Monthly Archives: 11月 2020

(367)「謀略・陰謀」史観の〝迫真性〟に驚くー馬渕睦夫『2021年 世界の真実を読む』

親しい友人との会話の中で、「馬渕睦夫」なる名前が出てきて、この人の本のおかげで、日本の近代史についての自分の長年抱いてきた疑問が見事に消えたという。驚いた。元ウクライナ大使で、少し前に「日本熊森協会」顧問に名を連ねられたことは知っていた。森山まり子同会名誉会長が「国際問題に明るい凄い人」と感嘆してたことも思い起こす。その友人が持ってた本(『自立する日本』)を借りて読んだことは既に紹介した。改めて『2021年 世界の真実』を購入し、一気に読んだ。この人のユーチューブも幾つか見た。いやはや驚いた。新聞やテレビなどで主に報じられていることと真逆のことを主張されており、トランプ米大統領をこよなく評価、絶賛されている▲本を読み終えた直後に大統領選の大まかな結果が分かった。彼の期待した予測がほぼ外れて、バイデン大統領が実現する見通しになった。さあ、この状態をご本人はどう解説するのか。興味深く最新のユーチューブ(第57回)を見た。驚いた。全く動ぜず、この選挙で大いなる不正があった、トランプ氏は勝ったのだと繰り返された。ただし、行われた不正の中身についての言及は、つまりその証拠については触れられていない。米日のメディアが殆ど全て間違った報道をしているとの強調だけが耳朶に残る▲この本の中で、馬渕氏は、トランプ再選で、大きな軍事的紛争が回避され、各国が自国民の福利を最優先する「自国第一主義」に回帰し始めるとし、負ければ世界は軍事的な熱戦に突入すると予測する。彼によると、ディープ・ステート(DS=「国際金融資本」といった方がイメージしやすい)の世界支配に敢然と戦っているのがトランプ氏で、それに完全に侵されてるのが民主党だという。DSの一連の動きの黒幕の一人がジョージ・ソロスで、極左暴力革命集団に資金援助をして社会的緊張を高める役割を果たさせているというのだ。馬渕氏のグローバリズム批判は、即インターナショナリズム批判に通じ、ナショナリズム礼賛の次元に終わっているように見える▲DSの「謀略・陰謀」によって世界がこれまで支配されてきたとの見立ては、概ね一笑に付されてきた。しかし、一方で「ケネディ暗殺」に代表される不可解な事件の存在は、その笑いを押し返す。世界の理解の仕方、この世をどう見るかは、各人自由だが、世界を破滅の方向に誘導するものには与したくない。人気漫画アニメ『鬼滅の刃』が受けているのも、その気分の反映かもしれない。〝マブチスト〟なる言葉が静かに語られるほど信奉者は急増している。大統領選への見方も某月刊誌の論調は〝マブチズム〟に彩られている。馬渕氏は私と同い年。老いて華麗なるデビューをされたかに見える。この人の「世界覇権・10年戦争が始まった」との説は興味深い。その術中に嵌らず、〝超グローバリズム〟に立つ私なりに注視し続けたい。(2020-11-28)

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(366)コロナ禍後の世界へのこよなきヒントー大谷悠『都市の〈隙間〉から まちをつくろう』を読む

「ドイツ・ライプツィヒに学ぶ 空き家と空き地のつかいかた」という長いサブタイトルがついた、とても可愛い装丁の本が届いた。一読、移動がままならぬ「withコロナ」の時代の生き方のヒントが満載された素敵な本だと直感する。新たな世紀の青春絵巻とも読めるし、東西ドイツ統一後の地域史の変遷とも。ただならぬ本だよと、多くの若者にも薦めたい。著者の大谷悠さん(35)の肩書きは「まちづくり活動家・研究者」とあるが、昨年東大の新領域創成科学研究科で博士号(環境学)を取得し、現在は尾道市立大学で非常勤講師も務める新進気鋭の行動する学者である。仲間と共に約10年(2011-2019)ほど、ライプツィヒの空き家を「日本の家」と銘打って運営して、まちづくりに貢献してきた。この本はその活動を通じての体験をもとにまとめたもの。コロナ禍の今なればこそ読まれるべきグッドタイミングの出版だ。

 1960年代に青春を過ごした世代にとって、小田実の『何でも見てやろう』に代表されるような未だ見ぬ世界を「旅すること」がその〝若さのあかし〟であった。その流れは21世紀へと続いてきた。2020年の幕開けと共に突然降って沸いたような新型コロナの蔓延は国境を超える旅を困難にし、「移動」に赤信号をともす。そうした時代の到来を先取りしたかの如く、著者は2010年代に──彼にとっての20歳代後半から30歳代半ばまで──ライプツィヒに住まい、その地を拠点に「空き家と空き地」の再利用を考え、実践してきた。つまり、あちこち動いた体験ではなく、定点に腰を据えて、そのつかいかたに思いを凝らした。その記録であるこの本は期せずして〝新時代の青春記〟にもなっているし、これからの時代の〝町おこし指南書〟ともなっているのだ。

ライプツィヒは旧東ドイツの都市で人口約60万人ぐらいという。日本では我が故郷・姫路よりちょっと大きめ。東西ドイツの合体から30年間の歳月の中で、その人口流動は減少と膨張など四度も変化してきた。世界史を揺るがせた東ドイツという共産主義国家の衰退。冒頭でそれを背景にした一都市の興亡が描かれているのだが、これがまた読み応えがある。世紀の一大変化を余儀なくされたライプツィヒの1990〜2010年は、悪戦苦闘の末に蘇っていく。そのキーワードは「隙間」。その隙間に芽生えた4つの仕組み。そしてその隙間に起こった5つの実践。これらが克明に語られたのち、著者が仲間とともに2011年から、つまりこの30年史の後半の10年に取り組んできた「日本の家」のプロジェクトの全貌があかされる。その切り出し方が面白い──そもそもなぜ「日本の家」を始めたか。「暇だったから」というのだ。暇に任せての所産がどんなものか。現地に足を運んで見てみたいとの強い思いに誘われる。

 著者は昨年その家をドイツ人仲間に任せて帰国し、博士論文を書いた。この本はそれを大幅に加筆修正したものである。随所に写真、イラスト、地図、表などが盛り込まれ、ありとあらゆる工夫が視覚に訴え、読むものの心の隙間に入り込んでくる。著者10年のライプツィヒ放浪の希望と挫折がない混ぜになって。今は尾道のまちづくりに取り組んでいるという。実はこの著者の父上は誰あろう、元東京工大副学長だった大谷清氏。姫路の淳心学院高校から東京大学を経て日経新聞記者になり、国際部長などを経たのち、大学経営に携わったという異色の人物。私とは東京在住の同郷人で形成された姫人会(きじんかい)の親しい仲間。その交流ももう30年近く続く。この息子君の存在はつゆ知らなかった。それだけに、「親バカを寛恕いただきたたく」と、突然送られてきたのこの本には驚いた。

 あとがきで著者は、「風来坊の息子をいつも暖かく迎え、寝食を与え、惜しみなくサポートをしてくれた東京の家族」を始め、多くの皆さんに頂いた「御恩は大きすぎて返せないけれど、次の時代のために活動することで、次の世代の人びとに恩を送りたい」とある。イラストを担当しているリリー・モスバウアーさんは著者の夫人。オーストリア人とのこと。東京一極集中の影で、疲弊する地方の限界集落化に悩む日本にとって示唆に富む本の登場。「東京物語」ならぬ、日墺合体での真逆の「尾道物語」の展開に注目したい。

【他生のご縁

この本が出版された直後に中国新聞で

 

 

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(365)ポアロ三部作とマクドナルドの『さむけ』を読み比べ

我が幼き頃の読書体験は、コナン・ドイルのシャーロックホームズの冒険推理小説を貸本屋で借りたことにはじまる。勿論、少年用のもので、大人向けではない。この幼少年期の体験は後々にも影響し、やがて国際政治をバックにしたスパイものに嵌っていった。以来60年を超える歳月が流れ、この間どちらかと言えば推理小説とは馴染みが薄くなったことは否定できない。気がついたら後期高齢者。過ぎゆく時を忘れ、熱中するものを持つことが何よりの楽しみな老後の時間の過ごし方、と思うに至っている。そんな折にテレビで、映画『オリエント急行殺人事件』を観た。ご存知、エルキュール・ポアロの活躍するアガサ・クリスティの小説が原作である。ついでに、コロナ禍の有り余る時間を使って、彼女の代表三部作を一気に読んでしまった。『オリエント急行の殺人』『アクロイド殺し』『ナイルに死す』の順番で。改めて言うまでもないが三者三様で実に面白い▲この三作に共通するのは、犯人の圧倒的な意外性。つまり、登場容疑者がほぼ全員、話の舞台回し役(語り手)、中心人物というように読み終えるまで、およそ犯人像は見えてこない。三作のうち、最も驚いた結末は『アクロイド殺し』。読み手としてもう一歩まで追い詰めた、つまり疑いを持ち続けた通りだった作品は『ナイルに死す』。と、えらそうに言うが、それしかないと思っただけで、根拠は疑わしい。ともあれ、ポアロの確信溢れる犯人の追い込み方には今更ながら圧倒される。『ナイルに死す』は、近くテレビで放映されると言うので待ち遠しい(別に待たずともDVDで観ればいいのだが)。時間の経つのも気づかず、我を忘れるほどにのめり込むものがあれば‥‥。老後の過ごし方はそれに尽きるというのは、確かにそうかも知れぬ▲古典的名作の読後感に浸っている間に、毎日新聞の読書欄でめちゃめちゃに褒め称えた推理小説の存在を知った。ロス・マクドナルド『さむけ』(1963年 小笠原豊樹訳)である。推奨しているのは作家の津村記久子さん。これまで「15年以上にわたって繰り返し読んできた」本で、「自分が読んできたあらゆる小説の中でも最強の幕切れ」という。ここまでいうかと、直ちに買い求め、読んだ。確かに、「ミステリーの歴史に残る最後の一文」には感嘆する。読むこと、書くことを生涯の仕事にしている小説家がそういうのだから、確かなのだろうが、天邪鬼の身にとっては注文がないわけではない▲最大のものは、登場人物の名前が分かりづらいこと。つまり、苗字と名前が入り乱れて登場する(それはそれなりに芸の細やかさなのだろうが)ので、こんがらがってしまう。クリスティのものが決められた容疑者の枠内で犯人を探すルールを自身に課しているよう見えるのに比して、若干枠外に対象が広がってしまうかに思われる傾向(それは誤解なのだが)には、読者として追い辛い。ただ、この作者の凄さ(訳者も)は、文章の旨さ。巧みな比喩の展開と随所に織り込まれた情景描写の味わい深さには驚嘆するばかり。例えば、「峠への道を半ば上がったところで、日の光のなかへ出た。眼下の霧は、山脈の入江に打ち寄せる白い海のようにみえる。一休みした峠の頂きからは、内陸の地平線につらなるもう一つの山脈が見えた」というように(いちいちあげるとキリがない)。津村さんならずとも、文章作法の習練用には打ってつけとして、折り紙をつけたくなる。彼女はノートを取って読み進めたというが、なるほどと思わせるに十分な奥行きと膨らみがある。と、ここまで書いてから、推理小説評論家の権田萬治氏の解説を読んだ。『長いお別れ』で著名なレイモンド・チャンドラーと並び称されるほどの作家だと初めて知った。恥ずかしい限り。ここでも「日暮れて道遠し」を実感したしだい。(2020-11-5)

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