エネが日本を破壊する」との第一章の他の3論考を読むにつけ、「原発」重視の意向が透けて見えてくる◆次に第2章「正義なきグリーンバブル」からは、ジャーナリストの伊藤博敏氏の「小泉純一郎元首相も騙された!魑魅魍魎が跋扈『グリーンバブル』の内幕」を読む。見出しから予想される通り、東京地検特捜部がこの5月に摘発した再生エネルギー会社「テクノシステム」の詐欺事件について斬り込んでいる。この事件では私の後輩の元衆議院議員が、残念なことに現在捜査対象になっている。総選挙前には、嘘かまことか、ターゲットは広告塔になっていた小泉親子で、T元議員は哀れなダミーと囁かれていた。第3章「『地球温暖化』の暗部」からは、有馬純東大特任教授の「現実を無視する『環境原理主義』は世界を不幸にする」が読ませる。「環境活動家はスイカである」という謎かけを引っ張り出して、かのグレタ・トゥーンベリを叩き、全体主義、社会主義との親和性をあげつらっている。その心は、「外側は緑だが中は赤い」ときた。中々面白い。有馬さんといえば、我が党の原発推進論者との党理論誌上での対談が印象に残る◆第4章は、産経新聞論説委員の長辻象平氏の「コストも妥当、安全性は超優秀 世界で導入が進む『次世代原発』の実力」。「原発」がしんがりに真正面から登場。「やっぱり」との思いが強い。「安全安心の『高温ガス炉』」と言われても、俄に信じがたい。ここでは「中国では日本と対照的に、政治主導者がエネルギーの重要性と高温ガス炉の科学技術をしっかり理解している」と、日本を貶め、中国を妙に持ち上げている。こう書いてくると、私があたかもゴリゴリの環境派に見えてこよう。しかし、いささか極端で気になったくだりを挙げたに過ぎない。最初に述べたように、私はどちらにも真実は含まれ、嘘も混じっていると思っているだけだ。さて、森山さんはどうしてこの本を私に読めと勧めるのだろうか。スイカ割りをして、その中がどんな色か、試すつもりなのかもしれない。(2021-11-10)
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