この本を読むまで、分かったような気でいた「福沢諭吉観」が音を立てて崩れた。近代日本を代表する合理主義者であり、個人主義、自由主義の開祖的存在といった見方を「それほどつまらぬものはない」と西部は切り捨てる。同時に、その「精神の構え方を凝視」すれば、むしろ「武士、儒者、愛国者」の側面を持つ明治人像が浮かび上がってくるという。これだけを読めば、真正保守主義者・西部邁特有の〝我田引水的論法〟に思えてこよう。サブタイトルの「武士道と愛国心」は、近代ヨーロッパ思想に習熟し、その輸入に尽力した諭吉とは、いささか縁遠いものとの思い込みが誰にも漠然とながらあるからだ◆なぜ誤った見方が流布したかについて、西部は「境界人(マージナル・マン)」というキーワードを提起して読み解く。「良識・常識」によって培われたオリジナルな思想を持つ諭吉は、「二つの異なった領域のあいだの相克の模様を眺めることを通じて」、両者の本質的差異を見抜く力を持つに至った、と。私の理解では、例えば神道、儒学や仏教などによって形成された日本固有の思想と、キリスト教、ギリシャ哲学などによって作り上げられた近代ヨーロッパ思想の双方を、境界線上の位置から、諭吉は両者を的確に把握したということではないか。この観点から西部は、既成の領域に捉われた人々の愚を徹して暴く◆その血祭りにあげられているのが、丸山真男である。この人の『「文明論之概略」を読む』(昭和61年)を俎上に載せて、「濃い色眼鏡で、しかも左眼だけでみた諭吉像に過ぎない」「自分の好みに合わせた一面的かつ単層的諭吉像」などと、全編至る所でこき下ろしている。かつて私も新書版3冊からなるこの本と格闘した。いわゆる戦後の進歩的知識人の代表格とされてきた丸山をかくほどまでに論理的に貶めて、小気味いいまでの切れ味を示した書物を私は知らない。西部の論理展開は少々分かりづらい表現もあり、一般には難しいものの、一連の批判部分は読みやすく納得させられる◆西部は、日本が20世紀全般を通じて、「ナショナリズムの過多(国粋主義)とナショナリズムの過小(欧化主義)のあいだを落ち着きなく往復してきた」と位置付ける。そして、その原因こそ、福沢諭吉に見る平衡感覚が理解されてこなかったからだと結論づける。最もポピュラーな名前でありながら、その何者であるかが遂にいわば謎のままに終わっていることを嘆く。結語の「批評家」は、「臨界人」を巡って極めて示唆に富む論点が披歴されていて、興味は尽きない。慶應義塾で学んで半世紀が経つ私だが、その全人像を知り得る入口に漸く立った。(2021-9-1)
※前号で、ブログ読書録『忙中本あり』は通算400回を迎えました。今号より、毎回ナンバーを振って、当面は100回を目標に、通算500回を目指します。